*** 子育ち12章 ***
 

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「第 9-05 章」


『口一つ 耳は二つと ママ知らず』


 ■はじめに

 話は変わりますが,皆さん方は今日,この会場に何で来られましたか? 返事は「歩いて」ですか,「車で」ですか? それとも「講演を聴きに」,「誘われて」,「役目で」ですか? 何について返事をすればいいのか,迷われたことでしょう。それとも,さっと返事ができましたか?

 私が問いかけた「何で」というのは,何を尋ねているのでしょう? どのような手段でこの会場に来たか,どのような理由でこの会場に来たか,どちらにも受け取ることができますよね。普段の会話では,相手が何を尋ねているのか,話の流れの中で判断できます。でも,今のように突然問われると,判断できませんね。

 お子さんが帰宅したとき,「今日はどうだった」と言葉をかけていませんか? お子さんはきっとこう答えるでしょう。「別に」。「何もなかったの」,「うん」と続きます。このごろ,うちの子は何も話さなくなった,と嘆くことになります。確かに,子どもは成長してくると,親に対して洗いざらい話すことをしなくなります。親に内緒事を持つのは自立しているせいなのですが,それだけではない部分もあります。

 「今日はどうだった」という親の問が,子どもには何を聞かれているのか分からないのです。どう返事をすればいいのか分からないから,曖昧に「別に」としか言えないのです。先ほどの「何で来たか」という問の曖昧さよりも,もっと曖昧さがひどいのです。子どもが話さなくなったのではなくて,話させていないのです。返事のしようのない問が,子どもを黙らせてしまいます。

 ご近所づきあいで,こんな会話が交わされます。出かけようとしていると,「お出かけですか?」,「ええ,ちょっとそこまで」,「そうですか,いってらっしゃい」。考えれば,何の話かよく分かりませんよね。ご近所の会話はそれでいいのですが,親子の会話はそれでは困ります。

 親子の会話は大切な子育てです。親子が分かり合えるというのはおまけであって,本当は子どもの育ちに欠かせないものなのです。そのことをこれからお話ししていきましょう。



【チェック第5条:子どもに話させていますか?】

 《「話させる」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇第5条の意味?

 全体の構成である「誰が育つのか,どこで育つのか,いつ育つのか,何が育つのか,なぜ育つのか,どのように育つのか」という問題設定の三番目に,話が進んでいきます。「いつ育つのか」という問題です。

 「いつ育つか」なんていう問には,答えようがありませんか? 毎日育っている,としか言えませんね。気がついたらいつの間にか大きくなって,というのが実感でしょう。でも,こんなことを思ったことはありませんか? 「図体ばかり大きくなっても,まだ子どもなんだから」。身体は食べさせておけば大きく育ちます。まだ子どもと言うときの子ども,その子はこれまでお話ししてきた,もう一人の子どものことです。

 朝夕の食事に気配りすることが大切であることは,皆さんは十分に理解しておられるはずです。健康な子どもに育って欲しいからですね。ところで,子育てとはもう一人の子どもの育ちを促すことですよとお話ししておきました。もう一人の子どもがいつ育っているのか,それを知らなければ,子育てはできません。

 幼いのに,おませな子どもがいます。もう一人の子どもがおませなのです。そのように子育てしているからです。いつの間に,そんな風に育っているのでしょう。いつ育つかという問に答えておかなければ,もう一人の子どもは勝手に育っていると思ってしまうことでしょう。よい方に育ってくれればいいのですが,そうではないときには「そんな子に育てた覚えはない」という親としての後悔が待っています。

 本当は普通に暮らしていれば,いつ育つかなどということは気にしなくていいことです。しかし,時代の変化のせいで知らないうちに子育ての手抜きをしている現状では,これだけは欠かせないということを意識しておかなければならなくなっています。大自然の中では種は勝手に芽を出しすくすくと育っていきますが,都会では手間暇を掛けてやらないと育たないという状況と同じなのです。

 もう一人の子どもがいつの間にか育っているということのないようにするには,どうすればいいのでしょうか? 第5条の扉を開くことにしましょう。

・・・もう一人の子どもも養分を摂取したときに育ちます。・・・


 〇言葉?

