*** 子育ち12章 ***
 

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「第 8-04 章」


『お勉強 机上の空論 身に付かず』


 ■はじめに

 お勉強。学校を卒業したとき真っ先に思うことは,「これからは勉強しなくていい!」ということです。自由の身になったという解放感です。幼いときからずっと頭の上に置かれてきた重しがやっと取れて,スッとします。

 それほどイヤだったお勉強。ママは子どもの頭上にお勉強という重しを乗せようとします。勉強に囚われていたトラウマが,子どもへの仕打ちに裏返っていることを自覚できません。「だって,勉強しないと困るのは子どもです」。子どもの頃の勉強を逃げて今になって後悔している体験が,そう言わせているのかも?

 学校週五日制になって,ゆとりの教育になって,勉強の時間が削減されて,子どもたちの学力が心配されます。落ち着いて考えてみませんか? 勉強のできる子どもがお望みですか,それとも賢い子どもがお望みですか? 試験に強い子どもがお望みですか,それとも利発な子どもがお望みですか?

 勉強ができて試験にも強いお子さんをお望みなら,塾で鍛えてもらえばいいでしょう。無事に試験に受かったら,その後何をしましょう? 勉強に特化した成長の後は,いつまで経っても生徒・学生でいるしかありません。誰かに問題を出してもらわないと,特技が生かせないからです。

 授業内容の削減が,実力の低下を招くという危惧があります。内容を減らさないと子どもが理解できないからという理由です。かつてはもっとたくさんの濃い内容を教わり,それなりに租借していました。一体何が子どもの「脳力」をひ弱にしてしまったのでしょうか?

 脳力の育成を教育に頼りすぎたせいです。学習を疎かにしてきたのです。学校とは本来「学ぶ処」なのですが,いつの頃からか「教える処」と思い違いをしてしまいました。教える処,つまり教習所は運転技術などの個別的な特殊能力の養成所です。教えられる脳力はたかがしれています。学びをしなければ十分ではありません。かつての子どもたちは,家庭生活や地域生活の中でたっぷりと学習をした上で,学校での教育による仕上げを受けていたのです。

 ここでは,今風のお勉強ではなくて,賢い子どもになるための本物のお勉強について,お勉強し直してみましょう。



【質問8-04:あなたのお子さんは,お勉強をしていますか?】

 《「お勉強」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇だれ?

 賢くなるには,古来から読書が一番とされてきました。今の子どもには体験が不足していると言われます。このなんの関係もない二つのことが,実は密接につながっているのです。その謎を読み解く鍵は,本を読んでいるのはもう一人の自分だということです。

 本を読むとき,もう一人の自分はごく自然に主人公に乗り移ります。主人公になったつもりで,本の中に書かれているストーリーに翻弄されます。主人公の体験を,本を読んでいるもう一人の自分が追体験しています。本の中に書かれている他者の体験を,自分の体験とすることができます。講釈のことを見てきたようなうそを言うと評しますが,実体験できないことでも,本の中に入れば,それなりに体験できるのです。

 自らが実体験することも必要ですが,それには限度があります。そこで,本を読むことで他者の体験も追加できること,それが経験豊かなもう一人の自分を育て上げます。読み聞かせを子どもが喜ぶのは,本の世界という異次元世界に飛び込んで遊べることが楽しいからです。

 体験が不足していると言われていますが,ただ体験するだけでは体験になりません。どんな形であっても感動を伴う必要があります。幼い子どもを遊園地に連れて行っても,成長したときにそのことを覚えてはいません。迷子になって大泣きした,乗り物のスピードにびっくりした,そんな出来事があれば印象に残っています。それを覚えているのはもう一人の子どもです。

 誰が賢くなるのか? それはもう一人の子どもです。自分の体験を覚えているもう一人の自分,他者の体験を追体験して覚えているのももう一人の自分です。読書だけではなくて,書くことも大事ですね。日記を書くときに,もう一人の自分が自分の一日を振り返り,感じたこと,思ったことを思い出して,言葉として記録します。読み書きをしているのはもう一人の子どもだということを忘れないでください。

 言われてする勉強が身に付かない理由は,勉強しなさいというママのためにする勉強だからです。もう一人の自分はそっぽを向いています。すればいいと思っていますから,終わったら忘れようと構えているのです。

・・・お勉強とは,もう一人の自分がすることです。・・・


 〇どこ?

