*** 子育ち12章 ***
 

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「第 8-07 章」


『ドングリの 背を比べて 無理をする』


 ■はじめに

 先の号で学校週五日制から家庭二日制への意識の転換について触れておきました。制度の改革を「チャンス」であると考えて,これまでの養育を検証し反省し再構築しようという宣言を述べるにとどめました。話は当然のこととして先に進まなければ,タダの看板倒れになります。次のステップは,これまで通りの学校依存というやり方でよいのかという検証,よくないのであればそれは何かという反省を具体的に実行することです。

 はじめに「学校とは何か」を規定しておく必要があります。学校は子どもにとって教育を受ける環境システムです。その最も基本的な特徴は「同質性」ということです。教育効率の面から,同一年齢ごとに編成されています。その横並び集団は,同一レベル,同一体験,同一関心,同一理解など,同等の発達段階にあり,集団でありながら単一の教育対象に擬することが可能です。だからこそ,一人の教師が授業を受け持ち,一斉授業という手法が可能になるのです。授業効率の面で選択されたシステムなのですが,もっと広く養育という面から見れば,きわめて特殊なシステムということです。当然のこととして特殊な育ちの様相が現れるであろうと予測できます。

 「水は方円の器に随う」という言葉があります。子どもの育ちも環境の形に依存することは容易に推察できます。そこで,これまで同質な環境の中で育ってきた子どもたちが,どのようにその影響を受けているか,いくつか洗い出してみることにします。ただし,ここでの考察は学校教育に対するものではなくて,あくまでも子育ちの環境としての学校という形態に関するものであることを再確認しておきます。



【質問8-07:あなたのお子さんは,異年齢のつきあいを持っていますか?】

 《「異年齢のつきあい」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇つきあうのは誰でしょう?

 学校の同質な集団で育つ子どもは,同質であることが見えにくくなります。例えば,私たちは普段日本人であることを忘れています。ワールドカップのような国際的なイベントがあるときに,自分は日本人だと意識することができます。同じように,同質意識を明確化するためには,比較が一番です。そこでクラスでは,誰か生け贄を選んで,その子とは違う自分たちという確認作用を編み出します。

 元々が違いのない集団ですから,些細な違い,理不尽な言いがかりを根拠としてターゲットを探し出します。それがいじめです。下手に庇い立てすると自分が標的にされるという恐れが傍観者にはありますが,それは誰が標的になってもおかしくないほどの小さな違いによるものだということをみんなが了解しているからです。

 このような小さな【差別化】が恐ろしいのは,本人に悪気が湧かないこと,ちょっとした悪ふざけといった気持ちでやってしまうことです。同質な中で自己確認をしようとするから,些細な差を暴きます。それを避けるには,異質な集団の一員になるのが一番です。兄や姉世代と日頃から集団化していれば,幼いもの同士といった意識が自然に芽生え,仲良くなれます。もちろん逆もあって,弟や妹世代とつきあえば,自分たちが兄や姉であるという新しい連帯意識を持てるようになります。

 もう一人の子どもが大きな違いを見るようになると,小さな発達上の早い遅いは苦にならなくなります。ママだって同じです。我が子と同年齢の子どもばかり見ているから,小さな差に一喜一憂するようになります。異年齢集団を見ていれば,細かなことにとらわれることが少なくなり,ゆったりとした気持ちになれるはずです。

 いじめが増えているのは,学校生活が中心になっているからです。家に帰っても同級生としか遊ばない,その閉鎖性が仲間割れの温床なのです。地域二日制の目指すべき目標は,異年齢のつきあいを子どもたちに堪能させる仕掛け作りです。今それをしないと,いじめの根はますます強く蔓延っていくことになるでしょう。

・・・つきあうとは,異年齢の鏡の前での自己確認作用です。・・・


 〇どこでつきあえばいいのでしょう?

