*** 子育ち12章 ***
 

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「第 8-10 章」


『いつからか 自分ですると 手を離れ』


 ■はじめに

 「子育て羅針盤」の100号記念として,前号より三部作として「無関心(99),無気力(100),無責任(101)」について考えています。今号は無気力がテーマです。体力はもちろん,気力がないと何をやってもつまらないものです。お相撲さんも気力の衰えを理由に引退していきます。

 「つまんない」。何をするでもなく,ただぼんやりと座っている。その姿には眠気,呑気は漂っていますが,意気,活気,元気,才気,生気,覇気は感じられません。気を確かに! 気を失うと大変なことになります。気功という健康法がありますが,気は奮い立たせる必要があるもののようですね。

 「しらけている」。心の脈動がツーッと水平状態に流れていきます。その状態にフッとはまりこんだとき,若者は永眠への扉の前に立ちます。悪魔が寄り添ってきます。「クスリやらない?」。幻の気力に酔いしれて,病みつきになってしまいます。正門から通用口に替わっただけです。

 気力は感情の高ぶりです。燃える思いというものがありますが,燃えるには燃料が必要です。それが気です。車のエンジンがガソリンの気を燃やしているのと同じです。気とは生きる上でのいろんな活動の燃料なのです。気が弱いと燃えることができませんし,気が強いと暴発してしまいます。心臓が脈動して命を維持するように,心の振動が感情を鼓舞し気を漲らせてくれます。

 関心,気力,責任の三点セットは,それぞれが独立なものではなくて,ひとつながりになっていると考えてください。心を周囲に関わらせる関心を持つから,お互いに気力が共鳴し合えて,周囲へ温かな働きかけをしようとする責任が果たせるのです。この順序をちゃんと踏むことが大切です。「前向きに生きる」というのは,文字通り前に真っ直ぐ進むことです。横や後ろに進めば,それは脇道に迷い込んで,道を踏み外すことにつながります。

 孤独に生きているときには,関心も気力も責任も必要ありません。社会とのつながりの中で必須な資質です。目立ちたい一心も一つの気力ですが,それは関心を持たれたいという社会性に対する負の気力であり,さらには悪行に頼ろうとする仕儀は社会に対する負の責任の持ち方になります。大人はそれを甘えと呼んでいますが,向きが逆であることを意味するのです。後ろ向きではいけないということです。



【質問8-10:あなたのお子さんは,前向きに生きていますか?】

 《「前向きに生きる」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇前向きに生きるのは誰でしょう?

 やる気? それをママはどれほど子どもに期待することでしょう。やる気を出しなさい! 口が酸っぱくなるほど言い募っても,子どもはケロッとカエルの顔です。子どもは子どもでやる気って何だと思っていたりします。やる気を出したら,何がもらえるの?

 はじめて学校に行く一年生に,ママは「先生に名前を呼ばれたら,大きな声で元気にハイって返事をするんですよ」と言います。素直な子どもは教室で思いっきり大きな声で返事をしています。参観日に出かけたママは,我が子の返事が並はずれていることに驚き,つい知らんぷりを決め込みます。帰ってきた子どもに,「どうしてあんなに怒鳴るの」と尋ねると,「だってママが大きい声で元気よくって言ったから」。

 声を出すことは元気のしるしであり,気力の発露になります。それをさせているのはもう一人の子どもです。ママがアドバイスしたことをもう一人の子どもが素直に受け入れたからです。実際にそうしたら先生が「元気があっていいね」と認めてくれました。認めてもらえたことを喜ぶのは,もう一人の子どもなのです。

 自分から進んでという積極性は,「やってみよう」ともう一人の子どもが思うから発揮できます。最初はどうしてよいのか分からないからママの言うとおりにしていますが,それがちゃんと周囲との関わりの中で通用すると分かってくると,もう一人の自分が「これでいいんだ」という納得と自信を手に入れます。そういう経験をいくつか重ねたら,もう一人の自分が自分なりのやり方を他のことにも試そうという気になります。気力が生まれてくるのです。

 気力を完全に奪われたときに,人は虚脱状態に入ります。何が虚しく脱したのでしょうか? それはもう一人の自分がどこかに雲隠れしていることです。やる気はもう一人の子どもが支配しているので,たとえママでも外から勝手に操ろうとしても無理です。「○○しなさい」とママに言われたとき,「しようと思っていたのに」と逆らうのは,もう一人の子どもが自己主張するからです。

・・・前向きに生きるのは,もう一人の子どもです。・・・


 〇どこで前向きに生きるのでしょう?

