『マウンドに 涙を残す 負け試合』
■はじめに
会社の業績を表す指標に,「対前年度比」という数字があります。たいていは売上金額の%表示です。また,目標設定を対前年度比○○%増という形にする場合もあります。世のあらゆる成長が数字で表される事柄だけであれば,ことは簡単です。
ところで,「誠意を見せろ」という恐い要求や,「やる気を示せ」という叱責は,かなり理不尽です。いきおいお金の多寡や時間の長短という形で折り合うしかなくなります。
好きと言えば,どれくらい好き?と聞き返されます。好きの程度を求めるのは欲張りだとは思いますが,そこは惚れた弱み,なんとか気に入ってもらおうと努めてしまいます。プレゼントのランクや個数で測るというバカバカしさに頼ることもあります。それはそれでお似合いの仲です。
世界中で一番とか,死ぬほど好きといったわけの分からない程度表明もあります。恋文の定番でしたが,文離れの世代にはそれはないでしょう。メール世代の好きメッセージは,その程度をどう表現しているのでしょう?
ママのこと好き? ママになっても好きの程度を気にするのは,お若いことで・・・! その風景を傍目で見ながら密かにそう思っているパパは,その矛先が自分から離れているので一安心と胸をなで下ろしています。本当は安心している場合ではなくて,自分に向けさせなければならないのです。子どもが困まりはてているのを見て見ぬ振りしているようでは,パパの沽券がなくなります。
【質問8-03:あなたのお子さんは,ゲーム遊びを楽しんでいますか?】
《「ゲーム遊び」という内容について,説明が必要ですね!》
〇だれ?
教室で先生の問いかけに子どもたちが答えます。「ハイ,ハイ,ハイ」という連呼にかかげた右手の波がうねるように響きます。勉強しているというよりも,遊んでいる風で,我先に答えようとしています。小学低学年に見受けられる,この自分が答えようとする意欲はどこから湧いてくるのでしょうか?
答える競争をしているように見えますが,実のところはちょっとばかり違うようです。最初の答えが正解であったとしても,もし先生が他に答えはないかなと求めたら,子どもたちは一斉に手を挙げます。次の子どもの答えは最初の子どもの答えと同じです。多少表現の違いはあったとしても,同じ答えが繰り返し出てきます。
参観しているときなどに,子どもたちがどうして同じ答えを繰り返すのかと親は思います。「なんだ同じじゃないか」。他の子どもの答えを聞いていないとか,先生の質問の意味が分かっていないとマイナス評価をします。確かにその通りです。上級生になると,そんな繰り返しをしなくなります。
子どもは自分の答えを確認したいのです。自分が分かっていることを認めて欲しいのです。たとえ同じ答えであっても,それは先に発表した子どもの答えであり,先の子どもが認められたことであり,自分が発表しない限り自分を認めてもらうことはできません。「○○ちゃんも分かっているね」,その言葉が欲しいのです。
成長すると,もう一人の自分が先の子どもの正解を聞いて,自分も同じだから分かっていると自己評価できます。もう一人の自分が先に発表した子どもに分かっている自分を重ねることができるようになると,余計な発表をする必要はなくなります。
分かっている自分をきちんと見て欲しい,それはもう一人の自分が自分を認める力をまだ備えていないことからくる肩代わりなのです。成長途上であると考えれば,納得して頂けるはずです。幼い子どもがゲーム遊びをしていて「ママ〜,できたよ」と言ってきたら,素直に認めてあげてください。
・・・ゲーム遊びとは,もう一人の自分に自分を認めさせるチャンスです。・・・
〇どこ?
