*** 子育ち12章 ***
 

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「第 8-02 章」


『尾頭の 目ににらまれて 泣く子ども』


 ■はじめに

 学校週五日制になって,何かと心配する声が聞こえてきます。PTAの総会などでも話題になったことでしょう。限定的に導入された当初も,かなり話題になりましたが,大して変化は起こりませんでした。そのころを知るものには,今更という思いもあるようです。

 学校週五日制という言葉は,週のうち五日は学校で面倒?をみますという宣言です。この面倒の意味はさておいて,五日と限定したのです。親の立場からは,どう受け止めればいいのでしょうか? そこが曖昧なままでは,対応のしようがありません。「残りの二日については,学校はどう考えているのか」,そんな見当はずれの声も上がります。学校が放り出したと思うから,学校の意向を聞きただそうとします。

 この残りの二日に名前が付いていないから,混乱が起こります。学校週五日制は学校の言葉です。親の立場では,「家庭二日制」なのです。決して空白の二日間ではありませんし,そうしてはならないのです。もっと言えば,自分の子どもの一週間を,丸ごと学校に面倒見てもらうという甘えを脱却して欲しいという願いが込められているのです。

 親は自分の子どもに教育を受けさせる義務があるから,義務教育なのですが,その義務は週五日でいいですよ,ということです。子どもをどのように育てるかは,親が責任を負うべきものです。家庭二日制と考えれば覚悟もできるでしょう。もちろん,親一人ではなくて親たちという連携も必要になります。それが「地域二日制」になります。

 子どもが学校から見放されたような感じを抱くと,対応を間違えます。義務が減った分,我が子が帰ってきたのです。親としてうれしく思わないとすれば,子どもは邪魔にされていると感じることでしょう。「私は家に帰るべきではないのだろうか?」。理想と現実は!,といった論争ではなくて,親の姿勢が問われているのです。



【質問8-02:あなたのお子さんは,生き物に興味を持っていますか?】

 《「生き物への興味」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇だれ?

 赤ちゃんは動くものが好きです。感覚とは動きや変化に敏感に反応します。不意に目の前に何かが飛び出してくると,びっくりします。全身が反応するのは防衛本能です。環境の変化を見て自分をどう処すかをもう一人の自分が判断すること,それが生存にかかわるからです。

 日差しの強い外を見て,出ていくときは帽子を被らねば,と考えるのはもう一人の自分です。日差しの中に入った自分を想像できるのは,もう一人の自分なのです。幼さとは,そのもう一人の自分がまだ未熟であることです。

 もう一人の自分は,世界が自分の思い通りには動いていないことを最初に学びます。ママが常に自分の思い通りにはしてくれない,それが母離れの端緒になります。しつけとは外界に自分を合わせていくことですが,そのためには,自分の意志が外界とはつながっていないことを認めなければなりません。

 子犬を撫でているとき,子犬は突然に自分を無視してどこかに走り去っていきます。幼い子は「ワンちゃん,行っちゃった」と泣き出します。ワンちゃんにはワンちゃんの都合があることが理解できないからです。「可愛くない!」と切り捨てることで,ワンちゃんの意思を渋々ながら認めていきます。

 ママもワンちゃんも,生きて動くものはみんなそれぞれの都合で動いていて,こちらの思いとは違うのだという辛い経験は,子どもの中にもう一人の子どもが産まれる陣痛に相当します。その後の成長で,自分もみんなと同じに生きているということに気付くことができます。

 長い列を作っているアリさんを見て,「アリさんは何をしているんだろう?」と思うとき,もう一人の子どもが自分と同じに生きているアリさんを感じ,アリさんの思いを自分の思いと重ねようとしてしています。こうして,もう一人の子どもが育っていきます。

・・・生き物への興味は,もう一人の子どもの自分への関心に重なります。・・・


 〇どこ?

 自然との触れ合いと言います。自然は見たり聞いたりするだけでは十分に理解できません。触ってみることが大切なのです。赤ちゃんは何でも触ろうとしますね。それが最も確かな情報だからです。ママも野菜を買うとき,あれこれ触ってみて選んでいますよね。どれでも同じだとは思っていても,触らずにはいられないのです。

 動物の赤ちゃんを抱いたとき,子どもの感想の中には「あったかい」という言葉が入っています。触らないと分からないことです。ところで,カエルなどを手にするとヒンヤリとします。人は温かいのが生きている証拠と思いこんでいますから,冷たくて生きているのは本能的に拒否します。爬虫類を嫌いな人が多いのはそのためでしょう。

 手当というのも,生命は手で直接に関わるべきものという気持ちです。愛しいと抱きしめたくなるのも同じです。仮想体験では生きているという感覚は得られません。土を触る,草木を触る,動物を触る,風を触る,水を触る,そして食物に触って栄養を吸収するのが消化系です。美味しそうなものを見ているだけでは,お腹はふくれませんね。

 赤ちゃんが泣くとき,ダッコしてやると落ち着きます。手当ならぬ,胸当てですが,ママに触れていると子どもは安心できます。一人住まいの侘びしさは触れ合う相手がいないからで,ペットが代用されます。なによりもペットは飼い主に関心を寄せてくれます。

 関心を寄せてくれる相手がいる,それがたとえペットであっても寂しさが癒されます。生き物に関心を持ち,同時に相手もこちらに関心を示してくれるならば,気持ちが休まります。その最も基本的で確実なスタイルが,互いに寄り添うという触れ合いなのです。

・・・生き物への興味は,触れ合いに安らぎの場を見つけることです。・・・


 〇いつ?

