*** 子育ち12章 ***
 

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「第 9-07 章」


『アリガトウ 言える子どもが 闇を行く』


 ■はじめに

 購読する新聞を替える度に,いろんなサービスが手にはいるそうですね。最近はニュースをテレビから受け取る方が増えて,若い人の新聞購読数が減っているそうです。ところで,新聞は最初の頃,1枚を二つ折りにしたもので,4面しかありませんでした。その3面に事件などの記事が掲載されていたので,三面記事という言葉が生まれました。

 事件といえば,テレビのワイドショーなどではレポーターによる推測話が報道されます。容疑者の周辺取材もありますね。いわゆるご近所の方たちのお話です。画面には,どうしてか下半身とか一部だけしか映し出されません。時にはドア越しの声だけです。どうでもいいことではありますが・・・。

 容疑者が少年であるときには,どんな子どもだったかと,生い立ちが問われます。「会えばきちんと挨拶するし,アリガトウも素直に言えるいい子なんですが,信じられませんね」。「いや,普通の子ですよ。そんな悪さをする子にはとても見えません」という声が多いですね。「あの子だったら,やりかねないと思います」といった言葉はあまり聞かれません。こんな話をすると,ワイドショーをいつも見ているように聞こえてしまいますね。

 普通の子,アリガトウが素直に言えるいい子,そんな子どもが悪さをしでかすのはなぜでしょう? 親はいい子に育って欲しいと願っていて,周りからもそう思われるほどちゃんと育っているのに,どうしたことでしょう? このわけをはっきりしておかないと,親としては不安です。なぜなら,何かが欠けているに違いないからです。何かが足りないから,育ち間違っているのです。

 子どもが不始末をしたとき,「そんな子に育てた覚えはない」という親の嘆きが出てきます。でも,実のところ,育て忘れがあるのです。子どもはいつまでも子どもでいてはいけません。大人に向かって脱皮する準備をしておく必要があります。それが何であるかについて,これから考えておきましょう。



【チェック第7条:子どもに指針を与えていますか?】

 《「指針を与える」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇第7条の意味?

 全体の構成である「誰が育つのか,どこで育つのか,いつ育つのか,何が育つのか,なぜ育つのか,どのように育つのか」という問題設定の四番目,「何が育つのか」という問題に入ります。もう一人の子どもが自分を育てる上での目標を定める必要があります。能力の発揮が向かう方向を正しく選択しておかないと,道を間違えるからです。

 最近,現金自動支払機を建設機械で強奪するという荒技が流行っています。青少年犯罪では盗みが急増し,ひったくりなどが横行しています。ちょっと前は子どもたちが被害に遭う事件が起こり,大人たちは子どもを守ることに神経を尖らせました。「子ども110番」というステッカーがあちこちに見られる地域もあります。世の中が微妙に捻れてきているという印象をどなたも感じておられることでしょう。

 さて,このような状況の中で,親には何が求められているのでしょうか? 子どもを守るという気運は高まりました。でも,それで万全でしょうか? 子どもは育っていくということを忘れてはいけません。いま,親は子どもを守っています。ここで,もう一つの育て忘れに気付かなければなりません。男の子に与えておく指針は「弱い者に手を挙げるのは,男として最も恥ずべき行為である」という性根です。これは父親の子育て項目です。

 子どもを襲うのは男です。弱い者に手を掛けて何とも思わない男を育ててきたのです。いま,男の子を守るだけで,男のしつけをしておかないと,10年後の我が子が加害者になります。被害者になることから守るのと同時に,加害者に育つことを抑制しなければ事態は改善されません。父親の出番が求められているのにそれどころではないとそっぽを向いている間に,弱い者いじめをして平気な子どもがうようよ育ってきています。それが現状なのです。

 ひったくりなども,力ずくで弱者に襲いかかっています。力の使い方を完全に見失っています。真っ当な行動の指針を持たされていない暴徒,それが育て忘れの結果です。放任してきたということです。していいことと悪いことがある,そのけじめを失ったら,社会生活からはみ出します。

 子どもの育ちの一面は,能力の獲得です。どんな能力を選ぶかは人それぞれ自由です。「こっちの水は甘〜いぞ」。それがどういう道につながっているのかを弁えている大人が,入り口を間違えないように案内しておく責務があります。どんな案内をすればいいのでしょうか?

