*** 子育ち12章 ***
 

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「第 7-10 章」


『ただいまと 元気な声で パパ帰る』


 ■はじめに

 人は毎日ささやかな喜びを得ているから生きられます。疲れた身体を癒す入浴のひとときもあるでしょう。汗を流してさっぱりした,そんな爽快感もあります。のどが渇いたときに飲むいっぱいの冷たい水に,生き返ったと感じます。

 汚れてきれいになる,疲れて元気になる,飢えて満腹する,このようにいったんマイナスに振れた後,プラスに振れ直すとき,小さな喜びが得られます。生きている実感というものです。終わりよければすべて良し,苦労の後に喜びがくっつけば,気持ちはすっきりと落ち着きます。

 パパや子どもは,夕食を済ませると,「お腹いっぱいになった」と満足しくつろいでいます。ところが,ママはその喜びもつかの間で,後片付けが待っています。また一仕事です。喜びで終わらないので,嫌ですよね。そこにパパが絡めば,少しは気持ちが取り直せるようになります。

 ママを慈しんで,パパが後片付けを引き受けます。犠牲心と言えば大げさですが,やらねばならない雑事を引き受けることで,結果的にママの負担を取り去ることができれば,和やかさが得られます。

 パパが後片付けをすると,ママとしては落ち着かないかもしれません。どちらがすべきということではなくて,雑事を引き受けていないことの後ろめたさです。いずれにしても,暮らしは苦楽の繰り返しであり,常に楽で終わりというわけにはいきません。そこに感謝するという作法が登場してきます。後片付けの終わった連れ合いに,「ご苦労様,ありがとう」,その一言が一日の最後の喜びになります。



【質問7-10:あなたの家庭では,パパの生きる喜びが見えていますか?】

 《「生きる喜び」という意味について,説明が必要ですね!》


 〇なぜ素直になれないのでしょうか?

 お客様が訪れると,お帰りになった後,ホスト側は気疲れをします。長期の夏休みで里帰りをされるでしょうが,どちらの実家であっても,お連れ合いはお客様の立場になります。自分の家のつもりでという気安さが宣言されても,やはり陰ではお互いに気を遣っています。よかれと思い合うのは疲れるものです。

 愛する家族であればこそ,思いやりがいつもまとわりつきます。ママがPTAなどの社会的なつながりを持ったときなど,思いやりがちょっぴりイタズラをすることがあります。ママが用事で出かけるとき,家族にわるいなという気持ちを抱きます。「私は気が進まないのだけど,どうしても出席しなければならないの」と,言い訳をして家を後にします。

 社会的なことに関わっていると,少しずつ楽しくなってきます。それでも,家を出るときは後ろめたさを感じて,言い訳が続きます。家族はやがてママに言うはずです。「いい加減に辞めろよ」。ママは,自分が外に出ることを家族は嫌がっていると感じるはずです。嫌々ながら仕方なく出ているという風に,ママの言い訳がますます重たくなり,家族はますます不機嫌になっていきます。

 家族はママが出ていくときに言い残す言葉だけを聞かされています。ママは嫌々出ていくのだ,と家族は思わされています。そんな嫌なことをしているママが可哀想だから,辞めるように言ってくれているのです。ママのことが心配なのです。でも,ママは家族が理解してくれないと思っています。

 ママが言い訳など言わずに素直に楽しく出かけていれば,家族も心配をせずに済みます。家族にわるいなというママの思いやりが,家族からママへの思いやりとすれ違いを起こしたのは,ママがそれなりに楽しんでいるといった自分の気持ちを素直に伝えようとしていないからです。ママが素直になれば,家族はママがんばってと,後押ししてくれるはずです。

 自分だけ楽しい思いをするのは気が引ける,そんな思いやりが自分の気持ちに素直になれなくします。その気持ちはよく分かりますが,素直でないと誤魔化すようになり,周りに間違った情報を伝えて誤解を招くことになります。「迷惑かけてごめんなさい。でもママもその分がんばってくるから」と気持ちを丸ごと素直に伝えるようにしてください。

・・・思いやりは正直に,気持ちは素直に告白した方がいいようですよ。・・・


 〇充実感?

 仕事でも遊びでも,精一杯やり遂げた後には充実感があります。小さな雑用でも,一応のケリがつけばホッとした気持ちの余裕が得られます。肩の力が抜けた瞬間に,ほろ苦い大人の感傷が漂います。仕事の後の冷たいビールの一杯は応えられない,その微かな脱力感は,胃袋だけではなく,心も一種の解放感を味わえるせいです。

 漫然と時間を過ごしていては,充実感はありません。何らかの活動をするという前提が必要なのです。仕事で疲れて帰ってくる,それは誰にとっても当たり前のことです。外で疲れたから家では何もしない,それを持ち出したら暮らしは成り立ちません。もちろん,自分は何もしない,それでも構いませんが,それだったら,誰にも何も求めることをしないことです。勝手に疲れて,勝手にしていたらいいのです。

