*** 子育ち12章 ***
 

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「第 9-11 章」


『背伸びして 転けても育つ 健気な子』


 ■はじめに

 講演会で,講師が最も気を遣うことは何だと思われますか? それは開始早々の1分です。第一印象が講演の勝負です。出だしの1分にどれだけ聞き手の気持ちを掴めるかということが,残りの時間の成否を決めます。有名なタレントさんであれば存在そのものが既に周知されていますから,第一印象の壁はありません。

 名も知らない初対面の者から話を聞こうというのは,普通ならよほどの暇人であり,たいていは玄関払いされるのが落ちです。そこで,講演会では必ず最初に講師の紹介がなされます。この人は安心できる人だということを身内の方が保証をするのです。あの方が紹介されるのだから,まあ信用してもいいだろうと思っていただき,取りあえずどんな話を聞かせてくれるか,しばらく聞いてみるかということになります。

 はじめて会うので,是非聞きたいという気持ちは持ちようがありません。講演題目からすると,話の内容は大体見当がつきますので,どうせ同じような話だろうと,大して期待はされていないでしょう。それが当たり前です。名もない講師は,最初からたいへんに分の悪い登場を強いられているのです。

 聞き手の方は最初だけは聞いてやってもいいという態勢ですから,講師にすればウルトラマンの胸に点滅するピカピカが,登場の瞬間にスイッチが入るようなものです。時間は3分しかないのです。この短い時間にやっぱりとか,なんだという感想しか与えられなかったら,聞き手の方の耳の扉は非情にクローズされてしまいます。後は子守歌代わりにしか聞いていただけません。

 講師が次に気を遣うのは,何でしょうか? それは終了の時刻を守ることです。「講演会 終わりを待って いた拍手」という川柳のように,講師から聞かされる言葉の中で最もうれしい言葉は「終わります」という一言です。心の中で「待ってました」と叫ばれていることでしょう。タモリの「笑っていいとも」でゲストの話が終わりになると,観客が「エッー」と絶叫します。あの叫びはつくづくうらやましいですね。もっとも格が違いますけどね?

 こんな報われない講演をなぜわざわざ引き受けているのでしょうか? 強いて言えば,母と子の絵姿が美しいからです。たった一組の母と子であってもいいから,美しさを失わないようなお手伝いができたら,そう願っているだけです。変わったクマさんがいるものですね?



【チェック第11条:子どもに失敗を許していますか?】

 《「失敗を許す」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇第11条の意味?

 全体の構成である「誰が育つのか,どこで育つのか,いつ育つのか,何が育つのか,なぜ育つのか,どのように育つのか」という問題設定の六番目,「どのように育つのか」という問題に辿り着きました。子育ちには基本的なプロセスがあります。結論を先に言っておくと,「失敗・反省・学習・挑戦」という4サイクルが繰り返されて育っていくということです。

 何でも最初が肝心です。育ちのプロセスに入りさえすれば,後は比較的楽に進行します。この取っ掛かりで止まってしまうと,育ちができません。滑らかに滞りなく育ちが進むように,親が見守っておく必要があります。ところが,往々にしてせっかく育ちが始まろうとするのに,親が余計なちょっかいを出すので,エンスト状態に陥ることがあります。

 親は子どものためによかれと思っているところが辛いところです。かつて県の教育委員会から発行する子育て啓発冊子の執筆をしたときに,前任の先生が指摘した「無意識の過保護」というキーワードを踏襲したことがあります。親にはそのつもりはないのですが,結果的に過保護になっているというアンケート調査の分析から出てきた帰結でした。

 前条で育ちの意欲についてお話ししておきましたが,もう一人の子どもが「どうして」という疑問を持ち,その課題を解決したいという本能が備わっているということに触れました。育ちをはじめたいと願うためには,どうしてという疑問に出会うことが不可欠なのです。実は,それがちゃんとできていないから,育ちが滞りやすくなるのです。

 過保護であることと,どうしてという疑問に出会えないことは,子どもの育ちにとってとても重大な機会喪失になります。この点について具体的にお話ししておかなければなりません。もう一人の子どもが子育ちに着手するか否か,というターニングポイントであるからです。

・・・育ちのプロセスは,小さなきっかけから始まります。・・・


 〇魔の暗示?