 どちらかといえば,女性の方がおしゃべりであるというのが古来の通説です。なぜなのかということを考えた哲人がいて,答えを見つけています。女性がおしゃべりであるのはやはり訳がありました。それは,女性はやがて母親となり,そのときに子どもに言葉を教える先生にならなければならないからということなのです。

 そういえば,言葉のことを母国語と言いますね。言葉は母の言葉だったのです。もう一人の子どもが第二の誕生をすると言っておきました。母親からすれば,第二の出産ですが,そのときに第二の母乳が必要になります。それが母の言葉なのです。もう一人の子どもは言葉を糧として育ちます。

 聖書に「はじめに言葉ありき」と記されているのも,人になるのは言葉を持ったときだと考えられていたからです。言霊という言葉もあります。言葉には聖なる力が宿っているという意味です。霊という抽象的な存在を実感していた人たちは,自分の中に宿るもう一人の自分を霊魂と言い表していたのです。言葉はもう一人の自分を育てていると弁えていたようです。

 人となりは言葉に現れます。そのことを直感しているから,人は言葉遣いに敏感になります。しつけのできていない子どもはどんな子どもかという問に対して,多くの親が言葉遣いの悪い子をあげます。もう一人の子どもの育ちの良し悪しは,どんな言葉を取り入れているかによって見積もられているのです。さらに,子どもの言葉が汚いなら,その親の言葉が汚いと思われます。この直感は子育てをするときにとても大事です。

 いつ育つのか? その答えは,もう一人の子どもが言葉を覚えたときに育つということです。子どもの育ちに栄養のあるものを食べさせる気配りと同じ以上に,もう一人の子どもの育ちには豊かな言葉が与えられなければならないのです。粗末な言葉を食していたら,もう一人の子どもは貧相な育ちを強いられます。

 優しい子どもに育って欲しいのなら,優しい言葉を与えなければなりません。優しく育てれば優しい言葉を使うようになるというのは,育ちとは逆なのです。はじめに言葉ありきなのです。乱暴な言葉遣いをしているから,乱暴になっていきます。この順序を間違えないでくださいね。

 美しい言葉を使えることは,最も基本的なおしゃれであり,身だしなみなのです。嫁ぐ娘に,「あなたには何も物は持たせられないけど,美しい言葉だけはしっかりと持たせてあげたからね」,そう言って送り出すフランスの母親がいます。母から母へ伝える財産,大事にしてください。

・・・第二の誕生には言葉という母乳が不可欠です。・・・


 〇口移し?

 赤ん坊はお母さんのオッパイを口にくわえて母乳を吸い出します。もう一人の子どもはお母さんの口から出てくる言葉を目と耳で聞きだしていきます。もう一人の子どもは音を聞き分けると同時に,その発声の口型を見分けようとします。お話ししているママの口元をじっと見ることがありますね。

 言葉を与えるとき,赤ちゃん言葉は禁物です。幼い口まねは実は発声の仕方が未熟な段階であるに過ぎません。きちんとマネをしようとしているのですから,正確な手本を与えておかないと,未熟なままに据え置かれてしまいます。語りかけはきちんとした言葉であるように気をつけてください。もう一人の子どもが耳から聞き取った言葉を,自分の口に言わせようとしています。それが子育ちです。

 念を押しておきますが,親がもう一人の子どもを育てるのが子育て,もう一人の子どもが自分を育てるのが子育ちでしたね。親の言葉を口移しに聞き覚えたもう一人の子どもが,その言葉を自分の口に移しているのです。言葉は二段構えで身につけていきます。

 言葉が遅いという親の心配があります。一つは親の言葉を聞き取っていないために言葉を覚えていないこと,もう一つは言葉は知っているが発声の仕方が育っていないことが考えられます。どちらなのかをきちんと見極めて適切に対処することが大切です。

 言葉にも離乳食があります。いつまでも母乳というわけにはいきません。ママは子どもと密接に関わっているうちに,子どもの言いたいことを察することができるようになります。離乳するためには子どもからオッパイを取り上げますが,同じように子どもの言葉をゆっくりと聞き取るために,ママは少し離れることが必要になります。ある程度の言葉を使えるようになってきたら,ママは分かっていても,子どもが口でちゃんと言えるまで待つのです。

 察しのよいママは子どもが自己表現する前に分かってしまって,言葉を待たずに対処しがちです。でも,それでは言葉を使うチャンスを狭めてしまい,言葉の訓練ができません。もちろんゆっくりと焦らずに,徐々にし向けていくことは言うまでもありません。子どもに話させる,それが言葉の離乳食に相当します。自分で咀嚼できる言葉という意味です。

 トイレトレーニングがあります。おむつを外すと,何度か粗相をします。どうして早く言えないの,とママは焦ることがあるかもしれません。ママが口移しに言葉を教えていないからです。それでは,どんな風に言葉を教えたらいいのでしょうか? 次に考えてみましょう。

・・・話して聞かせ,次に話させて聞く,それが言葉のしつけです。・・・


 〇そのまま?

