*** 子育ち12章 ***
 

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「第 9-08 章」


『古ぼけた 時計が刻む 価値もある』


 ■はじめに

 子どもは妙なものを大事にすることがあります。古ぼけて汚れたお人形を手放しません。親から見れば価値など見えませんが,子どもなりの意味を感じているはずです。子どもらしい価値をまずはそっと認めてやってください。いきなり大人の価値を押しつけても,子どもの受け入れ態勢がまだ整っていないことがあるからです。

 世代が違えば価値観もすれ違います。しかし子どもが大人の価値観を常に傍に見ていることは大切です。なぜなら,自分が成長するにつれて,大人の価値観に目覚めていくからです。子どもはやがて大人の世代になることを忘れないでください。

 育ちは生きる世界を広げることです。視野が広がっていきます。狭い世界の価値観は広い世界では合わなくなります。修正をしなければなりません。そのためには大きな世界の価値観が目の前にあることが必要になります。どう修正すればいいのかを見つけるためです。

 郷に入っては郷に従え,それは価値観の修正を言い表しています。世界が違えば,常識という価値観がちょっぴり違うのです。世代を郷に見立てれば同じことが言えます。

 子育ちの世界が異世代という縦社会,つまり,幼児,児童,生徒,青年といった連続性を確保しているなら,価値観を自然に大人の価値観に移行させていけます。しかし,子ども世代が断絶している今,価値のバージョンアップが滞っています。それが子どもたちを迷いの道に追い込んでいるのです。

 親がそのことを理解し適切な価値の委譲を意図的に進めなければなりません。自然に育つという認識が甘かったということは,現状を見れば明らかです。価値観は生きていく上でベースになることですから,きっちり伝えておくべきことです。焦らずに,一歩一歩確実に・・・。



【チェック第8条:子どもに価値を教えていますか?】

 《「指針を与える」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇第8条の意味?

 全体の構成である「誰が育つのか,どこで育つのか,いつ育つのか,何が育つのか,なぜ育つのか,どのように育つのか」という問題設定の四番目,「何が育つのか」という問題に入っています。もう一人の子どもが自分を真っ当に育てるために,きちんとした指標を与えておくことをお願いしておきました。大人につながる道標として,「ドウゾ」という言葉を選んでおきました。ドウゾと言えないまま育っていったら,大人になり損ねるということです。

 では,大人が持っているもの,すなわち,毎日の暮らしにおいて大切にしている価値は何でしょう? 何を頼りに生きているのでしょう? 生活信条と言ってもいいでしょう。何か生きる上で芯になるものです。何となく暮らしているようでも,何かを守っているはずです。ドウゾに導かれて生きていく先には,どのようなよいことが待ち受けているのでしょう。

 子育てのなかで,子どもに渡してやれるのは,親が今持っている価値です。無い袖は振れません。苦労はあってもそこそこ生きている親自身が,自分のありったけを子どもにコピーすることが,最も確実な親らしいことなのです。それはお金やモノではありません。そんなものは親でなくても渡せます。

 大人としてよりも,人として,子どもが持っていなければならない価値があります。人それぞれに形はどんなものであっても,その意味するところは同じだと思います。これからいくつかの価値についてお話していきますが,あくまでも例題ですから,皆さん方がご自分で大切に思っていることを,この機会に再確認してください。

 子どもたちに,あなたが今一番大事に思っているものは何と問うと,ポケモンのおもちゃなどと,モノの答えが返ってきます。アジアの子どもたちは弟妹と答えます。この先どうなるかと考えると,恐くなります。とても,気が焦ります。

・・・使い古されても減らない価値を,親は持っているはずです。・・・


 〇私は○○する人?