 雰囲気に乗せられるということがありますね。記憶に新しいところではワールドカップの熱狂があります。それは一時的なことではあるのですが,人それぞれである気の動きが同調したときの熱気を垣間見せてくれました。同じ場所にいるというつながりが,気を合わせるのです。

 子ども部屋に一人いて勉強するかといえば,おそらく無理でしょう。気を合わせる相手がいないからです。ところが,塾に行けば勉強しようという気にさせられます。気持ちの同調化が働くからです。みんなですれば苦にならない,かえって楽しいというわけです。家庭教師の役割も同じです。先生と一緒にいる場は勉強する場であると覚悟しているから,その気になることができます。

 何も勉強に限らず,家庭がそれらしい雰囲気を備えていれば,子どもはその気になりやすいものです。親がテレビを見ていては,子どもが勉強する気にはならないと言われたりするでしょう。子どもの気力は未熟なので,どうしても大人の方に引きずられます。大人と気を合わせようとしてしまうのです。ですから,親の方が望ましい方向に先導してやらなければなりません。

 朱に交われば赤くなる,という故事があります。つきあっている友の影響を受けることを言っていますが,本来はよい方に感化されるという意味を持っていました。この言葉を今に持ち込もうとすると,いくつかの注意が必要です。今は同世代の友だちが主流ですから,よい方に導いてくれる先輩という友だちは期待できません。

 子ども集団の中で,兄や姉の立場に立たされると,子どもはごく自然に年長者という役割を果たそうという気になります。つまり,優しく指導するという前向きさを発揮するようになります。看護婦さんや警察官といった人の世話をする職に就く人は兄や姉が多いというのもうなずけます。甘えていられないという場に立てば,前向きにならざるを得ません。

・・・前向きに生きるとは,それが周りから求められるからです。・・・


 〇どんなときに前向きに生きるのでしょう?

 子どもにとってはいろんなことが初体験です。したことがないことにはどうしても尻込みするものです。それを見て消極的だというのは大いに酷です。親だってはじめてのことには二の足を踏むはずです。前向きであることは,そんなに簡単なことではないのです。

 ところで,はじめて赤ちゃんが歩き始めるとき,歩いたことがないからといつまでも歩こうという気にならないでしょうか? ハイハイをし,伝い歩きをしているうちに,ある日ひょっこり立っちをします。歩くように生まれついているので,特にその気にならなくても,歩き出します。言葉を覚えるのも同じです。「マンマ」の一言がいつの間にか,うるさいくらいに言葉を使い回すようになります。

 育ちとはいろんなことができるようになることです。赤ちゃんからの育ちの際には,ほとんどが本能的な発達をしていきます。しかし,幼児期になると社会生活上の育ちをする段階にステップアップしなければなりません。どのように育つか選択された育ちになります。環境に適合するように育たなければならないのです。寒い地方では寒さを前提にした育ち方のスタイルが選ばれます。暮らしの中にある家具や器具に相応しい育ちが必要です。

 もちろん,社会生活上に必要な資質も身につけなければなりません。家に訪ねてきた方にきちんと挨拶ができることとか,園や学校で仲良く遊べるといったことなどです。そのときに,積極性の有無が際だつようになります。人見知りをするか,人なつっこいか,という差が現れます。一般的には,人なつっこい方がよいことと選ばれるでしょう。前向きに生きることが望まれる生き方だからです。