 生きていることを最も素朴に感じるときは,お腹がすいたときです。生きるためには食べなければならない,その切実な感覚が日々の生きる実感になります。とはいえ,この実感はほとんど意識されておりません。あまりに当然すぎるからです。食事の度に「ああ,生きている」なんて思いませんよね。

 生きることは食べること,それを明確に意識させられるのは,虫や動物たちによる弱肉強食の世界を垣間見たときでしょう。生きることの非情さが強いインパクトを与え,思わず目を逸らしたくなります。人は自分が弱いことを感じているので,どうしても弱い側に自分を重ねてしまいます。

 蜘蛛の巣にかかった蝶を可哀想だと逃がしてやった保育園の先生に,蜘蛛が可哀想だとくってかかる園児がいます。ママには蜘蛛という字を見ただけでイヤな感じがするでしょうが,自然は好き嫌いでは動いてはいません。もしもお子さんが蜘蛛に肩入れをしたら,ママはどう対応されますか?

 魚を三枚に下ろした経験が無いというママが増えているそうです。腹をさばいて内臓を取り出し身を切り開くのですから,まともに考えればライオンが獲物の腹にかぶりつく所業とオーバーラップして,心が痛むかもしれません。さらに,鯨を食べる文化,牛を食べる文化,犬を食べる文化,その違いに直面したとき,生きることの浅ましさを感じることでしょう。でも,それらすべてが素直に生きるということでもあるのです。

 自然の生態系が破壊され,絶滅する生き物が出てきましたが,それは明らかに人間のせいです。人の食欲は貪欲すぎます。必要なだけに止めておけばまだしも,食べ物を粗末にするという贅沢を素敵な生き方と勘違いしています。「いただきます」,その感謝は生きるに必要なものだけにセーブする節度の上で意味を持ちます。

 魚を三枚に下ろす行為を通して,食べる者の業を思い知らされるから,魚という生き物への感謝が湧いてくるものです。パックに並べられた切り身を見て,いただきますと言ったところで,それは空念仏なのです。

・・・生き物への興味は,生きる哀しみを悟るときです。・・・


 〇なに?

 外で遊んでいると,擦り傷や切り傷が絶えません。その痛みを体験しておかないと,用心しようという気持ちが育たず,さらには思いやりも芽を出しません。桜の花が芽吹くには寒さの後の温かさが契機になります。温かいままでは花は目を覚ましません。それが自然の仕組みです。

 木の切り株を見ると,そこにはきれいな同心円上の年輪が刻まれています。自然な切り株を見る機会が無くても,家の柱を見れば年輪の筋が見えます。もっとも最近の合板建材に囲まれた家では,それも望めないかもしれません。草の茎には年輪はありません。何年も生き抜く木だけにあるしるしです。黒くて硬い年輪は,冬の間の成長の跡です。

 厳しい冬は成長が遅くなるので,木の生長にはマイナスと考えてしまいがちですが,実は冬の間のじっくりとした成長によって硬い年輪が成長し,大木になっても十分持ちこたえられる強度を獲得しているのです。何かしら教訓めいた話の展開になりかかってきましたね?

 季節が1年で巡るという環境に生きている以上,人間と言えども,そのリズムに従うのが自然です。寒い冬が過ぎて春になると,生き物は一斉に成長の速度を上げます。その息吹を感じる感性が,美への感性です。人工的な格好良さに振り回されるのは,本物の美しさを見つけ損ねた代替えに過ぎません。

 人としての魅力は,苦労というしっかりした年輪の筋を作った後の弾ける生命力にあります。自分で生きようとする健気さであり,挫けない芯の強さであり,周りと調和する優しさでしょう。地味に生き抜こうとすることをダサイとか,あほくさいとか,惨めったらしいとか,あっさりと捨て去っているようでは,自分の人として幸せな生き方を見つけることはできません。

 生きる上で最も大事なもの,いわゆる価値観は,当たり前のことですから決して目立ちません。生き物への興味を持ちながら,自分の目で見つけださなければなりません。それは教えられるものではなくて,もう一人の自分が学び取るものなのです。

・・・生き物への興味は,生きる意味を見つける狭き門なのです。・・・


 〇なぜ?