・・・よい方になびいていくような育ちを仕掛けておくべきです。・・・


 〇できる力?

 自分には何ができるか? それを確かめる方法は試行錯誤です。もう一人の自分がしたいと思っても,自分にはできないことがあります。もう一人の自分は自分に腹が立ち苛立ちます。その現実を渋々受け入れることで,自分のできる力をもう一人の自分が見極めていきます。このプロセスが育ちです。

 できる力が備わってくると,その力を上手にコントロールすることを覚えなければなりません。元気よく走り回る子どもにハラハラさせられる時期は,そのしつけに追い回されることになります。目が離せなくなりますね。じっくりとおつきあい下さい。

 子どもがいろいろな力を付けていったときに,その使い道に責任が伴うようになっていきます。初期の段階では,危ないことは回避する責任です。もう一人の自分が危ないと判断したら自分を押し止めないと,とんでもないことになります。「危」という字の意味は学校で教わる前に教えておかなければなりません。立て看板に「危」の形が見えたら取りあえず危ないと判断する力を育てておくべきです。危険回避の指針です。

 「こんなことが言えるようになった」と,子どもの育ちを実感するときがあるでしょう。しかし,それはもう一人の子どもの育ちであることを忘れてはいけません。つまり,「口では何とでも言える」ということです。「こんなことができるようになった」,それが真性の育ちです。もう一人の子どもと子どもが一体になって能力の発揮ができる,それが生きる力の姿なのです。

 もう一人の子どもは遅生まれではあるのですが,いつも早熟です。そこに思うこととできることのギャップがあります。もう一人の子どもは空を飛べますが,子どもは飛べません。子どもたちの現実感覚というのは,もう一人の子どもが自分の能力を見極めているということです。できることとできないことがある,その自覚が現実感覚です。

 小学生くらいになると,できる力を使うにしても,していいことといけないことの仕分けが必要になってきます。社会生活上のしつけにレベルアップします。その際に,小さなミスを犯していることに,多くの親は気付いていません。どういうミスなのか,次に考えることにします。

・・・自分の力は最適な発揮をしてこそ,自分を生かす力になります。・・・


 〇見えない子ども?

 して良いことと悪いことの線引きをするときに,親の性急さが紛れ込みます。かつて,欽ちゃんの番組で「よい子わるい子ふつうの子」という三人組が登場していました。親が見逃していることを具体的な形で突きつけられて,ハッとした気持ちが笑いとなって吹き出しました。

 親が我が子を見失うことがあります。うちの子は何を考えているか分からない? また,子どもの評価に際して,マイナス部分はいくらでもあげられるのに,プラス部分は見つからないといった経験をしたはずです。うちの子はホントにダメな子?

 先生も全ての子どもが見えているとは言えません。例えばテスト問題を考えるとき,あの子はできると思われる子どもがいる一方で,あの子はできないだろうと思われる子どもがいます。でも,大部分の子はできるかどうかテストしてみないと分からないのです。なぜ見えない子どもがいるのでしょう。

 見えない子どもとは「ふつうの子ども」なのです。たくさんの子どもを見ていると,ふつうの子どもは見えません。親は我が子しか見ていないのですが,よい子かわるい子か,としか見ていないので,ふつうの子が見えなくなります。このふつうの子を見落とすミスが,親による評価を狂わせるのです。

 結論を言うと,「よいことをしない子は普通の子。わるい子ではない。わるいことをしない子はよい子ではなく普通の子」です。例えば,お手伝いをする子はよい子です。ところが,お手伝いをしない子はわるい子ではなく,普通の子です。何もわるいことはしていないのですから。嘘をつく子はわるい子です。でも,嘘をつかない子はよい子ではなくて,普通の子です。よいことをしているわけではありません。

 普通の子がいて,ときどきよいことをし,ときどきわるいことをしているのです。ですから,お手伝いをしない子をわるい子だと思って叱るのは,間違っています。よい子でないといけないという窮屈な考え方です。お手伝いは,したときにほめるのです。よいことをしたのですから。叱るというのは,わるいことをしたときに叱るのです。叱られるからよいことをする,それは子どもに誤った指針を与えます。

 よいこととはほめられること,わるいこととは叱られること,きっちりと分けておかなければなりません。普通にしていればほめられもせず叱られもしない,そんな平凡な場所を持たしておかないと,親子ともども息苦しくなります。大人だって,普通に暮らしているでしょう。いつもよいことをしないといけないとは思っていないはずです。たまにするから,よいことなんです。

 普段しないことをするから,良いことも悪いことも目立ちます。だから,見えるのです。逆に良いことも悪いこともしない普通の子は,目立たずに見えなくなります。見えていないと不安になるから,子どもに良いことをさせようと強いるようになります。ほどほどにしてくださいね。

・・・良いことと悪いことの指針を別にしないと,子どもは混乱します。・・・


 〇ネズミ小僧は義賊?