 同質な集団で育つ子どもは,異物を極端に嫌うようになります。自然発生的に極力純粋になろうという傾向が出てきます。きれい好きな人がきれいにしている場にちょっとでもゴミを持ち込まれたら怒り出すのと同じです。持ち込みそうな人は排除しようとします。一種の鎖国状態に似てきます。

 子どもたち同士でも,学年が違うと分からないと言っていますが,それぞれがあまりに尖鋭な感覚に研ぎ澄まされているからです。ちょっとした違いが感受性の針を振り切ってしまうのです。体温計を温度計として使っているようなものです。

 このような【純粋化】は,例えば,世間に残存している家柄とか格式へのこだわりと相通じるものです。子どもの場合は,同じテレビ番組とか,同じバージョンのゲーム機とか,同じクラブに所属するとか,同じ塾に通うとか,当事者にしか意味のない接点でつながり感を持とうとします。関心の幅が狭いので,つきあう範囲が狭く縮んでいき,閉鎖性と排除が同時進行していきます。

 異質なつきあいを持てば,閉じこもるより開いた方が何倍も楽しいことがあることを知るはずです。格式にとらわれたあれこれがマンネリ化を招いているのは頑なに異質性を拒否しているせいなのです。子どもの育ちには子どものうちにあれやこれやを体験することが必要です。いろんなことに楽しさを見つけるようになれば,その育ちがスムーズに進みます。

 ご近所に住む子ども同士の間で,幼稚園組と保育園組などに分かれてしまうことがあるかもしれません。まずは,そこからつながりを復活し,異年齢の集団を子ども会などの活動によって組み上げることを勧めます。今のままでは,鉢植えの花と同じで,来年も咲くという保証はできなくなります。

・・・つきあうとは,異年齢・異質に向けて気持ちを開くことです。・・・


 〇どんなときにつきあえばいいのでしょう?

 同質な集団で育つ子どもは,お互いに気心が分かり合えて,なんの苦労もなく簡単に仲間づくりができます。ツーと言えばカーと答える仲です。そこではクダクダとした説明は無用で,一言ですべてが理解し合えます。「見たか?」,「見た」,というわけです。会話は確認し合う言語の多用になり,単語で用が済みます。

 言葉を使わずに意思疎通ができるので,次第に言葉が退化してきます。語彙数が少なくなり,同時に言葉自体の短縮化が進みます。メールの略文がその例です。これが今の子どもたちに現れている表現力の収縮化であり,いわゆるちゃんとした表現からの逸脱と見なされます。

 このような言語表現の【簡略化】は,例えば,夫婦の間で「あれ」と言えば通じることにも対応します。親しい間での会話であればそれでもいいのですが,他人とのコミュニケーション能力にはなり得ません。社会的なつきあいでは誤解を避ける上で,細部を埋める気配りが必要だからです。

 子どもの言語能力は,多用な言葉を使わなければ通じない世界にいることで育てられます。「ムカツク」。その一言で通じるほど世間は単純ではありません。保護者には子どもの気持ちを酌み取る努力が求められるとはいえ,一方で子どもの方にも説明能力の育ちが求められるのです。分かってくれない大人がわるいと甘えるような赤ちゃんのままでは困るのです。助けが欲しいときに,それがちゃんと分かってもらいたいとき,言葉によるつきあいが不可欠になります。

 いい加減な言葉遣いでは通じない,そんな異世代集団の中での会話訓練が必須なのですが,それが今の子どもには与えられていません。同級生としかつきあっていないと,卒業してからも同級生と連んでいるしかなく,社会の人脈に組み込まれなくなります。そんなことは卒業したら自然に慣れると思っていたら,それは見込み違いです。状況は慣れることができないほど,落ち込んでいるからです。言葉遣いの落ち零れ,ちょっときついですが,そう言っても過言ではありません。

・・・つきあうとは,異年齢の人と分かり合える会話ができることです。・・・


 〇つきあうと何が起こるのでしょう?