 パパは会社に行ってお金を稼ぐ人,ママはゴハンを作ってくれる人,お姉ちゃんは着飾ってお出かけする人,お兄ちゃんは車でドライブする人,ボクは学校と塾に通う人,私は学校とお稽古に通う人,ポチはお散歩に行く犬,タマはお昼寝するネコ。それぞれがバラバラです。パパとママは家庭を維持するためにという目標に沿ってはいますが,役割分担という気持ちが濃くなっています。

 今の社会は高度に分業化されています。専門家がウヨウヨいます。水道トラブル○千円,お家のお掃除請け負いますといった,家事の外注サービスが現れています。ということは,暮らしのことを自分である程度まではこなせる大人がいなくなっているということです。子どもの自転車のパンク修理もできないパパは,お父さんにはなれません。なぜなら,子どもに教えられないのですから。

 お勉強ができても,会社でどんなに偉くても,家の戸棚の蝶番が壊れたとき直せないようでは,ただの無能な下宿人です。台風で窓ガラスが割れたとき,119番に電話する男の子がいるようですが,家を守るために最低限の応急処置能力がありません。大人に育っていません。

 専門家は,専門以外のことはからっきしだめなのです。大人とは,暮らしのあれこれをある程度はこなせる人を言いました。必要最小限のことは自分でやれる,それが自立ということです。お年寄りの施設では女性に最も人気がある男性は職人さんで,最も人気がないのは会社の管理職上がりの人だそうです。職人さんは暮らしのあれこれをこなせますが,管理職は口で言うばっかりで自分では何にもできないからです。

 会社の専門職は会社でしか役に立ちません。個人としての生きる力は総合力です。子どものうちに専門だけに閉じこめたら,生きる力は育ちません。自分では何もできない未熟な状態に据え置かれます。家の廊下に落ちている紙くずを拾わない子どもは,掃除をするのはママの仕事,どうして私が拾わなければならないの,と考えています。自分の仕事,役割に閉じこもり,余計なことには一切関わろうとしない,それが専門家のアキレス腱です。

 家並の前の道路沿いに植えられている樹木が枯れそうになっています。それは道路管理者の責任領分です。そう考えて,自分の役割ではないと拒否することで,樹木は寂しく枯れていきます。一杯の水を掛けてやれば生き延びることができるのに,専門家意識の薄情さが,町を殺していきます。管理ができていないと責める口は持っているかもしれませんが,人としての優しい手は持ち合わせていないということです。

 「強くなければ生きてはいけない,でも優しくなければ生きている価値がない」,あるヒーローの言葉です。生きる価値とは,自分の中にあるのではなくて,他者との余計な関わりの中にあるものなのです。

・・・専門能力の価値一辺倒では,生きる価値にはつながりません。・・・


 〇面倒くさい?

 面倒くさい,そう思うとき,人は老いていきます。心とか気持ちの年齢です。必然的に腰が重たくなり贅肉がまとわりつくようになるので,身体の年齢も加速されます。無精というのも似たようなもので,精気が枯れ果てています。片づけられていない部屋,その住人の下り坂の人生が見えています。

 ゼミに顔を出さない学生がいるので,家に連絡を取ると,アルバイトに行って留守だという返事です。勉学よりもアルバイトが優先していることに,何の疑いも見せない親がいます。何のために学生になったのか,人生の一時期を費やして何を手に入れたいのか,見失っています。

 授業料は決して安くはありません。大枚をはたいた以上,それだけの力を養わなければ無駄遣いです。それを言って聞かせても,分かりません。分かろうとしないのではなく,分からないのです。面倒な学習に価値を付与することができないのです。大学を卒業した,それが名目であっても通用する時代はとっくに終わっています。さらに,実質的に身についた卒業であっても,将来は必ずしも保証されてはいないのです。

 自分が選んだ道であるなら,それに精進することが大事です。価値とは自分がどれほど人生を注ぎ込んだかという量によって測られます。棚ぼたの価値,つまりあぶく銭的な価値を,価値と見誤っていると,先行き沈んでいくことになります。

 手に職を持つと言われてきた精進の道,辛抱と努力で購ったものが確実な自分の価値になります。大学に入りさえすれば,その次はいい会社に入りさえすればと歩んできても,その間面倒なことを避けて精進を忘れていたら,会社に入っても使いものになりません。大学を出てもそんなことも勉強していないのか,と放り出されるのが関の山です。