 子どもの部屋=勉強部屋という思い違いがあります。親に言われて机に着いているときが勉強時でしょうか? 勉めて強いると書く勉強は,言われてする場合もあります。もう一人の自分がしようと思ってする勉強もあるはずです。

 ところで,子ども部屋は静かで家人とは隔離されています。前にも書いておきましたように,窓際なのです。ぽつんと一人でいると,寂しくなります。未熟な小人は閑居して不善を為すの通りに,ぼんやりとあらぬ事を考えようとします。勉強どころではありません。

 仕事場とは,喧噪なものです。雑音の中ですが,人の熱気が渦巻いていて,それに当たることで自分を高揚させることができます。その勢いが勉強の重い扉をこじ開けます。さあ,やるぞ,その意欲は場の雰囲気から吸い込むものです。静かな部屋には熱気はありません。

 家人がそれぞれに何かに集中している場所,その傍にいれば,自分も何かをしようかな,そうだ宿題があった,ちょっと始めてみようかな,ということになります。もちろん,実際にはそう簡単ではありませんが,やがてそうなるものです。勉強する雰囲気を作ってやるようにと言われますが,それは周りにいるみんながそれぞれ自分の学びをすることです。雰囲気とは人が作り出すものだからです。放課後の誰もいない教室,そこにぽつんと座って勉強しようという気になれますか?

 たとえ自分は勉強していなくても,パパやママが読んでいる新聞や週刊誌を横からのぞいてみると,難しい漢字がいっぱいです。いくつかの知っている漢字が見つかります。勉強すれば読めるようになると感じ取れます。今自分はなんのために勉強しているのか,その大切な目標を自分なりに見届けることができます。

 学校で習ったことが使えたり見えたりする暮らしの場所を持つと,勉強することが楽しくなります。分かるということは本来楽しいことです。ただし教えられている段階では楽しくはありません。習ったことを暮らしの中で自分が再現することによって,楽しい知恵として定着できるのです。

・・・お勉強とは,幼い間はみんなの意欲につられてスタートするものです。・・・


 〇いつ?

 人の感性は変化や動きに反応するものでしたね。勉強にも感性が関わります。人に説明をするとき,授業もその一環ですが,最も大切なことは,疑問を持たせるということです。アレッ,どうして,何が,といった疑問が浮かんだら,学びの扉が開くからです。

 疑問の感性は,違いに出会ったときにオンします。では,何が違ったときなのでしょうか? 自分が思っていたこと,知っていたことではないことに遭遇し,思いもしなかったこと,はじめて聞くことに違いを感じるときです。もう一人の自分がそれまでに獲得してきたイメージに合わないものやことがあると知ったときです。

 自ら課題を見つける力,それが現在の学校教育の課題ですが,疑問の感性なのです。大人はたいていのことには驚きませんし,当たり前と思っています。そんなものだという結論が出ているときは,疑問は発生しませんし,学びも不用です。しかし,子どもはそうはいきません。知らないことだらけです。身の回りのすべてに疑問を感じているはずです。質問攻めにされる時期がありますが,そこを上手に育て上げておくことです。

 疑問を感じていても分からないままであったら,何かしら落ち着かないはずです。いつも気になってしまうといったことがあります。実はそれが発見や発明のプロセスなのです。それはさておいて,子どもの場合にはたくさんの分からないことがあり過ぎて,世の中は分からないものだとあきらめてしまいがちです。疑問を感じることが欲求不満の元になるので,疑問への感性を封じ込めてしまいます。何も感じないという無関心に向かいます。

 子どもが,なんだろう,どうしてかな,なぜなんだろう,そんな疑問をぶつけてきたら,いちいちつきあってやってください。「そんなことはどうでもいいの」,その対応が子どもの疑問を拭い去り,考えない子どもに育て上げます。「そうか」というホッと落ち着く気分をたくさん味あわせることです。疑問を持てば楽しくなる,それが賢い子どもを育てるコツです。

 何も親が答えを教えることはありません。分からなければ「そうね,どうしてなのかしら,ママも分からない」と,一緒に不思議がってくれるだけでいいのです。賢い子どもとは楽しみながら疑問をいっぱい抱えている子どもです。だから,授業を聞いて疑問が解けていくから面白くなります。ことさら勉強をしなくても,授業が仕上げになるので完結してしまいます。

・・・お勉強とは,疑問を感じたときにもう始まっているものです。・・・


 〇なに?