 同質な集団で育つ子どもは,その閉じこもった集団特有の居心地のよい価値観を作り上げようとしていきます。例えば,「真面目に努力する」といった大人に押しつけられる価値を拒否することで,安逸な価値を選んで振りかざそうとします。ですから,真面目に努力しようとする仲間内からの造反は,寄ってたかって潰しにかかります。外部世界の回し者という忌避感覚なのでしょう。

 一つの集団としてのみ過ごしていると,自分たちの思い通りに安穏としようとすれば可能なのです。しかしながら,閉じたシステムは淀むものであり,マンネリ化していきます。熱いお湯に投げ込まれたカエルは,慌てまくって飛び出してきます。しかしぬるま湯に放り込まれたカエルはお湯が熱くなってきても飛び出すことをせずに死んでいくという話があります。いい湯だなと思っているうちに,手遅れになるということです。

 このような価値観の【停滞化】は,価値のぶつかり合いによる修正をしないことによって発生します。楽ばかりしているとやがて予期しない悪い結果に向き合うことになる,そんな経験をすることで楽はほどほどにした方がいいという知恵を獲得します。ずるをすれば一時はいいけど結局は悪い目に遭う,そんなおとぎ話的な価値観が実は本物であるという悟りが大切です。大人社会ではそんな見本は山ほどありますね。

 「朱に交われば赤くなる」という故事があります。良きにつけ悪しきにつけ,生き方のタイプが仲間の色に染まっていくという意味です。子どもにとってはどんな集団の中で育っているかということが,子どもの可能性を良い方向にも悪い方向にも伸ばしていきます。ママは友だち選びには気を配りますが,もっと大きな子ども集団にも目配りをしておく必要があります。ご学友だけでは友だちづきあいの偏りになっているんですよ。

 異年齢集団の中で,年長になれば下の子を庇って,がんばらなければならない場合があります。幼い子どもは少しはハンディをもらえますが,それなりの役割を与えられ,ちゃんとできたという喜びを分けてもらえます。協力するためには,自分をちょっぴり我慢させることが必要ですが,その後には達成感というご褒美が待っています。同年齢集団でイヤなことは押しつけ合うことを学ぶのと比べたら,育ちに雲泥の差が出てきます。

・・・つきあうとは,異年齢集団に秘められた宝を発見することです。・・・


 〇なぜつきあうのでしょう?

 同質な集団で育つ子どもは,いわゆる温室育ちという側面を持っています。外を知りません。知らないから恐がり,関係を絶ち,あげくは無視しようとします。特に人間関係では,「他者は木石と同じ」と何となく思いこんでいます。同じように生きているということを実感したことがないはずです。

 人が壊れるのを見たかった,そんな理不尽な犯罪が起こり始めています。考えれば分かるはずと大人は思うでしょうが,生きている他者は同級生だけという刷り込みを子ども時代に受けているので,衝動的な行動では木石感覚が吹き出してくるのでしょう。信じたくはないのですが,人を人と思わない育ちが現実に存在しているのです。

 このような人間観の【閉鎖化】は,普段は無関係さに紛れてこともなげに済んでいますが,腹立ち紛れに木の枝を折るのと同じ感覚で他者に襲いかかります。引ったくりをしても別に迷惑を掛けるような悪いことをしたという感覚を持てないのは,相手を人と思っていないためです。年輩の人とつきあったことがないから,人としての実感を持ちようがないのです。

 人に対する普通の感覚とは,愛する人(家族)から,親しい人(学友),顔見知りの人,同郷の人,日本人,人類という同心円上に段階を追って連続的につながっているものです。アナログ的感覚です。ところが,学友止まりの閉鎖したイメージを持ってしまうと,ディジタル的感覚になり,人の輪がぷっつりと断絶してしまいます。

 たとえ見ず知らずの人でも,人として認め尊重する感覚を育てるためには,人の輪をちゃんと繋いでやることが必要です。子どもにとって今途絶えている人のリングは「顔見知りの人,地域の人」なのです。すぐ傍に住んでいる異年齢の人,その人たちとせめて挨拶が交わせられたら,子どもは救われるはずです。

 近所づきあいをしないこと,挨拶も交わさないこと,それは周りの人を人と思っていないことになるのです。学校でしか育っていない子どもが,さらにそんな環境で育ちを重ねたら,人を壊しても平気と思うような育ちが促されていると結論せざるえません。ミッシングリングを早く繋いでください。

・・・つきあうとは,人としての条件を培うためなのです。・・・


 〇どのようにつきあえばいいのでしょう?