 家族としての共同生活をしたいのなら,ちょっとだけでも家族のために何かをすることです。はっきりと言ってしまえば,外は外,家は家なのです。外でいくら充実していたとしても,家での充実とは全く関係ないからです。家のことは放り出しておいて家での充実感を求めても,無理な相談です。子どもが家にいてもつまらないと感じるのは,家での充実感が持てないせいです。これでは簡単に家出をします。

 感覚というのは,直接的です。触ったら気持ちがいい,見たらきれいだ,食べたら美味しい,嗅いだらいい匂い,聞いたら心地よいのです。直感という言葉がありますが,間感という言葉はありません。肉体的な五感だけではなく,精神的な感覚も直接的です。自分が直接関わっている場合でなければ,何の感慨も湧いてこないはずです。

 もちろん,直接的でなくても想像することで,感情を動かされる場合もあります。でも,そのときは,例えば自分のことのように喜んだり悲しんだりしているはずです。結局のところ,自分とのつながりが基本なのです。日々の家族との暮らしに充実感を得ようとするなら,自分も少しは直接関わらなければならないのです。スポーツ観戦も臨場感が感動の深さにつながります。

・・・関係を持てないところでは,充実感も持ち得ません。・・・


 〇甲斐?

 休みの日,時間の余裕があれば気分にもゆとりが出てきます。そんなとき,ママはちょっぴり手の込んだ献立を考えます。夕食の団らんでは,ママが心を込めた手料理を美味しいと食べてくれる家族の姿があります。喜んでもらえたと感じたら,手をかけた甲斐があるというものです。

 家族の間でありがとうという言葉が交わされていますか? そんな問いかけが家庭教育学級などで語られます。そんな他人行儀なことができますか!という囁き声がざわざわと波打ちます。毎日子どもにどれほど「ありがとうは?」と迫っているかは,脇にどかされています。子どもには言わせていますが,自分は言わなくてもいいということなのでしょうか?

 人にはいろんな欲望がありますが,比較的高尚な(?)欲望として「認められたい」というものがあります。その実現にはやっかいな手続きを踏む必要があります。黙って待っていれば認められるというものではないのです。何事かをしでかさないといけません。

 動物虐待をした若者は,目立ちたかったからと動機を打ち明けます。自分の存在を認められたいのです。価値ある存在でなくてもいい,たとえ嫌われる存在であっても,とにかく存在を認められなければ欲求不満に陥るのです。社会参画の動機も,社会につながっていれば何らかの形で自分の存在が認められていると確認できるからです。

 寂しい子どもがイタズラをする理由も同じです。ワザと悪いことをして親の目を引こうとするのは,認めてもらいたいからです。人の中にいても寂しさを感じるのは,自分を認める人が見つからないためです。群衆の中の孤独とはそういうものです。もしも,お互いにケチをつけあっていたら,認めないという意思表示ですから,欲求不満が渦巻き,悲惨な結果を招くだけです。

 家族の暮らしでは,お互いのために何かをしでかします。その都度「ありがとう」と声が返ってきます。してよかった,喜んでもらえた,そのやりとりが家族とのつながりを実感させてくれて,そこに自分が認められたことを確認できます。した甲斐があったと思えたら,欲望が充足されます。ありがとうはお互いを認め合う言葉なのです。してあげる,してもらう,それが当たり前に感じられていると,認められたい欲望は彷徨います。子どもが手伝いをしたら,必ずママはありがとうを言ってやってください。

・・・家族の絆は,お互いを認め合う欲望で紡がれています。・・・


 〇生活時間?

 琴線に触れるという言葉があります。妙なる調べを産み出すには,琴線はピンと張っていなくてはなりません。弦が緩かったり垂れ下がっていては,どんな名手が爪弾いても,音を発することはできません。感動するには,心の琴線が適度に緊張状態を保っている必要があります。

 映画館で見る映画とテレビで見る映画とでは,その感動に違いがあります。映画館では,見ることに集中し,途切れることなくクライマックスまで一気に登り詰めます。テレビでは,CMが入るために流れがブツブツに切れて,気持ちの張りが途切れ,他のことに関心が移ったりします。琴線が緩み不揃いになります。若者がレンタルビデオに走るのは,のめり込む楽しさを味わいたいからです。

 テレビに育てられた子どもたちは,緊張の持続時間が短くなっています。じっとしていられないのが生まれたまんまの子どもですが,社会性を持つ基盤として,ある時間一つのことに集中する精神力を身につける必要があります。飽きっぽい,落ち着かない,そんな幼さを卒業するのが育ちです。

 ゆったりと流れる時間を過ごす暮らしぶりが少なくなっています。時間をテレビなどに刻まれるのではなく,自分たちの暮らしのペースで刻むようにすればいいのです。読書などは最適です。家族それぞれが好きな本を選んで,自分のペースでのめり込むことができるからです。子どもの好きなゲームも,集中するという点では効用があります。

 人が緊張を持続できる最大時間は90分です。映画の上映時間はそうなっていますね。半分の45分は学校の授業時間です。3分の1である30分は昔風にいえば四半刻であり,暮らしの時間を刻む最小単位です。このような生理的な時間の流れを生かさないと,気持ちの流れは円滑さを失います。

 規則正しい生活をすることの意味は,生理的な時間に合わせて緊張感を維持することであり,生きるペースを自然なものにするためなのです。例えば,朝起きて出かけるまでの時間が45分間,家族の団らんが45分間など,暮らしの時間配分を見直してみてください。自然なペースであれば,心身共に喜ぶはずです。

・・・身体時計を使わないと,身も心もペースが乱されます。・・・


 〇焦らす?

