《第1章 序の章》

 まずはじめに一つの情景を想像してみます。雨の日の朝のことです。通勤の車が走っている道路沿いを,一人の子どもが歩いて登校しています。仕事先に急いでいる大人達の運転する車が,知らないうちにその子どもに水をはねて通り過ぎて行きます。泥水を浴びせられた子どもが,現在の子どもたちです。様々な反応をするでしょう。
 水はねをかけられることを予測しかばってくれなかった母に当たり散らす家庭内暴力。雨の日に休みにならなかったからだと学校に当たる校内暴力。小さい子を楯代わりにしようとする弱者いじめ。水はねの強烈さに呆然となってしまう無気力など。そして一方で,そのような子どもの反応を見て,水溜まりが出来るような状態に道路を放置した管理者の手落ちである,車優先社会にした経済活動が間違っている,しまいには雨を降らせた雷様まで裁かれかねません。もちろん通学路を変更したり,水溜まりを無くし車を排除するといった対策を講ずれば,この水はね騒動は起こらなくなりますが,そんな泥縄式のやり方ではきっと別の騒動の種が芽を出してきます。
 この水はね騒動の最大の原因は,運転者と子どもの間に人間的なつながりが欠けていることなのです。ドライバーが歩行者に気を付けてスピードを控えるなどの心遣いをしていれば,水はねは避けられましたし,もし不注意で水はねをかけてしまった場合でも,車から降りて「ごめんなさい」と謝り善後策を講じていれば,最小限の被害で済ませられ,子どもの心への被害も無かったはずです。環境を整えることも大事ではありますが,それと同時に人間関係を正常に整える努力も忘れてはいけないと思います。
 今,子どもたちは心の病に懸かっています。社会の激しい流れがまき散らす泥水を避ける術を知らない子どもたちが,もろに被った泥の中に埋まっています。では,子どもたちが被っている泥水とは,具体的にどんなものがあるのでしょうか。多くのものがこれまで指摘されています。受験偏差値優先の学歴社会,合理性と効率性を追求する経済社会,都市型生活による核家族化,息子と結婚したような母親の過保護,知育=成長と思い込んでいる偏向教育,自分勝手な個人主義,遊びの機械化,触れ合いの喪失,不良マスコミ,…,挙げればいくらでも出て来るようです。そしてどれもそうだろうなと思い当たり納得がいきます。しかし生活実感の上ではもう一つぴったりと来ません。それは一方で次のように感じているからです。学歴社会は社会の活性化に役立っています。合理性追求社会は大量生産を生み出し生活を豊かにしてくれました。核家族は嫁と姑の争いを無くしました。親の保護本能は自然な姿ですし,個人主義は自由のすばらしさを与えてくれました。つまりどれも両刃の剣になっています。ですから,切れすぎたり余分な所まで切り込んだりする場合に,様々な弊害を生じています。使い方が上手くないために力の入れ具合を誤っているだけで,そのもの自体を否定し去るのは行き過ぎです。では,適度の力で上手に使いこなすためには,どのようなこつを会得すれば良いのでしょうか?
 そのことを考えるために,生活の中に組み込まれている,全く違った面を取り上げてみましょう。食生活については,例えば生きていく上で必須の食品として米やパンがあり,野菜,魚,肉があります。コーヒー,ジュース,酒,菓子などの嗜好品もあります。多様な種類の食料品が豊富に出回っています。しかしどれに片寄ってもいけませんし,また食べ過ぎてもいけません。所が普段美味しく食べて腹八分までという「感覚」に従って食事をしていれば片寄らないように食べ過ぎないようにと特に意識しなくても適度な食事をすることが出来ます。肉ばかりでは飽きてきますので,片寄らずに済みます。つまり適度の食事をするための基準として,美味しく食べるという感覚が育っています。栄養価の計算も必要なのでしょうが,そうしなくても程々にバランスを保って生きていくことが出来ます。(今は自分の舌と腹をごまかす術を覚えさせられて食べ過ぎになっているようです。)
 この美味しく食べるという感覚と同じように,社会生活をする上で心の平衡を適度に保つ感覚が持てたらと思います。あると信じます。ではそれはどのような感覚なのでしょうか? 人と人とのつながりの中で,私たちは心にさまざまな思いを抱いています。独りで好きなことをしてのんびりと過ごすことに生きがいを求める人がいます。過干渉の中で育ち管理社会に放り込まれ「ああしろ,こうしろ」と言われ続けて来た人がもう嫌だと言っているようです。補導を受けた子どもが「小さな親切,大きなお世話」と言い返してくると,婦人補導員の方に聞いたことがあります。人と人とのつながりに疲れて煩わしくなっています。一方では,朝ご主人や子どもを送り出した後で家でのんびりしているはずの主婦が,心に空しいものを感じています。働きに出ようかと考えます。鍵っ子は誰もいない家に寂しさをつのらせます。人恋しく近所の小母ちゃんにむさぼるように話をします。人と人とのつながりに飢えています。
 このように人と人とのつながりに飽食している人もいれば,飢えている人もいます。本当にこの世はままならないものです。ところで,このつながりを適度に求めようとしている事実に着目することにします。足りないと欲しくなり過ぎると嫌になるというこのバランス感覚が,これから追求しようという課題の一つなのです。