 卒論の修正が提出期限に間に合わないと,自殺した大学生がいました。レンタルビデオを紛失して,自殺した高校生がいました。そこまで育てたのに,親の悲しみはいかばかりでしょう。これらのことは何も特別の事例ではないのが気がかりです。そこまでいかなくても,近頃の若者はとても落ち込みやすく,もろく,あきらめが早くなっています。

 小学6年生の男児が,冬休みの宿題である書き初めをしていました。明日から登校日という前日の昼間です。そばに置いていた墨汁の入れ物にちょっと手が触れて,テーブルの下に落としてしまいました。生憎絨毯が敷いてあったので,墨汁がスーッと吸い込まれていきます。男児は慌ててティッシュを持ってきて拭きますが,間に合いません。黒々としたシミができてしまいました。

 男児は習字紙に「墨をこぼしてしまいました。ごめんなさい」と書いて,6階のベランダから飛び降りていきました。宿題の文字は「希望の光」だったそうです。悲しい話です。図太さがあったら,そんな詮無い思いをさせられます。

 たったそれくらいのことで?と思われることでしょう。本人にすればたったそれくらいのことがとても重大事に思えるのです。実は,逆のようなこともあります。若者がキレルときは,たいていがそれくらいのことでという理由です。ちょっとしたことで逆切れして,人に重大な危害を加えている事例も枚挙に暇がないでしょう。

 ちょっとしたことが切っ掛けになって,自分を殺したり他人を殺したり,あっさりとやってのけます。自分の不始末であれば自分に容赦なく,人からの不始末なら他人に容赦なく,極刑で臨もうとします。歯止めが全くかかっていません。どうしてこんなに過敏な状態に育ってしまったのでしょう。

 これまでの一般的な子育てがそういう子どもを育ててきたとしか考えられません。よほど覚悟して検証する必要があるのですが,まだほとんどの親は気がついていません。ちょっとした不始末をしでかしたら,もうお終い! 子どもたちはそう思うように育てられてきたということです。早く魔の暗示から抜け出させなくてはなりません。他人事ではないんですよ!

・・・不始末一つで万事休すと知らない間に暗示に掛けています。・・・


 〇指示待ち?

 指示待ちということが言われて久しくなります。すっかり影をひそめたわけではなくて,珍しくなくなった,ごく普通になったということです。大人の論調は子どもたちを責めたり嘆いたりという風ですが,実は大人が自らの子育てを責めなくてはならないのです。そんな子どもに育てたのは,他ならぬ自分たち大人だからです。

 会社に入って,そんなこともいちいち指図しなければできないのか,と大人に言われてしまいます。子どもでなくても,経験したことがないことはできるはずがありません。まねごとに類することを経験させてこなかったのは,自分の子どもをほったらかしにして,育てたこともない自分のせいです。最近よく聞かれる「体験」がそれなのです。いろんなことの体験をさせずに,ただ塾に行かせていれば全てのことが間に合うという過信が,指示待ちの子どもを育てるのです。

 もう一つのしつけ上の理由があります。子どもは何かをやっていると必ず失敗をします。そのとき親は「どうして失敗したのか」と責め立て,あげくには「余計なことはするな」と叱りつけます。こんなことが度重なると,子どもは言われたこと以外には手を出そうとしなくなります。だって,失敗したら叱られるのですから。

 言われたらします。それでも失敗をします。でも,今度は違います。自分でしようとしたことで失敗したんじゃない,しなさいと言われたからしているときに失敗したんだから,失敗したのはさせた方に原因があり,責められる筋合いはないという自己弁護が可能になります。失敗するようなことをさせた方が悪いという理屈です。

 言われてすることでは叱られないという安心があります。不始末をしても,していいと言ったじゃないかという反論ができるのです。つまり,子どもたちは失敗することを極力避けよう避けようと育っていくのです。失敗を許さない子育てが,指示待ちの子どもたちを見事に育て上げたと言えるのです。指示待ちの子どもたちは,そう育つしか仕方がなかったというわけです。全ては大人のせいです。

・・・失敗の責任から逃れるために指示を待っているのです。・・・


 〇安心?

