*** 子育ち12章 ***
 

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「第 8-09 章」


『なぜだろう 男のボクに オッパイが』


 ■はじめに

 1970年代に「三無主義」という言葉が聞かれました。最近はすっかり影を潜めていますが,それは解消したからではありません。当たり前になったのです。流行は珍しい間は語られますが,行き渡って当たり前になると,ことさら言い募る必要が無くなります。「子育て羅針盤」の100号記念として,今号より三部作として「無関心(99),無気力(100),無責任(101)」について考えることにします。記念というには何とも芸がありませんが,お許しを・・・!

 生きることは環境への適応と言えます。適応するためには,環境のあれこれを見届けておく必要があります。社会というのも環境の一部です。自分の周りにいる人や事柄に無関心であることは,生きることからの逃避に当たります。ところが,豊かな社会になることによって,生き方に突然変異形が出現してきたのです。

 人は環境と関わりを持たなければ生きられません。日々の暮らしでは,コンビニと関わっていないと生きられません。しかしながら,その関わり方が心の関わりではなくて金の関わりに変わっています。関心ではなくて,関金(?)なのです。まるでカネゴンの登場です。周りの人との関わりは,「関係ない」という宣言によって一方的に断ち切られていきます。

 無関心が招くものは何でしょうか? 周りに関心を持たないと,周りが実体を持つという意識が生まれません。周りの人も優しく生きていることが認められなくなります。同時に,周りへの気配りを省略することで壁を張り巡らして閉じこもります。自分勝手な世界に麻痺し耽溺し安逸を貪るようになります。周りを見ないことは周りが暗闇同然になることです。真っ暗な闇の中に自分の近くだけがこうこうと照らし出されている,それは劇場のステージにあがったスターの気分に似た酔いを与えてくれるでしょうが,気がつくと孤独でしかないのです。劇場と錯覚していたのは,実は荒れ野の一部屋なのです。

 心を関わらせようとすることが関心であり,その関わりのきっかけになるのが好奇心です。豊かさが奪ったのは好奇心という心の味覚です。激辛,激甘という味覚障害が,関心を麻痺させて,無関心という症状に至ったのです。好奇心を復活させないと,心の闇に吸い込まれます。



【質問8-09:あなたのお子さんは,好奇心を持っていますか?】

 《「好奇心を持つ」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇好奇心を持つのは誰でしょう?

 人がしているのを見ると,「面白そう」と好奇心が燃え上がります。マネをして自分でやってみると「何だつまんない」と思うことがあるはずです。そこで放り出すことになります。でも,「あの人はこれのどこが面白いのだろう?」と不思議に思うもう一人の自分もいるはずです。

 子どもたちは「何か面白いことがないかな」と求めています。その面白感覚が繊細さを失っていることが気になります。味覚では過激な刺激へのシフトにより薄味の切り捨て,嗅覚では消臭と過臭の二極化によりほのかな香りの追放,視覚では過剰な映像化により視野の限定(画面の強い印象に周辺の事情が飲み込まれてしまう),触覚ではスベスベ感・ナメラカ感嗜好により痛点の退化が進んでいます。それが豊かさだという思いこみがあるからです。同じように心の感覚である好奇心もバランスを失っています。

 面白さとは個性的であり多様なはずです。それがマスコミ情報の大波に乗せて押し寄せてくる面白さに均されています。無垢な感覚の子どもはひとたまりもありません。ひとたび強い味を覚えてしまうと,感覚は慣れてしまうので,少々の味は感じなくなります。もっと強いものを求めていきます。このように偏った情報しか入ってこないと,もう一人の自分はミスリードされることになります。

 日常の平凡な暮らしはほとんど刺激がありません。それは感覚をご破算にして0に復帰している状態です。このことが大事なのです。食事のご飯やパンは味がほとんどありません。だから毎日食べても飽きません。同時に薄味のおかずも美味しく感じられます。ご飯とおかずを交互に食べるのが食事の基本ですが,ご飯によって味覚のレベルを常に0の状態に復帰させるという意味があり,美味しく食べるという知恵なのです。

 面白いことがない,その状態を普通にすれば,ちょっとしたことが面白く感じられるようになります。人がしている面白さは,自分の面白さとはレベルが異なるものです。オモチャの与えすぎは,好奇心を鈍くする育てになります。0に戻る暇を与えないからです。もう一人の自分が0刺激の中にいたら,周囲の小さなものごとに好奇心を向けようとするはずです。夜静かにしているとどこからともなく虫の鳴き声が耳に心地よく響いてきますよね!