 ママが子どもに前向きであることを求めるわけは,豊かな社会的資質を獲得して欲しいからです。成長につれて関わる社会は広がっていきます。多様な資質が必要になります。家では甘えていられますが,園では我慢が求められますし,外ではしゃんとしていないと叱られます。臨機応変な適応力です。それは教えられてできるものではなくて,体験しながらゆっくりと学んでいくものです。資質を向上し続けることが育ちなのです。

 「何でも体験してみよう」。それが,前向きに生きるためのエールです。やってみなければ分からないことがたくさんあります。やってみてはじめて簡単ではないことを思い知り,同時にできたときの喜びを手にすることができます。「はじめてのおつかい」という冒険体験は前向きな育ちの典型です。

・・・前向きに生きるのは,初めての体験に躊躇しながらも飛び込むときです。・・・


 〇前向きに生きると何が得られるのでしょう?

 積極的に取り組めば,何かいいことがあるのでしょうか? 損するばかり? なるべく口も手も出さないで,大人しくしている方が得といった雰囲気が大人社会にはあります。PTAの役員にならないように逃げ回るという姿は,子どもには大変示唆に富んだ教えになっています。

 出る杭は打たれるという言葉を言い訳として持ち出すことでしょう。でも,今は,出ない杭は抜かれて捨てられるという世の中です。肝心なことは,出方なのです。皆が喜んでくれるような出方をすればいいのです。その点さえ押さえておけば,前向きさを発揮する障害は一つクリアできます。

 物の豊かさよりも心の豊かさを求めている人が多いという調査結果があります。しかしながら,果たして皆がイメージしている心の豊かさが一致しているかというと,それはとても難しいことです。実はここに積極さが損につながるという逆転を引き起こす断層が横たわっているのです。

 人が物事の価値判断をするときには,してよいことと悪いことという尺度があります。ところが,その前に自分にとって損か得かという予備審査を持ち出します。そこでは面倒だからという消極性が価値の割引を強要します。よいことであることは確かだが,何も私がしなくても。そうして多くのことが門前払いになっていきます。

 掃除を真面目にするよりも,いい加減にして早く帰ろう。そんなことはその役の人に任せておけばいい。自分は心の豊かさを求めるのに忙しいから,そんな汚れ仕事はご免です。自分勝手な尺度が,本来の前向きさを封じていきます。自分のための前向きさは,社会には後ろ向きなのです。逆杭は抜かれることになります。

 大人は子どもの前では素直な価値判断をしていい格好をしたがる弱さを持っています。そういう大人にいいことと認められるようなことに前向きに取り組めばいいでしょう。子ども同士の認め合いはたいていろくな選択にはなりません。いわゆるバカな遊びに格好良さを見てしまいます。一気食いやら,ペットボトルのイタズラなどに走りやすいものです。

 以前に書いておきましたが,アリガトウの言える子どもが悪さをするのは,行動の逆転が起こっているからです。アリガトウは決して心の豊かさではないということを,もう一度思い出してください。ギブアンドテイクの順序が逆になっていないか,考えてみてくださいね。

・・・前向きに生きると,心の豊かさを手に入れられます。・・・


 〇なぜ前向きに生きるのでしょう?

 無気力な人がいると,周りは迷惑をします。家にいて何もせずにごろんとしているだけの人は,蹴っ飛ばしてやりたくなります。正直に言えば,いない方がいい人です。どうしてなのでしょうか? 無気力な人は生きていないからです。生きるとは少なくとも自分のことは自分でやれること,その上で周りと何らかの関わりを持てることです。共同生活とは生きているもの同士の間で成り立ちます。

 一緒に暮らそうという間柄であれば,関わりを持っていたいはずです。惚れているなら,してあげたい,助けたいと思うのが自然です。だったら,共同生活という関わりを通して,その気持ちを相手に伝えたくなるはずです。前向きに生きるとは,好きな人に向かって思いを届けようとすることです。