 子どもは口まねが上手ですね。ママの言い方をそっくり再現できます。それにはそれなりのわけがあります。もう一人の子どもは単純にママの口まねで言葉を取り込んでいるのです。そこに,しつけの勘所があります。もう一人の子どもがそのまま使える言葉を教えるというしつけ方です。この簡単なしつけが忘れられてしまっています。言葉はもう一人の子どものものということを見過ごしているからです。

 おしめが濡れてもじもじしている子どもに,「おしっこ出た?」とママが言うので,「おしっこ出た」とオウム替えしに言葉を覚えます。おしめを外しても,「おしっこ出た」と下着を濡らして言ってきます。「どうして早く言わないの」と言っても,その言い方を教えられていなければ無理です。何かしら兆候を見せたときに,「おしっこ出そう?」と言葉を教えると,「おしっこ出そう」と言うことができます。それからトイレに連れて行きましょう。

 「ママ,お菓子食べていい」。「だめ,もうすぐゴハンだから」。ママに禁止されます。「イヤだ,今食べたい」と言い出すかもしれませんね。「お菓子食べていい」,「お腹空いたのね」,「うん」,「ママもお腹空いてるのよ,もうすぐゴハンができるから我慢しようね」。もう一人の子どもは自分がお腹が空いているということを確認できて,ママも同じだと知り,ちょっと自分を我慢させようという風に導かれます。

 「ダメ」という拒否はママ対子どもの言葉であり,「お腹が空いたのね」という言葉はもう一人の子どもが言う言葉になっています。子どもの立場になって言葉掛けをするというのは,こういうことです。ママの言葉がそっくりそのまま,もう一人の子どもに移っています。もう一人の子どもは自分に対して言い聞かせる言葉遣いを手に入れることができたことになります。我慢させられるのではなくて,我慢するという導きができます。

 「廊下を走ってはいけません」という否定形の言葉が直に子どもに向けられます。もう一人の子どもの出番が奪われています。だから,子どもは言うことを聞きません。「廊下を走らないようにしよう」という肯定形に変えてみると,それはもう一人の子どもに言葉をかけていることになります。走るか走らないかを決めているのはもう一人の子どもですから,走らないようにしようとそのままもう一人の子どもの言葉になります。

 学校でも地域でも,子どもに掛けられる言葉は直接的です。ああしろこうしろと言う指図が多いでしょう。もう一人の子どもがしっかり育つまでは,ママの言葉が頼りです。子育てをよろしくお願いしておきますね。もう一人の子どもが話せるようにしつけてください。

・・・ママの言葉はもう一人の子どもの言葉になります。・・・


 〇言葉の向き?

 インスタント食品ばかりでは健康によくありませんが,もう一人の子どもの糧である言葉はどうでしょうか? 子どもたちはテレビから流れ出るインスタント的言葉を取り込んでいます。語彙の良し悪しもさることながら,言葉の使い方に偏食の弊害が現れています。また,日常の大人の言葉遣いも子どもには必ずしもいいものではありません。どういうことが心配なのでしょうか?

 夕餉の後,ママは後片付けをしています。パパはテレビを見ながら,「お〜い,お茶」と言います。普段であれば「ハーイ」と答えているのですが,その日はちょっと違っていました。「お茶がどうかしましたか?」という返事です。和やかな雰囲気ではありません。

 他に何か原因があるのかもしれませんが,「おーい,お茶」という物言いも気に障っているようです。「お茶」という言葉はその辺に放り出されている捨てぜりふなのです。聞こうと思うと,放り出されたお茶という言葉をわざわざ拾いに行かなければなりません。そんな失礼な物言いはありませんよね。それがカンに障るのです。

 テレビの言葉も同じです。アナウンサーが「おはようございます」と挨拶をしても,だれも返礼はせずに無視していますよね。勝手に言っているだけ,お茶の間に言葉が捨てられているのです。拾いたければどうぞという物言いです。子どもはテレビの前で,言葉とはその辺に放り出すものと覚えていきます。こうして言葉は聞かせるものだということを知らないままに育っていきます。