さて,皆さんは江戸時代にネズミ小僧という泥棒がいたことを知っておられますね。大店の蔵から千両箱を盗み,夜な夜な貧しい長屋の人に小判をばらまいてくれました。そこで町人は義賊と呼んで,心待ちにしていたというのです。でも,結局は捕まってしまいました。

 ところで,今の庶民はネズミ小僧などとは無縁なつつがない暮らしをしています。浮き世のつきあいを「ギブアンドテイク」でしのいでいます。多少のデコボコはありますが,まあまあ何とかやっています。このギブアンドテイクという関係は,社会人として身につけておかなければならないルールである,そう思いますよね。

 ネズミ小僧はどうでしょう? 蔵から千両箱をテイクし,長屋の人にギブしています。つまり,「テイクアンドギブ」になっています。気をつけていただきたいことは,ギブアンドテイクの順序を逆にしたテイクアンドギブは闇のルールであるということです。普通の泥棒は盗むだけ,テイクだけですが,ネズミ小僧は律儀にギブを追加しています。だから,義賊と呼ばれたのですが,それでも逆ルールに従っているので,泥棒なのです。

 子どもたちの非行,ひったくり,万引き,自転車乗り逃げ,恐喝などは,いずれも盗ること,取ること,テイクすることです。このようにテイクを先にしようとすると悪いことになるのは,順序を間違えているから当然なのです。

 もう一人の子どもは言葉を得たときに育つと言っておきました。ネズミ小僧が蔵から出るときに言うであろう言葉はアリガトウです。「オイ,お金をよこせ」と脅して手にするときに,アリガトウと一応言うはずです。泥棒だってアリガトウを言うのですから,アリガトウと素直に言える子どもが悪さをしでかすのは,何の不思議もありません。アリガトウが素直に言えるだけでは,十分ではなかったのです。どんな言葉が足りなかったのでしょう。

 ギブするときに言う言葉,それは「ドウゾ」です。英語でプリーズと言いますが,意味は相手を喜ばせることです。まず盗ってきてから山分けする闇の世界では,アリガトウの後からドウゾを言っています。まず皆で出し合ってから分ける表のルールでは,ドウゾの後にアリガトウが続きます。

 ドウゾと力を貸す,ものを分け与える,譲る,助ける,思いやることなどは,全て良いことです。暮らしの場で良いことをしようと願うなら,ドウゾという言葉から生まれ出てきます。やっと,大事な指針になる言葉が見つかりました。

・・・先にドウゾがあるから,アリガトウが言えるのです。・・・


 〇豊かな心?

 アリガトウは,何かを頂いたときにしか言えない言葉です。つまり,いつでも待っている言葉なのです。待っていても手に入らないとなると,アリガトウが言えるためには,無断で手にしないといけなくなります。万引きして悪びれないというのは,逆ルールになっていることを知らないからです。知らないことほど無茶で恐いものはありません。

 豊かな時代に育っている子どもたちは,豊かな心を失ってきました。物が豊かであるとは,好きなものが好きなだけ手にはいることです。思うさまテイクできるのです。「いい時代だ,アリガトウ」というわけです。テイクする豊かさは,歯止めが効きません。人々は自分に歯止めが掛けられそうにないことを感じてしまうから,豊かさが実感できないという矛盾を導き出しました。

 そこで編み出したキーワードが「心の豊かさ」です。しかし,それが何か,どうすれば手に入れられるのか,迷っているようです。テイクを喜ぶのは闇の住人であることを見落としているせいです。表のルールは,ギブが先,つまり,ドウゾを喜ばなければならないのです。

 心の豊かさを与えてこなかったという反省から,大人たちは子どもたちに豊かな心を持たせようとしています。しかし,豊かな心とは様々な内容を含んでいます。それを一つ一つ子どもに植え付けなければならないとしたら大仕事です。とても手に負えなくなりますし,親も何から手をつけていいのか迷うばかりです。でも,実は意外に容易に達成できるのです。