 何も勉強だけではありません。生きていく上で自ら対処すべき事柄を,面倒くさいと逃げてばかりいると,逃げ癖がつきます。その症状が人のせいにする口上です。自分を認めない世間が悪いといった逃げ口上を言うようになったら,かなり重症です。世間をバカにしてはいけません。世間は冷徹に人を測ります。実力は隠せないものと知るべきです。現れないのは実力が足らないことであり,それに気付かない迂闊さが自業自得なのです。

 面倒くさい,それが自分を甘やかします。生き生きしている人は,決して何事も面倒くさいとは思いません。一つ一つ,てきぱきと事を処理しています。そうすることが自分の実力を培うことになります。もしも,子どもが面倒くさいと言うようになったら,育ちが正に停止しかけていると思うべきです。

・・・面倒なことを苦にしない気持ちが,実力という価値を産み出します。・・・


 〇利いた風な口?

 野球の4番打者が空振り三振する,サッカーのエースストライカーがゴールをはずす,それを見ているファンはどよめきます。解説者はどこがダメだったかを解説します。いずれもボールのコースを見誤ったせいです。結果が出る前に言うのならいいのですが,後では誰でも分かります。

 テストの成績を見るとき,子どもも親も,どうしてこんなところを間違えたのかと思います。後から分かることだということを忘れています。知恵とは基本的に後知恵なのです。前知恵というのはあり得ません。現実には何が起こるか分からない,それが真実です。ミネルバのフクロウと言われる知恵は,夕方の知恵という意味です。振り返ってこそ分かるのです。

 大人になるといっぱしの評論家になります。世情を評論します。芸術分野でも評論がなされます。鑑賞も盛んです。その成果は目が肥えるということになります。子どもたちも世間のあれこれをよく知っています。結構,評論家気取りをのぞかせます。でも,生兵法は大怪我の元です。

 鑑賞や評論ができても,作者を超えることはできないということです。あれこれ言うなら,自分でやって見せろ。そういう声を自覚しておかなければなりません。子どもが今日のおかずは美味しくない,なんておっしゃいます。それなら,自分で作ってみなさいと言いたいですよね。

 PTAや子ども会育成会,地域の世話役,あるいはボランティア活動などをしていると,その活動ぶりにあれこれ陰口をたたく人がいるものです。面と向かって言うのならまだしも,こそこそ言いふらす卑怯さは,自信のある話ではないと自覚しているからです。文句があるなら自分がやればと思って無視することです。

 結果だけしか見ていないと,後知恵に振り回されます。しかしながら,この後知恵は育ちにとっては大事です。それを無駄にしない事です。同じ間違いを繰り返さないことで,前知恵に変えることができるからです。好きなことについて,蘊蓄を傾けることがあります。得意なことについて得々と語ります。それは自分ができることだからです。自分でできること以外のことについては,利いた風な口は開かないことです。

・・・不言実行,自分ができる前には語らないことです。・・・


 〇面白い?

 若者たちは,面白いか,かっこいいか,刺激があるか,そのような感性を揺り動かすことを求めています。それは暮らしを彩る二次的な価値です。ダサイと思われたら,大変なパニックに陥ります。どうということはないはずですが,本質的な価値の否定と思いこんでいるからです。

 パパは臭いという理由で忌避されます。友だちを臭いといじめます。人がいい匂いを出すはずもありませんし,人の匂いをイヤな匂いと思う感性の方が間違っています。生活臭というものも嫌われものです。ママの高価な香水とトイレの匂いが同じという笑えない現実があります。どうして生きることから逃げるのでしょうか? 汗くさいと不潔,程度はあるでしょうが,汗くささを憎むのも度が過ぎると心を狭くします。

 仕事をすれば汗をかきます。汗をかくからイヤだという理由が登場してきます。本末転倒です。あくせく生きることがダサイという感性が働くと,現実の価値から離反します。面白おかしく生きることは,道化を見て笑うだけの世界です。深い悲しみを秘めるために戯けた白塗りをしている道化が,表面的にしか見えていないようです。

 地道な日々の上に咲く花だから美しいのであって,切り花の美しさは飾り物です。焼け野原の一輪,その感動は心の底からわき上がります。生かされた美しさよりも,生きようとする美しさを素直に感じる感性が美的価値の関門です。