 オモチャが動かなくなりました。たいていは,新しい電池と交換すれば元に戻ります。でもいずれは電池を入れ替えても動かなくなります。こうしてオモチャは壊れて,あっさりと捨てられていきます。一応の寿命が来て捨てられていくのであればまだ救われますが,まだ動くのに飽きられて捨てられるのは悲しいですね。

 でも,生き物はそうはいきません。友だちの家で産まれた子犬を見て欲しくなり,飼いたいと親に許可を求めます。それが昆虫ぐらいなら死なせたところで,親は大して後ろめたさを感じないのか,あっさりと許しますが,犬になると渋ります。犬は生き物として正当な扱いをしないと可哀想だという気になります。その上に,十数年生きるという飼育期間の長さが気がかりです。

 親が付ける条件は「あなたがちゃんと面倒を見るなら」という付帯条項です。でも,それが守られることはほとんどありません。親も子どもが本当に守りきれないことは承知しているところがあります。忙しい子ども?の代役をしてやっているうちに,家族の一員だからというすり替えにはまって,親が面倒をみるようになっていきます。

 生き物とのつきあいは,一時の気の迷い?ではできないということです。人は飽きるものです。飽きるのは変化がなくなるときです。子犬の時はみるみる身体が大きくなり,変化が見えるので,面倒の見がいがあります。幼い仕草が可愛いと見えます。一年ほどでやんちゃな年頃になった子犬は思い通りにならなくなり,可愛いという興味の種が失せてくる上に,つきあうのは結構面倒になってきます。

 「面倒をみるって約束したでしょ」,「だって,塾に行かなければならないから,できないよ」,「・・・」。犬の散歩なんかより塾を優先した方がいいですか? 犬なんかに関わるよりお勉強,そんな育ちが子猫を痛めつけ犬を虐待し鳥を射抜きます。命より大事な勉強など有害なのですが・・・? 何のために勉強するのか,分からないからです。

 大学生に何をしたいかと問うと,友だちを見つけたいと答えます。もっと勉強したいと言う子はほんのわずかです。それまでの勉強は自分を「選ばれた人」にしたいための競争勉強なのです。選ばれた人同士で友だちになろうという魂胆です。意識下に自分勝手さを秘めたもの同士で,本当の友だちになれるはずもありません。利用し合うだけなのですから・・・。ママが願う優しさは,塾にはありませんよ。

・・・生き物への興味は,感動を見つけられる学び方に誘ってくれます。・・・


 〇どのように?

 夏休みには朝顔の観察をするという古典的な宿題がありました。学校で草花を植える学習もあります。肥料をやって水を欠かさないように与えることで,ほんの少しずつ伸びていきます。成長というきわめてゆったりとしたプロセスを体感できます。

 お手植えで育てた花が開いたとき,子どもの心には感動が訪れます。私の花が一番きれいだと思います。ゆっくりとした成長につきあいながら,こまめに面倒を見ることで愛着が湧くからですが,同時に花はいきなり咲くものではなくて,長い育ちの結果なのだということに気付きます。

 強い風が吹いた後には,倒れているかもしれません。「あっ,倒れている」。「ごめんね,風のことは考えていなかった,すぐに支え棒を立ててやるからね」。小さな失敗に気づき,どうすればいいのかを自分で考えて手を打っていく,それが学びの基本であり,同時に成長のプロセスでもあるのです。「倒れちゃったから,もう要らない」。そう思う子どもは,花の美しさから遠ざかっていくことでしょう。

 生き物の面倒をみることで,自分が生きていく上に必要な知恵を身につけていきます。体験学習とはそういうものなのです。自ら痛みを味あうことではなくても,密接に関わりを持っている他者の痛みを思いやることで,自分の体験に転化することができます。

 生かすことは生きることと同じです。少々の危難が降りかかっても,それをなんとか乗り越えようとする挑戦が生きることです。生きようとする花に寄り添っているから愛着が湧き,本物の感動を手に入れることができます。生命に触れて感動できた経験が,自らを生かそうとする意思を育て上げます。

 健全育成という言葉が語られます。健全とはどういうことでしょうか? 健全とは道を踏み外しかかったときに気付き,すぐに修正する手当・対応を実行できることなのです。健康とは風邪を引かないことではなくて,風邪を引きかかったら,それを感じてすぐに対処できることです。

・・・生き物への興味は,自分を生かそうとする本能を磨きます。・・・



《生き物への興味とは,自分を育てる上で根元的な学びなのです。》

 ○現在の子どもたちはあまりに生きる現場から隔離されています。命のはかなさを知るから,愛が生まれ,思いやりが芽吹いてくるのですが,その前提がすっかり抜け落ちています。見渡せばすぐ傍に生きるモデルは転がっているのですが,それを心を込めて見ようとしないから,見過ごしています。

 アリが行列を作って働いているのを見て,足でつぶして回って喜んでいる子どもが育っています。子どもはチョウチョやトンボを追いかけ回しますが,アリを踏みつぶすのとは大違いです。昆虫を掴まえたら虫かごに入れて,生かそうとするからです。命に正面から関わろうとする心根が大事なのです。


 【質問8-02:あなたのお子さんは,生き物に興味を持っていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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