テレビゲームに興じる子どもたち,その姿に不安を覚える親たち,どうすればいいのでしょうか? どれほどの確度があるのか分かりませんが,「男は空想的,女は現実的」というステレオタイプな意見が聞かれます。男の子がゲームに強い関心を示す一方で,それを見ているママはくだらないことに夢中になる気が知れないと苦々しく感じる,そんな構図が当たらずとも遠からずと言えるかもしれません。
心配されることの一つは,ヴァーチャルな世界に入り込み,現実世界との区別がなくなるという危惧です。その心配は正しいでしょうが,だからといって禁止することは時代の流れから逸脱します。適切な指導こそが大事です。デメリットはメリットの裏返しです。一時の間現実を離れてみるのは,思考の訓練になります。読書に耽ってもう一人の自分が本の世界に入り込むことと同じです。
ゲームにおいては臨場感が求められています。それは現実に近づくということです。もちろん現実そのものではありませんが,現実を踏まえて抽象化が図られています。現実に対向する言葉として理想があります。理想とは非現実的世界,空想の世界と重なります。あえていえば,人は現実を理想に近づけようと創造を積み重ねてきた歴史を持っています。
夢のある子どもに! そう願うのであれば,現実からの飛躍を楽しむゲーム遊びは必ずしもいけないことではありません。問題は耽溺することです。何事であれ集中することは良いことですが,偏ると未熟な子どもには色んな弊害が現れます。現実に帰る道が伴っていなければなりません。
空想と現実のギャップ,それを意識できなければ創造的な活動には結びつきません。現実を拒否するところまでのめり込んでしまうと,心は彷徨いはじめます。それが心配される弊害なのです。ですから,現実の世界に子どもを常に引き戻すように手配りをしておかなければなりません。現実とは暮らしです。日常の細々したことを子どもに関わらせておくようにしてください。それが済んだら,少しの間だけ遊んでいいと・・・。
・・・ゲーム遊びとは,暮らしから隔離してしまうと危険です。・・・
〇いつ?
江戸時代に囲碁や将棋の勝負がこじれて刃傷沙汰になり,その仇討ちに多くの人間が巻き込まれた事件がありました。メンツを潰されたという武士の意地が吹き出してしまったからです。誰しもプライドを傷つけられたら平常心を失い,後悔するはずの暴挙に打って出ることがあります。たとえそれを認めたにしても,その原因がたかが遊びであったとしたら,虚しさだけが残ります。
遊びは遊びであり,勝たなければ人格に傷が付くという大げさなものではありません。勝ったり負けたりするから面白いのです。自分が強いと思っていても,つまらないミスをして負けることもあるし,より強い相手もいます。身の程を弁える余裕がなければ,遊びをする資格はありません。そういえば,車のハンドルにある余裕を「遊びがある」と言いますね。
ラグビーでは試合終了するとノーサイドと宣言し,どちらでもない,人としての勝ち負けではないという暗黙の了解があります。さすがに紳士のゲームですが,よく考えれば,遺恨に思う気持ちがあるからわざわざ宣言しなくてはならなかったという経緯があったのかもしれませんね。
あの人は勝負事になると人が変わるから,相手にならない方がいいよ。そんな評判が広がって,孤立していく人がいます。原因は自分にあるとは分からずに,人を責めるようになるかもしれません。そうなれば人間関係は拗れていく一方です。
ゲーム遊びは気分転換のための一人遊びもありますが,たいていは人とひとときを楽しむためにするものです。勝負を争うという形は人の闘争心を駆り立てますが,それは対戦中だけなのです。気持ちの切り替えを上手にしないと,闘争心が勝った対戦相手に向けられたままくすぶることになります。それが勝負するゲーム遊びをするときに,最も気をつけなければならないことです。
・・・ゲーム遊びとは,限定された時間内だけの楽しみです。・・・
〇なに?
子どもの場合,負けると遊び道具に当たり散らすことがままあります。悔しさを紛らすために遊びそのものを無効にしようとするのです。負けたという事実をなし崩しにして,無かったことにして記憶から消そうとあがいています。潔く負けを認めたくない気持ちは分からないではありませんが,やはりある程度の矯正をしておく必要があります。
悔しさはいいとして,遊び道具に八つ当たりしたことに対するしつけです。ゲームそれ自体を冒涜する行為はゲームに参加する資格に欠ける行為です。そこでその行為に対してレッドカードを出して,一定期間その遊びへの参加停止という断固とした処分にするのです。決して子どもの人格を否定したり,夕食を抜いたり,お小遣いを減額したりといった別件の対処をしてはいけません。遊びそのものがフェアでなければならないのと同じように,ペナルティもまたフェアでなければならないからです。
正々堂々戦うことを誓いますという宣誓をしますが,フェアプレーは立派なことではなくて,本来当たり前でなければならないことなのです。しかしながら,わざわざそのような宣誓をするということは,人の弱さを見越しているからです。このことを逆に考えれば,スポーツやゲーム遊びの姿がその人の本性を現すことにもなります。
ゲームに限らずスポーツや暮らしまでもが,ある一定のルールに従うことで楽しめるのです。どんな局面でも,ルール破りは許されないことです。たとえ喧嘩していても,してはいけないことがあります。人間性を保つために守らねばならないのがルールです。暮らしの場ではモラルとか法という形式になります。
イライラした気持ちのはけ口として八つ当たりをすることを覚えると,ルール無視に対する自制が甘くなります。子どもに対するルール遵守のしつけは,少しばかり酷な感じがするかもしれませんが,きっちりと済ませておいた方が後になってきっと子どもを救うことになります。
・・・ゲーム遊びとは,ルールの厳しさをしつける機会です。・・・
〇なぜ?