 ママが喜ぶからお手伝いをする。子どもは前向きになれます。前に好きな人が見えているから,積極的なアプローチができます。困っている人を見かねて手助けをする。チョボラという優しい前向きな行動が発揮されます。身近な人への気配りをすれば,何がしてあげられるかと考えるはずです。相手が喜ぶのはうれしいからです。

 でも,現実はそう甘くはないようです。家のことはママの責任。子どもが勉強できるかどうかは先生の責任。社会のことはそれなりの役目の人の責任。個人が個人の世界だけに閉じこもろうとしています。唯一積極的な働きかけは「どうしてくれるのか?」と,後ろ向きです。

 ケネディが「何をしてもらうかではなくて,何がしてあげられるかが大事である」と訴えざるを得なかった時代風潮は,今も健在です。人を愛するという欲求が薄れ,自己愛だけが肥満化しているようです。心の肥満が心を重たくして,心を前向きに開くのが億劫になっているのかもしれません。無気力とは,心のものぐさなのです。

 子どもたちの無気力の要因は,愛され可愛がられることしか学べなかったせいです。愛することを教えて,心を目覚めさせてやれば,きっと前向きに生きようとするはずです。だって,その方が楽しいのですから。

・・・前向きに生きるとは,人との関わりを楽しみたいからです。・・・


 〇どのように前向きに生きればいいのでしょう?

 ちょっとだけ個人的な印象を書かせて頂きます。このごろつくづく感じているのは,女性の元気のよさです。それに引き替え男性の何とも覇気のないことです。ストーカーやひったくりといった,何とも情けない仕儀は男として悲しくなります。

 女性はいつも前向きです。現実的という言い方もありますが,何かをしようと意気盛んです。男性はかなり後ろ向きです。するからにはちゃんとしないといけないという思いにとらわれて,見通しが立たないと腰を上げませんし,あれこれ心配が先に立ちます。社会生活の厳しさが染みついているものと弁護しておきましょう。

 女性のやり方はかなり乱暴です。とにかくやる,何かあったらそのとき考えればいい,ダメなら止めればいいということです。思い切りがいいというのでしょう。良く言えば好奇心旺盛で,手間暇を惜しまないで,ちょっぴり欲が深いようですね?

 しなければならないという完璧さを求めたら,どうしても気持ちが委縮します。もちろん,結果を度外視するわけにはいきませんが,はじめから完全さを備えることは無理だと考える方がいいでしょう。手始めは,「できたらいいな,できるかもしれない」,その気持ちで十分です。やっていくうちに具体的な課題が見えてきますから,そこでできることを丁寧に積み重ねていけばいいのです。

 算数の問題を解くときに,はじめから解き方が分かるはずもありません。できることをしていけば,「あっ,そうか」と段階ごとに次にできることが見えてきます。それが楽しめるようになったら,算数が好きになります。前向きな行動には,「なんとかなるだろう」という楽観視がベースにあります。

 ちゃんとしなさい。その言葉が,子どもを後ろ向きにします。歩き始めは不格好によたついていたはずです。とにかくやってみる,それから整えていけばいいのです。子どもに時間を十分に与えてください。やっつけ仕事は子育ちには馴染みませんので。

・・・前向きに生きるとは,気持ちの余裕が条件です。・・・



《前向きに生きるとは,できたら楽しくなると願うことです。》

 ○口元に締まりがない,ふわーっと半開きなった唇は気力が抜けた印象を与えます。きゅっと結んだ颯爽とした口元,その凛々しさに憧れを感じるように育って欲しいと願います。この颯爽としたとか,凛々しさという言葉がどこかに置き忘れられているようです。

 自然体がいいということに異議はありませんが,自然とは風雨に向かって凛としているものです。背筋をしゃんと伸ばして,しっかり目を見開いて周りに気働きをして,落ち着いて前に一歩一歩着実に進む姿が,自ら前向きに生きていくポーズです。クマさんはそう思っています。


 【質問8-10:あなたのお子さんは,前向きに生きていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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