・・・好奇心とは,五感情報からもう一人の自分が選択するものです。・・・


 〇どこで好奇心を持つのでしょう?

 夏休みにはセミを捕まえようとしている子どもの姿があります。木の枝を見上げ小さな獲物を探しています。子どもにとって昆虫は新鮮なオモチャです。短い夏を飼育という関わりによって,ともに過ごそうという積もりでしょう。夏休みの宿題かもしれません。

 大人から見れば他愛のない遊びにしか見えませんが,子どもにすればその一瞬は真剣です。自然との触れ合いと言っても,それは昆虫にとっては押し掛けられた出会いであり,ありがた迷惑なはずです。一緒に遊ぼうと誘われても,昆虫には最大の危険に遭遇したことになります。昆虫は何も考えずに,ただひたすら生きることで応えてくれるはずです。

 夏になったら突然姿を見せる昆虫たち,動いている生き物だから好奇心の対象になります。どんな生き物かという疑問が湧くからです。子どもが動物について質問するときに,「何を食べているのか?」と尋ねます。自分がご飯を食べているから,疑問が出てきます。「どうして足が6本なのか?」という疑問は自分が2本足だからです。「どうして飛べるのか?」という疑問は自分が飛べないからです。

 自分との違いに気が付いたときに疑問が生まれ,好奇心に火がつきます。自分を基準として意識できたとき,自分とは違うものが奇妙に感じられ,アレッという気持ちが生まれます。何か物差しを持っていないと,好奇心は湧きません。その辺にある木や草はいつも見ているのに,何の関心も抱きません。そこにあるのが当たり前だからです。ところが,ある日花が咲いているのを見たときに,アレッと思い,何の花だろうと考えるようになります。

 赤や黄色,大小,いろんな花が咲くと,一つ一つの花の名前が気になります。好奇心は広がりを持つようになります。芽が出て葉が出て花が咲き実がなるという成長につきあうときには,どんなに変化していくのかが楽しみになります。その楽しみが好奇心を一段深い関心へと誘っていきます。

 子どもが何かをじっと見つめているときは,しばらく見守っていてください。ママからは「いったい何をしているの?」としか見えませんが,子どもの目には何かが見えているのです。ママが「何が見えるの?」と尋ねても,子どもは答えられないでしょう。好奇心という抽象的なものを説明する力がないからです。「ママ,お花が風とお話ししてるよ!」,「?」。

・・・好奇心を持つとは,生きているものとの関わりです。・・・


 〇どんなときに好奇心を持つのでしょう?

 ごちそうを食べると言えば,それは外食のことです。何かお祝い事があるときに母が時間を掛けて作ってくれる献立がごちそうであった時代は,すっかり遠くなってしまいました。豊かさとは外にあるもののようです。

 レストランで子どもがママに尋ねます。ステーキと格闘しながら,「ママ,サーロインて何のこと?」。「・・・,パパ,答えてあげて」とうまくかわします。パパも食べている最中なので,「後で」と短く切り上げようとします。おそらく,子どもは二度と「サーロインが何か」という疑問は持たなくなるでしょう。

 子どもが疑問に思うことは,小さな線香花火と同じです。その一瞬しか無いのです。そのタイミングを逃したらすっかり忘れてしまいます。「後で調べてみよう」ということは,子どもにはあり得ません。すぐそばに辞書や事典がある環境であれば,疑問という種を好奇心の芽に育てることができます。

 おそらくママもかつて「サーロインとは何のこと?」と思ったことがあるはずです。あいにくその場で解決できなかったために,その疑問はあえなく泡と消えてしまいました。もちろん,サーロインがどんな意味であるか知らなくても,何の不都合もありません。だから,疑問を忘れていられるのです。因みに,ロインとは腰肉の意味です。ロインのステーキを食べたイギリスのヘンリー8世が,その美味しさに感激して「サー」の称号を与えました。お肉の貴族になったのです。