 団らんの和やかさは,台所のゴミが産み出しているのです。ゴミを汚いと感じるように育てられたら,おそらく大人になっても団らんを作り出すことはできないでしょう。それだけならまだしも,団らんそのものの価値を見逃すようになります。生き方を寂しくします。

 華やかなものに憧れるのは,子どもの常です。それは必要ではあるのですが,それがどれほどの地味な下準備に支えられているか,汗にまみれた努力の賜物であるかという事実を知っておかなければなりません。幸せの青い鳥,隣の芝生,いずれも自分の足下を愛おしむ心根の消失によって現れます。価値あるものはつまらない汚れたものとして周りにひっそりと転がっているのです。眼力を養っておかないと,いつまでも価値あるものを見つけられなくなります。

・・・面白い生き方は,寂しさを深めていくだけです。・・・


 〇信頼?

 人が生きていく過程で最も問われることは,信用であり信頼です。西洋では人を嘘つきと呼ぶことは最大の侮辱だそうです。どこでも同じでしょう。99%の信頼というのはあり得ません。たった1回の不誠実な行いが,99回の誠実を帳消しにします。現代のような契約社会ではなおさらです。

 では,人はどのように他人を信頼するのでしょう。うさんくさいと思うのは,住所不定です。名前だけでは信頼には結びつきません。どこの馬の骨か分からないという言葉もあります。どこ? 住所が大事な決め手になるから,住民票が求められます。住所に変わるものが,勤め先です。ただこれはいわゆる固い職場という条件が必要になります。住所が記載されている免許証や保険証,それが人の身分証明書,信頼のパスポートなのです。

 住所にはどんな意味があるのでしょう。居を構えていることは,そこに地縁が結ばれているという了解があります。まわりの人と信頼関係を結んでいるはずだというわけです。それが保証になります。家族という血縁もつながっています。縁というしがらみがうるさいと切り離したら,その途端に誰からも信用されなくなります。金銭的資産が土地という担保にリンクしていたように,人的な信頼も生活している住所という保証にリンクされているのです。

 ちゃんと生活している,それが自分の保証価値になります。蛇足ですが,立派な居を構えているから,人としてエライ価値があるという風に短絡するのは無謀です。そういうことを言っているのではありません。真っ当に生きているか,地道に生きているかどうか,それが信頼を産み出します。

 都会化した暮らしでは,近所づきあいが途絶えています。家の外に出たら,見ず知らずの人ばかりです。見ず知らずとは,どこの誰とも分からないということです。信頼できないので緊張して暮らします。信頼できる人が周りにいない暮らしは孤独です。その中でやがて人を信頼する気持ちが萎えていきます。家族でさえ疑うようになりかねません。疑心暗鬼というのは,深みに向かうものです。

 会社に行けば信頼できる人がいるから大丈夫,でもそれは間に合わせに過ぎません。会社では密かに利害が渦巻いているからです。近所は利害とは無縁です。近隣トラブルがあると思われるかもしれませんが,それは信頼できる近隣関係が無いからです。顔見知りであれば,お互いの間に遠慮が働きます。信頼関係は壊したくない,普通の人はそう考えるはずです。その暮らしぶりが,人を信頼し,信頼されることを子どもに教えていきます。

・・・信頼し信頼されるという価値が,暮らしの基盤になります。・・・



《価値を教えるとは,暮らしに不可欠なテクニックの修得です。》

 ○子どもに誰とでも仲良くしなさいと言ってはいませんか? ママは誰とでも仲良くしていますか? ウマが合わない人,虫が好かない人,気心の知れない人など,いるはずです。誰とでも仲良くすることなんてできるはずがありません。

 大事なことは,車間距離ならぬ,人間距離を上手にとることです。逃げたり嫌ったりするよりも,適当に間合いをおくことでしのいでいけるはずです。あいさつを交わすだけ,それでいいのです。味方になれなくても,敵にしないことです。ずるい? そんな器用なことはできませんか? 無理をする必要はありませんが,ちょっとだけは試してみてください。そして,子どもには誰とでも仲良くとは押しつけないでくださいね。


 【チェック第8条:子どもに価値を教えていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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