 ちゃんとできることを親は常に求めます。忙しい毎日に急きたてられて,のんびり待っている暇はありません。何でもパッパと済ませないと,時間がないのです。子どもの世話という親の務めが効率に支配されています。子どもの世話とは,育ちを支援することです。それなのに,親の都合が優先されて,子どもの都合,子育ちの都合などは目もくれてもらえません。

 育ちの途上にある子どもは,一から十までポッツリポッツリできるようになっていくものです。さっさとできないから,親がさっさとやってしまいます。子どもは練習を取り上げられて,できるようにはなれません。いつまでたってもできないんだから,それはさせていない方が間違っています。

 それでも子どもはどうにかして成長し続けますし,できることも増えていきます。一方で,しなければならないことも増えてきます。この子はこれまではできると思いこむと,それ以上はやらせようとしません。特に一度やらせて失敗したことは二度とさせないようにします。なによりもできるかどうかという親の不安を感じなくて済むからです。できることだけさせておけば,安心なのです。

 新しいことをやらせないと,育ちが止まります。したことがないことは,できるかどうか分かりません。子どもは自分の力がどうなのか分からないから臆病になり,親も心配だからやらせたくないと抑制します。こうして親子とも,子どもが何処までの力を発揮できる育ちをしているのか見えなくなっていきます。

 何でもやらせてみることです。失敗していいのです。失敗の一歩手前までは確実な実力です。もう少しでできる,それが最高の実力を示しています。子どもはここまではできると自分の力を知ることができますし,親もここまでは育っていると見えるようになります。

 スポーツの練習では,できることの一つ先を練習します。なかなか取れないボールを追っかけます。やがて取れるようになります。それが育ちの階段なのです。失敗の連続を重ねることで育ちが促されます。失敗は「育ちの芽」と考えるべきです。もし,子どもから失敗を取り上げたら,それは大事な育ちの芽を摘み取ることになります。

 失敗を責めて,失敗がしていけないこと,そう教え込んだら育てなくなるという意味が分かっていただけたでしょうか? 確かに失敗は親にとっては待たなければならないので,余計な時間を必要とします。場合によっては後始末で予定外の時間と手間がかかる場合もあるでしょう。その世話が親としての本物の世話なのです。世話が焼ける?,親だからこそ引き受けられるのです。

・・・親の安心は子どもの育ちを邪魔することでしかありません。・・・


 〇健全?

 健全育成。大人が子どもについて語るとき,必ず飛び出す言葉です。健全育成とはどういうことなのでしょうか? 昔なら,真っ当な子に育てることと言われていたでしょう。健全な子ども,真っ当な子ども,どんな子どもでしょう。青少年健全育成条例があります。不健全な環境の禁止です。ピンクチラシの排除であり,いかがわしい週刊誌の隔離であり,援助交際の禁止などです。真っ当な大人には無用なものです。

 もっと身近な局面に目を移すことにしましょう。大人は普通に暮らしており,その際に一つの目安を持っています。それは人に迷惑を掛けないということです。迷惑を掛けたら,それは真っ当ではないのです。もちろん,たまには人の役に立つよいこともしなければ生きている甲斐がありません。

 子どもも普通に暮らせるように育っていけばいいのです。ここで育つということをもっと意識しておかなければなりません。育っているときはまだ未完成だということです。子どもは失敗して周りに迷惑を掛けます。その迷惑をいったんは引き受けてやらないと,子どもは育つ機会を失います。子どもからの迷惑は子育ちの必要経費だと考えてください。代々の親たちが順送りで負担したきたツケなのですから。

 大人は自分の親に迷惑を掛けて育ってきました。そのツケを今度は親として引き受けなければ債務不履行になります。それを拒否したら,自分の親を丸損の目に会わせることになります。親らしいこととは,そういう務めをきちんと果たしているかということです。「育ててもらった親に感謝しています」と語るのは子どもですが,親になったら感謝される立場に替わります。自分の親には育てるのが義務と平気ですねをかじりながら,子どもからの迷惑はごめんだというわがままな絵柄が流行りはしないかと気がかりです。