 子どもはステーキという言葉については普段使っているので何の疑問も抱かないのですが,サーロインという言葉ははじめて聞いた言葉なので,何だろうと疑問に思います。ところが,食事を終えてしまうと,サーロインステーキはメニューの一つとして体験してしまい,単なる名前としてメモリーされます。小さな疑問は深く沈んでいきます。

 もし,サーロインの意味に触れることができたら,牛肉にはその部位によっていろんな名前があることに気付くことができたかもしれません。牛肉への好奇心が生まれ,食品に対する関心へと道は拓けていきます。何だろうという疑問は,好奇心の扉を開く鍵なのです。

・・・好奇心を持つのは,違いや変化に疑問を感じたときから始まります。・・・


 〇好奇心を持つと何が得られるのでしょう?

 お肌の若さはママにも一大関心事ですね。美容と健康は表裏一体ですから,栄養にも気を遣っておられることでしょう。その熱意には常々感心しております。なにも嫌みを言っているのではありません。美しさを追いかけていることはいいことです。ただ,最近のプチ整形に気楽に入り込んでいる若い方には,ちょっぴり驚いています。

 子どもはいろんな質問を持ち出してきます。それに答えられたら超一流の学者になれるほどのものです。しかし,だんだんと質問しなくなっていきます。子どもの持っている無限の可能性がしぼんでいくのと軌を一にしています。子どもには理解できないことがあまりに多すぎるからであり,そのことに気付いてしまうからです。

 それでも分からないことがある,もっと知りたいという思いを若者は抱き続けます。大人になるとは,分からないことをそのままに放置しても気にならないということです。世の中ってそういうものだ,という諦めに似ています。考えたってどうなるものでもない,それは好奇心の喪失です。

 好奇心を失うことが老成することと重なっているのです。ということは,好奇心は心の若さのバロメーターになります。奥様方が噂話という好奇心をいつまでも失わないから,長生きできているのかもしれませんね? 冗談はさておいて,実のところ気持ちの若い人,年に似合わず生き生きとしている人は好奇心を持っています。

 子どもたちが妙に大人びて,時には生気を感じないことがあります。きらきらした目をしていない,それは何かを見つけようという気持ちが失われているせいなのです。「どうせ」というニヒルさが,好奇心ならぬ「嫌奇心?」をひけらかしています。

 子どもの好奇心を育てないと,子どもから一気に老人にスリップしかねません。豊かさという竜宮城に遊んでいる間に,心は300年のタイムスリップをして,学校卒業の玉手箱を開けたら,あっという間におじいさんです。ママは乙姫様にはならないでくださいね?

・・・好奇心を持つことは,心を生き生きとさせてくれます。・・・


 〇なぜ好奇心を持つのでしょう?

 好奇心には普通,目的がありません。目的を持って取り組むときには,未知なる部分は予定されたものとして意識の仕方が異なります。好奇心は探検への入り口を見つけるところまでです。「この先に何があるのかな」という純粋に無目的な興味です。知的好奇心と言われているものです。

 子どもの質問を「つまらないこと考えていないで!」と思うはずです。何の役にも立たないこと,成績には全く関係のないこと,そんなこと考えている暇があったら,もっと勉強しなさい! 大人は「○○のため」という目的を持ちたがります。目的のないことはただの暇つぶしと思っています。そのことが大人から好奇心を自動的に消滅させていきます。

 何らかの目的を設定すると,そこで出会う未知なものは「解かねばならないもの」に変質します。疑問は「問題」へと看板の掛け替えが行われます。ここに大きな気持ちの転換点があります。知りたいという疑問はもう一人の自分が能動的に関わろうとすることですが,解くべき問題は目的が押しつけてくるものであり受動的に関わらされることになります。すなわち,与えられるものとなります。