 同質な集団で育つ子どもは,個が埋没しそうな苛立ちを感じます。自分を主張し個を確立しようとするのは自然な欲求です。つまり,同じであることに安心がありますが,同じであることに不満が現れるのです。そこで自分になにがしかの変化を加えようとします。髪型や服装の改変などはその現れです。ただそれは改変に留まり,大きな逸脱には進みません。同質な仲間から拒否され,浮き上がることを怖がるからです。

 ティーンエイジ世代には,表面的な格好にこだわりを持ち,流行に乗りながらもワザと少し壊すことで目立とうする傾向が見受けられます。大きな流れとして現れた個性の時代という風潮は中流化した豊かな社会の産物ですが,それもまた社会の同質性から必然的に派生しているのです。高価な持ち物でしか個性化が実現できない,何かしら異常なことによる目立ち方しかできない,そんな世間の風が子どもたちにとっては不幸な追い風になっています。

 このような同質性の中での【差異化】は,流行を追いかけることに似た顛末になります。目新しさが主になるために,次から次と変遷し続けることになります。同じであるのはイヤと思っても,どうすればいいのか分かりません。そこで,タレントやヒーローの力を借りようとします。目新しさは異質の世界にしか存在しないのですが,それはブラウン管の向こうに見えている短周期のファッションなのです。

 子どもたちは何か面白いことはないかと探し回っています。しかし,自ら創造するという手間暇の掛かる悠長なことには背を向けています。軽いノリで変化を演出できさえすればいいのです。コピーを手に入れて,狭い自分の世界の中で見せびらかすことができさえすれば十分なのです。

 子どもは同質な仲間内だけに暮らしています。ですから,個を主張する変化も仲間内で通用すればいいのです。別の集団に同じ格好の者がいても,それは自分たちとは関係のない別世界ですから,一向に気になりません。こうして,大人の目には,どの子どもも同じ格好をしているように見えてくるのです。ママが洋服を選ぶとき,同じモノが複数揃えられていても,自分の周りに同じモノを着ている人がいなければ,買う気になるのと同じです。

 異年齢集団の中にいれば,子どもはそれぞれに特徴を備えることができます。最も分かりやすいのが単純な年功序列です。最年長から最年少までずらっと並ぶはずです。外見の変化などの余計なことをしなくて済みます。外見にこだわらざるを得ないのは,子どもの訴えなのです。

・・・つきあうとは,自分らしさを発揮するチャンスなのです。・・・



《つきあうとは,縦関係と横関係が織り上がることです。》

 ○子どもたちの心配される姿は,大づかみに捉えれば「社会性の未発達」と言うことができます。ところで,社会性を育てるためには集団生活が必要であることは誰しも認めることです。学校という形態が「子どもたち」という集団教育の場であるために,学校に行かせていれば社会性が育つと思いこんでしまいました。

 かつての子どもたちには社会性が育っていました。当時の学校と今の学校は形態的には全く変わってはいません。それなのにどうして今の子どもたちは社会性の発達をしていないのでしょうか? 今の子どもも学校環境に素直に適応すべく育っているはずですが,それでも社会性が育たないのは,学校がその機能を失ってしまったということではありません。

 元々,社会性は学校では育たないと考えるべきなのです。では,どこなのか? それは地域という環境です。昔と今の子育ち環境における最も大きな違いは,子どもが地域に入っているか否かということです。かつては地域における子どもたちを組み込んだ大きな人脈としての縦関係がありました。それが無くなったのは時代の流れの中で仕方のないことであったという見方もできるでしょう。しかしながら,国際化の中で見てみても,一人日本だけが子どもに対する家庭・地域システムの崩壊を招いています。決して時代といった天災ではなくて,大人による人災と見なさざるを得ないのです。

 同質な集団で育つ子どもは,横並びの糸と同じで,隣接する糸とはなんの関係もありません。社会という布にはなれません。布になるためには縦糸と絡む必要があります。その縦のつながりは「異質性」が特徴です。言葉はちゃんと順序よく並べないと通じません。違っている人がいろいろいることを感じ,いじめの種が些細なことを弁えます。安逸は認められないのだという大きな価値に気付きます。社会の一員であるという広い世界に飛び出したとき,子どもは本当の育ちをしようという気になるはずです。社会性とは何か? それは異質なものと折り合うことであり,だからこそ,異質との関わりの中でなければ育たないのです。


 【質問8-07:あなたのお子さんは,異年齢のつきあいを持っていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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