 健全とは,子どもが迷惑を掛けたときに済まないと感じて,しないようにしようと思うことです。ちょっぴり羽目を外してやりすぎたとき,迷惑を掛けます。それに気付かせることがしつけですが,それはいきなり叱りつけることではありません。親がすべきことはとにかく引き受けてやることです。失敗や不始末,ちょっとした悪さをしでかして,しまったと子どもに思わせたらそれでいいのです。

 何がいけないことか,それはやってみないと分かりません。どうすればいいか,それは失敗しないと分かりません。失敗することで軌道修正する力を獲得します。育ちは自転車に乗るのと似ています。右に振れたり左に振れたりすることで,真っ直ぐに進めます。良い方や悪い方に振れることが大事であり,もしも良い方だけしか舵取りできなかったら,育ちという自転車は倒れてしまいます。

・・・子どもは失敗体験から健全な舵取りを学びとります。・・・


 〇過保護?

 最近の親は過保護になっていると言われています。子どもを保護するのが親の務めです。親は子どもを保護しようとします。その心根は決して間違ってはいません。ただ,保護の仕方が拙いだけなのです。保護ということを勘違いしているところがあります。

 例えば,ナイフを持たせると危ないという心配があります。親は保護するために,子どもからナイフを取り上げました。ナイフを持っていると必ず失敗します。手に傷を負うことで,赤い血が流れます。人の身体には赤い血が流れている,傷つけると痛い,不自由をする,こうして生身の人間を体感します。その体験がないから,人を刺せば血が出ることを思いつかず,ゲーム感覚で人を抹殺しようとします。

 子どもの失敗は時として痛い目に遭うことになります。しかし,失敗を取り上げたら,子どもはいつまでも育てません。そこで親の務めは,小さな失敗をさせながら,大きな失敗にならないように見守っていなければなりません。大きな失敗から守ること,それが適切な保護なのです。小さな失敗もさせないように親が先回りして対処してしまうこと,それが過保護になります。

 やっと伝い歩きを始めた赤ちゃんが転んで怪我をしないように,赤ちゃんの身体を掴まえて支えるのが過保護です。赤ちゃんが転んでも頭をぶつけて怪我をしないように周りのものの方に手を添えておくのが保護です。転ばせないと歩く練習にはなりません。歩けるようになるということは,転ばないようになることです。転ばせないと練習にはなりません。できるように育てるためには,できないことを克服させなければならないのです。

 繰り返しておきますが,子どもに手を添えてしまうのが過保護です。子どもは自由にさせておいて,周りの危険の方に手を添えておくのが保護です。失敗しないようになることが育ちであると知っておいてください。親がハラハラして見守ってやらなければ,子どもは育てないのです。

 過保護に育ていると,子どもは親がしてくれなかったからできなかったと言うようになります。人のせいにすることを覚えていきます。そのように育てているのですから,仕方ありません。子どものことはもう一人の子どもに任せてください。親が牛耳ったら,もう一人の子どもは呑気にさぼっていつまでも眠ったままになります。過保護というのはいろんな面で子育ちを阻害しているのです。

・・・手出し口出しを控えた分だけ子育ちは進みます。・・・



《失敗を許すとは,親であるための試練です。》

 ○子どもたちに今求められているものの一つは,歯止めです。やり過ぎに対する自制が効かなくなっています。冗談やふざけるにしても程があるということです。予防接種はわざと感染させることで抗体を作り出させる療法です。感染した経験がないから,暴走して危険域にまで突入していきます。

 子ども時代に些細な失敗をたくさんして程度を弁え,早い立ち直りをする習慣がついていれば,その後は深みにはまらなくて済みます。子どもの失敗は麻疹みたいなものです。もっとも次から次へと絶え間なく続きますので,いい加減イヤになりますが,見捨てられませんね。親になれば否応なしに許しの気持ちを持たされるから,親は大人になれるのです。


 【チェック第11条:子どもに失敗を許していますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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