 「ママ,後でいいから,お茶を一杯入れてくれないか」,せめてこういう物言いが最低限のルールでしょう。つまり,だれに向けているかをはっきりさせ,相手の都合に気配りし,こちらの願いを伝えることです。言葉遣いとは,だれに向けて言うのか,だれに聞いて欲しいのかということをはっきりさせることです。言葉遣いを注意するとき,「だれに向かって言っているんだ」と言うのは,このことです。だれに向けて話すかと気を遣えば,自然に敬語が出てきます。捨てぜりふは飾る必要はないでしょう。

 腕白息子が帰って来るなり「お腹空いた」と言っています。その言葉にママは「冷蔵庫にケーキが入っているから食べなさい」と応対します。それは言葉のしつけにはなりません。「お腹空いた」という言い方は誰に向けてもいない捨てぜりふです。ママは勝手に言わせておけばいいのです。捨てぜりふで用が足りると思わせたら,社会に出て子どもが困ります。「ママ,お腹が空いているんだけど,何か食べるものがあったらちょうだい」。子どもにちゃんと話させる癖をつけること,それを聞き届けることがしつけです。ところで,「ちゃんと」とはどういうことでしょうか? もう少し紐解いておきましょう。

・・・捨てぜりふは意思をちゃんと伝えることができません。・・・


 〇文章化?

 言葉には向きが必要だと言いました。そのためには,言葉をつないでいかなければなりません。取りあえず,文章化することから始まります。片言が文章につながり,いくつかの文章を順序よく並べ,小さな話に組み上げるのです。話すというのは,話になっていなければなりません。お話にならない,それは文脈が整っていないことを指します。

 普段から文章のやりとりに慣れていないと,人の話を理解できなくなります。例えば,学校で先生は話をします。単語的な表現しか聞き取れないと,やがて先生が何を言っているのか分からないということになります。

 「どうして勉強しなければならないのですか?」。子どもの時代には誰しもその疑問を持つはずです。あなたのお父さんやお母さんは勉強していますか? 勉強なんかしていませんね。子どもの時にいっぱい勉強したからです。大人になったら勉強しないから,今のうちにするのです。という説得もあります。でも,それでは解答にはなっていません。

 勉強というのは,頭の中に知恵の作業場を構築する工事です。お家には台所があります。食事を作る作業場ですね。お刺身を作ろうとするとまな板と包丁が必要です。できた料理を盛りつけるお皿が必要です。いろんな料理を作ってみると,それぞれに必要な道具が揃っていきますね。こうして台所ができていくと,その後はどんな料理でも作ることができます。同じように,いろんな勉強をすることで,頭の中に知恵の台所を作ることができます。勉強しなかったら,台所がないお家と同じで,自分で知恵を作り出すことができなくなります。

 勉強の話をしましたが,勉強の基本は言葉です。言葉の世界で言えば,いろんな言葉のつながりパターンを身につけると,状況に相応しい言葉遣いをすることができます。いつか同じ場面を経験したことがある,それが知恵の根っこなのです。幼いときに自転車に乗る経験を済ませていると,途中にブランクがあっても,すぐ乗れるようになりますね。お話をたくさん覚えて,そのお話のパターンをきちんと整理して積み上げていくことが,最も基本的な勉強であるのです。話は知恵の構造と同じだからです。

 文章化できる,ちゃんとお話ができる,それがもう一人の子どもの成長の姿です。言葉を糧に,知恵という肉体構造が太っていると考えてみてください。もう一人の子どもは言葉という知恵によって構成されているのです。構造化した言葉,それが文章ですね。

 言葉を覚えたとき,もう一人の子どもが育っているということがイメージしていただけたでしょうか? ひとまず,ここで話を終えて,続きは次の第6条で考えることにしましょう。

・・・おしゃべりは無構造ですから,お話にはなりません。・・・



《話させるとは,もう一人の子どもの成長の確認です。》

 ○子どもが親と話していて嫌がることの一つは,親の一人合点です。この子はこんな子という親の思いこみも同じ結果につながります。子どもの願いは最後まで話を聞いて欲しいということです。特にママにその傾向が強いようです。

 何せママは赤ちゃんの頃からのつきあいで赤ちゃんのことをよく察する力を獲得しています。その自信が子どもの成長につれて過信になっていきます。子どもは親の知らない部分を育てていきます。なのに親はすべてを知っていると思っていますから,早とちりというすれ違いをするようになります。子どもに最後まで話させるように意識しておいてくださいね。


 【チェック第5条:子どもに話させていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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