 子育てはもう一人の子どもが自分の才能を引き出せるように支援することでした。それなら,子どもは豊かな心を既に持っていると考えるべきでしょう。要は,それをもう一人の子どもが引き出しさえすればいいということです。もう一人の子どもが手にすべき言葉,「ドウゾ」,それが呪文の言葉です。ドウゾと唱えれば,豊かな心はその場に相応しい形で自然にあふれ出てくるはずです。

 困っている人がいたら,ドウゾ。疲れている人がいたら,ドウゾ。立っている人がいたら,ドウゾ。怪我をしている人がいたら,ドウゾ。寂しい人がいたら,ドウゾ。手不足のママがいたら,ドウゾ。いつでも,どこでも,誰にでも,「ドウゾ」の言葉一つが,人の優しさを解き放つ呪文になります。豊かな心は素直に溢れてくるはずです。この指針を持っている限り,闇の世界に踏み込まずに済みますし,本当の豊かさを心いっぱいに感じられるはずです。

・・・ドウゾであふれ出る心が,豊かな心そのものです。・・・


 〇アリガトウ?

 これまで,子どもにドウゾという言葉を与えてきたでしょうか? 非行を反省中の少年が,「これまでの人生で,人からアリガトウと言って貰ったことがない」と語っています。ドウゾという表社会のキーワードを使えなかったのです。親も大人も,無意識のうちに,子どもをアリガトウしか言えない世界に閉じこめてきたのです。

 親は保護者です。子どもの世話をします。赤ちゃんの時から引き続き,親とは子どもを世話する者だと思いこんできました。暮らしの中であれこれ面倒をみます。周りの大人も何くれと面倒をみてくれます。お隣のおばちゃんにお菓子を頂くと,「ほら,アリガトウは」ときちんとしつけをします。子どもはいつも構われる方にいますので,アリガトウと言うチャンスしかないのです。こうしてアリガトウが素直に言える子どもに育っていきます。

 小学校の児童にまで育つと,「もう世話をしなくてもよくなった」と,子どもを委託し放任しました。本当はそこで,もう一つの大事な子育てをしなければならなかったのです。「ドウゾ」のしつけです。世話をしなくてもよいほどに子どもが成長したということは,たいていのことができる力を持ったということです。ドウゾが使えるはずです。

 共働きの家庭では,ママは多忙です。子どもが手伝ってくれたら,助かるでしょう。猫の手よりはマシなはずです。ママは自然に「アリガトウ」と言えるはずです。このパターンが大事なのです。子どもに手伝わせていたら間に合わない,「邪魔だからあっちに行ってなさい」,この放任がドウゾのしつけを喪失することになります。アリガトウしか言えない子どものままに放置されます。

 ドウゾのしつけをするためには,親がアリガトウを言わなければなりません。子どもの世話は親からドウゾと言うことですから,子どもはアリガトウの立場です。これを逆転するためには,親がアリガトウと言えるチャンスを作らねばなりません。「してくれると,助かるんだけど?」と,水を向けるのです。してくれたらアリガトウと言えます。

 決して,「手伝いなさい」と命令してはいけません。親が命令して子どもがやってくれても,して当たり前ですからアリガトウは言えません。ドウゾにならないのです。ドウゾはもう一人の子どもが言おうと決めて言う言葉だからです。子どもが親の世話の手から離れたら,逆に子どもの世話を受けるのです。それが,これまでにし残して来た,大人に向けての育てなのです。

・・・子どものドウゾを引き出すには,親のアリガトウが必要です。・・・



《指針を与えるとは,大人への育ちの設計目標です。》

 ○こんな時はどうしたらいいのだろう? 子どもはいつもそんな場面に出くわします。そのとき,もう一人の子どもは「ママは,どうしていたか?」を思い出します。そうして,だんだんとママの仕草が身についていきます。良いことも悪いことも?

 子どもに与える指針,それはママの日常の姿,そのものかもしれません。立ち居振る舞いの選択の陰には,ママ自身が抱いているあれやこれやの指針が働いているからです。生きた指針になっていることを,ちょっぴり自覚しておいてくださいね。


 【チェック第7条:子どもに指針を与えていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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