 迫ってくる問題や課題は,重苦しいものです。それに引き替え,好奇心による疑問は楽しいものです。知りたいという欲求の素直な発露が好奇心だからです。確かに好奇心には,課題を前にしたときのような真剣さはないかもしれません。しかし好奇心が高じて知的な関心に昇華すれば,時を忘れて没頭するという自然な真剣さが待っています。それが意欲というものの道筋なのです。

 勉強を楽しんでするか,嫌々するか,それは好奇心という扉から入ったかどうかに依ります。好きこそものの上手なれ。嫌々してものになるはずもありません。勉強の環境を整えるとは,好奇心の門を子どもの周りに巡らせることです。なぜ三度の食事をするのでしょうか? なぜ人は夜眠るのでしょうか? なぜママは子どもを産んだのでしょうか? なぜ子どもを叱るのでしょうか? 自分の一日の行動全てに「なぜ」と自問してみてください。不可解であるが故に,自分が愛おしくなるはずです。好奇心とはそういうものです。

・・・好奇心を持つとは,もう一人の自分の知的空腹感から発します。・・・


 〇どのように好奇心を持たせればいいのでしょう?

 子どもは面白いことが好きです。珍しいものに目を引かれます。それが好奇心です。見たことがないもの,滅多に触れないもの,普段の生活には無いものが対象になります。しかし,好奇心はマッチの炎と同じで,火がつくのですがそれ自身は燃え続けるものではありません。

 あれほど夢中になっていたのに,あっさりと飽きてしまいます。それは仕方のないことです。好奇心という種火を関心という燃料に転火しなければなりません。そこにはちょっとしたコツが要りようです。好奇心があれば自然に関心に火が着くものではありません。

 勉強を教えているときに,子どもが「どこが分からないか分からない」と言うことがあります。教える者と教えられる者とが接点を違えているから,転火できないのです。関心というロウソクには燃えるべき芯があります。そこに好奇心の火を触れさせなければなりません。

 関心という美味しいジュースは零れ出さないようにパック詰めになっています。飲むためには細いストローを差し込み口に突き刺す必要があります。闇雲に突き立ててもストローはつぶれるだけです。アドバイスをしてやると,無事に甘いジュースが飲めます。その一口を味わいさえすれば,後はゴクゴクと一気呵成に飲みあげることでしょう。

 子どもの疑問を門前払いするのではなくて,「本当に不思議ね」とまずちゃんと受け止めてやることです。これで同じラインに立つことができます。次は,ママなりの考えで応じます。正解である必要はありません。誤解であっても構いません。とにかく,一歩先に進展することです。疑問を持ったから新しい考えを掘り起こせたという一口の甘いジュースが大切なのです。関心というパッケージに穴があきます。

 前号で触れておいた「類推」というやり方も使えます。スズメが庭に舞い降りてきました。「スズメさん,何してるのだろう?」。「お昼ご飯を食べてるのよ」。子どもになぞらえて話してやるのです。スズメのことはスズメに聞かないと分からないのですが,自分的に納得できれば,まずは一歩理解が進むはずです。子どもが好奇心を持って立ち止まったとき,ちょっとだけつきあってください。子どもの好奇心を大事にしようと気に掛けていれば,自然に小さな一歩を進められるはずです。

・・・好奇心を持つとは,外部世界との一瞬の触れ合いによる種火です。・・・



《好奇心を持つとは,子どもの無限の可能性への点火です。》

 ○ママが楽しそうにハミングしながら夕食の準備をしています。子どもは楽しそうだなと思います。どうしてママはあんなに楽しそうにお料理をしているのかな? 料理への好奇心が芽生えます。学び(マナブ)とは真似る(マネブ)ことでしたね。そこで,真似したくなるようにし向けることが必要になります。ママが楽しそうにしていることが誘い水になります。

 子どもに勉強させたかったら,まずママが楽しくお勉強してみせることです。好奇心に火をつけるのを他人任せにしていては,子どもが可哀想です。子どもはママが大好きなんですから。してみせることがしつけの第一歩ですが,それは好奇心という種火を点けることなのです。今更勉強なんて,その気持ちは子どもにちゃんと伝わっていますよ? 勉強はほんの一例ですが・・・。


 【質問8-09:あなたのお子さんは,好奇心を持っていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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