 お勉強は疑問を持ったときに始まっていると書きました。その次にやってくることは何でしょうか? 答えではありません。考える道具です。ただ闇雲に考えるだけでは,堂々巡りをして,解答には届きません。考える地図といってもいいでしょう。考える手がかりです。

 コンピュータの思考を例にしてみます。それは人の思考をモデル化したものだからです。ディジタル化したステップで考えていきます。1か0か,有るか無いか,イエスかノーか,という二者択一です。そこには基準になる何らかの質問が必要です。「男ですか?」の質問に,「はい」,「いいえ」で男女が分かります。

 しつけであれば,「してよいか?」に対して,イエスかノーかで区別します。走り回ることは,家ではイエスですがよそではノーとなりますし,広場ではイエスですが曲がり角ではノーになりますね。時と場所を弁えるということは,今ここではしていいのかという質問をいつも意識していることです。人の思考は単純なイエス・ノーの積み重ねをもう少しまとめたものになっていますが,基本は同じです。

 自己紹介や身分を明かすときには,名前,住所,電話番号,特技や出身地などが語られます。犯人を特定するには,指紋の一致やアリバイ確認,動機や証拠品の有無を検証しますね。何かを特定するためには,それに相応しい情報項目があります。物事を理解するためには,何が分かればいいかという質問票を自分なりに持つことです。それがあれば,「どこが分からないか?」が分かるので,質問ができますし,調べることができます。

 子どもが「どこが分からないか分からない」と言うことがあります。それは分かるために使う考える勘所を持っていないからです。例えば,算数の勘所は「何が同じか?」,理科の勘所は「何が同じで,どこが違うか?」,国語の勘所は「言葉がどうつながっているか?」,社会は「人が望むのは何か?」,という質問に沿って考えていけばいいのです。

 もっと具体的に例示しておきましょうね。「ハサミがあります」,という文章から何が分かりますか? ほとんど分かりませんね。誰のハサミですか?,どんな色をしていますか? 大きさは? どこにありますか? なぜハサミのことを書くのですか? 分かるためにはいろんなことを確かめなければなりませんね。「亡くなったおじいさんが使っていた赤いハサミが,私の机におかれた筆立てに立っています」。かなり分かるようになりました。

 文章がちゃんと書ける子どもは,物事を観察する目を持っています。それは分かるための質問形式をたくさん持ち合わせていることです。質問項目ごとにきちんと見ているから,物事を分けることができて,分かるのです。賢い子どもとは,質問をあれこれ持っている子どもなのです。

・・・お勉強とは,分かるために不可欠の質問を選び出すことです。・・・


 〇なぜ?

 うちの子は自分から進んで勉強をしようとしない,ママがお嘆きです。勉強のイメージを「机に座って教科書を開くというスタイル」に限定しないでください。大事なことは「考えているかどうか」です。遊んでいても何かしらを考えていれば,それは立派なお勉強なのです。

 学者がぼんやりと散歩をしているときに,答えがひらめいたという話を聞かれたことがあるでしょう。彫刻の考える人のように,いかにも考えているという風にはなりません。目の前にある何かに対して工夫をしようと考えていれば,子どもは考えることに陶酔しています。好きこそものの上手なれ,考えることを楽しんでいればいいのです。

 お小遣いを値上げして欲しい。そこでママにどんな理由をぶつけたらいいか,子どもは考えているはずですよね。洋服をひどく汚してしまいました。子どもはママが納得する理由を考えます。それが見え見えの嘘になることもあるでしょう。何か求めるものがあるとき,切羽詰まるとき,子どもは懸命に考えます。はじめてのお店にお使いに行くとき,なんて言おうかと考えています。