 ママが尋ねます。「今日は何が食べたい?」。とりあえず食べたい欲求は満たされますが,喜びはイマイチです。ママは喜ばせてくれているのですが,夕食時の喜びは薄れてしまっているような感じです。なぜなのでしょうか? もちろん,ママが献立を考えるのが面倒だから尋ねているということは内緒にしておきます。

 喜びには賞味期限があります。弁当の楽しみは,ふたを開けるときの「今日は何かな」という期待と不安の後に出会う喜びです。たとえ好きではないものがこっそりと紛れ込まされていても,ママの仕掛けてくる企みが感じられて,それはそれで楽しめるものです。自分で入れた弁当には喜びはありません。中身が分かってしまっているからですね。

 喜びは期待と不安に揺れ動く振幅の大きさに正比例します。特に不安の後に揺り戻しとして訪れる喜びは効果的です。焦らすという恋の手練手管がありました。焦らされるから焦がれるという罠にはまります。その宙ぶらりんの状態が先行しているから,一転して訪れる期待した結果が際だって感覚を鼓舞します。十分な前置きの後にはエクスタシーが待っているものです。それが感覚の世界です。

 喜びの賞味期限とは,ある適当な時間待ち焦がれた直後です。待ちくたびれてはいけませんし,またタイミングを遅らせてしまうと12月26日のクリスマスケーキになります。もちろん,ごく当たり前に事が運んでもいけません。思っていたとおりでは,喜びは半減します。

 喜びとは,自分ではどうにもならないこと,相手しだい,成り行きしだい,さらには思ってもいなかった,そういう曖昧な状況に気持ちを任せたときにもたらされてくるものです。すべてが思い通りに運ばなければ気が済まない,イライラするといったときには,喜びを感じることができなくなるでしょう。

・・・○○でなければというストレスが,喜びの感受性を鈍化させます。・・・


 〇いい顔?

 体調を崩して寝込み,回復してくるときに,生きている喜びを思い出します。健康でバリバリ動き回っているときには,仕事や趣味などの面白さに紛れています。生きる喜びなんて,感じない方が幸せなのかもしれませんね。生き甲斐は何かと自問することはないでしょうし,自問したとしても即座に答えられないかもしれません。

 生き生きしてるかどうかは,日頃から何となく気になることでしょう。特に,子どもが生き生きしてるかどうかは,ママにとっては一大関心事です。ところで,どんなときに人は生き生きとした姿を現すのでしょうか? その見本はママ自身です。でも,自分のことは分かりにくいかもしれませんね。

 お買い物に出かける前のママは生き生きしているようです。暮らしの買い物ではありません。帰ってきたときには生き生きしていませんが,満足げに落ち着いています。何か楽しみなことがあれば生き生きしますが,それが終われば消えてしまうもののようです。つまり,生き生きするのは事前なのです。何事かを期待している間です。

 家の外にしか楽しみがなければ,生き生きするのは出かけるときであり,帰ってきたときは生き生きはもぬけの殻です。もしも,家庭を帰る場所と思っていたら,生き生きした姿は決して見られないでしょう。なぜなら,朝はバタバタして忙しく出かける姿しかなく,ゆっくりと過ごせる夜はもぬけの殻となって帰ってきているからです。

 家に楽しみを見つけていれば,生き生きとして帰ってくるはずです。新婚時代はそうだったはずですよね。子どもができたら,子どもと過ごしたいと心変わりをしているかもしれません。それがいつまでも続けばいいのですが,なかなかそうはいかないようです。

 待ちわびている子どもがいると,ごめんねという気持ちになりがちです。事後処理に気を取られていては表情が硬くなります。子どもと会えることを楽しみにしてください。そうすれば子どもに生き生きとしたいい顔を見せてやれます。子どもはそんないい顔を期待して生き生きとして待っているはずですよ。

・・・終わったという気持ちでは,生き生きとはなれません。・・・



《生きる喜びとは,いま目の前にある世界と仲良くすることです。》

 ○喜びの種をたくさん持っていることが生きるということのようです。今日は朝からよい天気で気持ちがいい,寝起きが爽やかであった,空気が美味しい,道ばたにかわいい花が咲いている,その気になれば,いくらでも見つかります。幾分子ども染みた感覚に思われるでしょうが,大人の分別というものはどちらかと言えば感性を拒否する働きを持っているので,無邪気でなければ生きる喜びを感じることはできません。

 子どもの気持ちとつながるためには,分別を棚上げしておいた方がいいでしょう。他愛のないものとして捨て去っているものの中に,生きる喜びは隠されていることが多いからです。


 【質問7-10:あなたの家庭では,パパの生きる喜びが見えていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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