ゲームは必ず勝てるというものではありません。もしも必ず勝てるとなったら,それはゲームではなくなります。必ず勝てるとは限らない,だからゲームとして成立します。たとえ自他共に許す優勝候補でも一回戦で負けることがあるのです。
では,一体何が面白いのでしょうか? それは分からないものに対する挑戦だからです。勝敗は時の運,勝利の女神?はかなり気ままでいらっしゃるということです。人がどう考えを巡らしても及ばないことがある,そのことへの懲りない接近を楽しむのです。例えば,ゲームの先攻後攻を決めるじゃんけんですら既に読めません。運任せなのです。
勝負事の基本は勝つかもしれない,その期待です。程度の違いはあっても,宝くじを買う気持ちと同じです。運を引き寄せるために,神社に勝利を祈願します。人にできることは運を少しでも手に入れようとする努力です。それが習熟するための練習であり,場数を踏むことです。
一方で,運を読むという努力もしてきました。賭け事に夢中になった人が考え出したのが確率という計算法でした。勝率という数字も,自らの確率です。例えば野球の打率は,100回の試技で33回ヒットを打てば3割3分ということになります。67回は負けているのです。
対戦ゲームで100%勝つあるいは100%負けるということになったら,全然面白くなくなるでしょう。勝ったり負けたりするから,面白いのです。どうして勝ったのか,どうして負けたのか,あれこれ推測できる余地がある,それが楽しさの秘密です。
子どもたちはなぞなぞが好きです。隠された答えを見つけだす挑戦だからです。自分の力を試すことが楽しいのです。分からないときは,力不足を思い知るでしょう。それでいいのです。自分には分からないことがある,それを実感することはとても大事なことです。なぜなら,それが次の挑戦への意欲を産み出すからです。
・・・ゲーム遊びとは,未知との遭遇による自己発見なのです。・・・
〇どのように?
ゲーム遊びには必ず敗者がいます。勝つことには学びがありませんが,負けることには学びがあります。子どもは負けることで育っていけます。育ちが失敗から始まるということと軌を一にしています。
未熟だから思うようにならずに負けてしまう場合が多いでしょう。上手にできない悔しさを感じているはずですが,それは自分の未熟さを納得する機会でもあります。辛い思いをするのでのたうち回ることもあるでしょう。そんなときは黙って見守ってやればいいのです。そんなことをしても自分の未熟さは認めざるを得ないのですから,やがて観念するはずです。
負けるのがイヤだから,しなくなるという選択をすることもあるでしょう。それは逃げ出すことです。勝ちにこだわれば,インチキをしようとするかもしれません。それは邪道です。相手に負けたくないがために,自分に負けることになります。相手に負けるのはいい,自分に負けることだけは是が非でも避けなければ取り返しがつかないことになります。
もう一つの選択は,強くなろうとする選択です。その際に必要な気付きは,「今日は未熟」という思い切りです。これができたら,負けても苦にならなくなります。負けても潔く負けを認める,それが本当に強くなる秘訣です。
負ければなぜ負けたかを冷静に考えます。次のステップとして勝った相手と負けた自分を比較して,自分の未熟な部分に気付き,相手の強い部分を見つけ,見習います。その学習を繰り返すことで,だんだんと負けなくなります。
・・・ゲーム遊びとは,負けっぷりの良さを強さに変えてくれます。・・・
《ゲーム遊びとは,子どもがいろんなことを体験する授業です。》
○酒を飲むのはいいが飲まれてはいけませんね。同じようにゲームを遊ぶのはいいのですが遊ばれてはいけません。大人になっても賭博ゲーム依存症に罹ることがあるように,ゲーム遊びには節度がなければ危険です。
子どもには子どもに相応しいゲーム遊びがあります。家族で一緒に楽しむゲームを是非見つけてください。端からとやかく言うのではなくて,一緒に楽しんでいると自然に必要なしつけをすることができます。大人が楽しんでみせることが大事です。
【質問8-03:あなたのお子さんは,ゲーム遊びを楽しんでいますか?】
●答は?・・・もちろん,「
イエス」ですよね!?