 もしも子どもを机について教科書を読むだけの勉強に追い込んでいたら,考えるチャンスを与えていないことになります。教科書を読むのは考えずに理解すればいいだけです。子どもには考えるという楽しみを与えません。自分自身に降りかかる課題でなければ,考えることはできません。もちろん,受験勉強のように試験問題が自分に被さっていると実感できるときは考えますが,それは特別なケースです。

 カツオ君は学校の成績ではイマイチなのに,イタズラやご機嫌取りのための悪知恵は良く働くというキャラクターを持っています。彼が理想と言うつもりはありませんが,暮らしの中で考える力をつけた方がはるかに豊かな思考力が備わるという面は認められていいでしょう。
 目を転じて,大人が持っている知恵?はどこから手に入れたものでしょう? 大人の話を聞いていると,ほとんどがテレビで言われていたこと,新聞に書いてあったこと,週刊誌の記事に載っていたこと,知人が話していたことなどですね。大人は机について勉強などしていません。知恵はそこら中に転がっているのです。隔離された勉強ではなくて,身近にある教科書を学ぶ方が楽しいはずです。

 教科書の勉強が全く無駄というのではありません。実生活の中であれこれ考える体験を持った上で,考えることの整理を教科書で練習することは意味があります。考える効率を高められるからです。考える体験のないままの教科書勉強は,効果が期待薄であるということです。

・・・お勉強とは,どんなことであれ考える行為そのものです。・・・


 〇どのように?

 勉強とは,育ちの一つの側面です。育ちには基本的なプロセスがあることをこれまでに繰り返し書いておきました。ここでは,勉強のプロセスとして再現しておくことにしましょう。分かりやすい例として,学校での試験の点数を上げるにはどうすればいいかということを考えることにします。

 試験に対する事前の勉強ですが,問題にはいくつかのパターンがあるので教科書の例題をすべて自分の手でノートに書き出します。読むだけでは効果はありません。手で覚えるのです。そうして試験に挑戦します。当然丸をもらえない問題があるはずです。そこからが分かれ道になります。

 試験が終わったということでできなかった問題をそのまま捨ててしまったら,そこで棄権することになります。これでは次の試験はもっと悪くなります。できなかった問題を自分の課題として大事にするのです。どこを間違えたか,どうすれば良かったのか,それをじっくりと考えて,もう一人の自分が「そうか」という納得を手に入れるのです。

 もちろん,後の祭りなので,試験の点数が上がるはずもありません。でも,同じ間違い方はしなくなるはずです。実はここだけの秘密ですが,人が犯す間違いは繰り返すものです。人それぞれに間違い方に特徴があります。「また同じところを間違えた」ということが結構多いのです。ですから,一度の自分の間違いをきちんとクリアできるようになれば,その後の繰り返すはずの間違いから逃れることができるのです。伸びる子とは育ちの基本サイクル=失敗・反省・学習・挑戦をきちんと踏襲して,同じ間違いをしない子どもなのです。

 子どもはたくさん間違えます。そのすべてを一度にクリアさせようと欲張らないでください。昔話が教えるように,欲張ればすべてを失います。まずできているところを認めてやり,その上にちょっと気をつければできたはずの間違いだけを選んでください。子どもは「そうだった!」と思うことができます。「それくらいだったらこの次はできる」,そう思えたら自信になります。ここまではできた,できる,その自信があってはじめて,できるかもしれないというより難しい問題に挑戦することができるのです。

・・・お勉強とは,失敗を繰り返さないためにすることです。・・・



《お勉強とは,実質的な総合学習なのです。》

 ○どんなにたくさんの言葉を記憶していても,それをつなぎ合わせて文章にできなければ,何の価値もありません。どんなに専門知識を持っていても,それを使って何かを作り出せないなら,それは無駄な知識です。

 学校で勉強したことが役に立たないと思っているとしたら,それは勉強という言葉を教科書学習の意味で使っているからであり,その限りでは真実なのです。

 育ちを促す勉強とは,もう一人の子どもが言葉を獲得し,言葉を操ることで物事を分けて分かり,鍵になる質問一覧を完成させ,森羅万象を見極めて,イメージを再構築しようとする楽しい作業のすべてなのです。


 【質問8-04:あなたのお子さんは,お勉強をしていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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