《第3章 子育て心温計の仕様》

 子育て心温計の全体図は別ファイルに示すとおりです。

【3.2】子育て心温計の健全発育部

 (8)[情緒的な価値を信じるか?]
 いわゆる人情と呼ばれるものを感じ,それを大事なものと思うことができるということです。心の中に湧き上がる抽象的で無形のものの存在を認めることができるということです。例えば微笑みを素晴らしいと思えることです。これができるようになってはじめて人と心の通い合いができますし,人と人とのつながりは「親密感」あふれるものになることができます。抽象的なものには他に,美しさ,楽しさ,喜びなどがあります。ここでは善いことに価値を見いだすことができるという点に注目しましょう。人の役に立つことに歓びを感じる心です。道徳的な意味で善であると頭で考える知的な価値としてではなく,それを遥かに越えた心で感じる価値を持ちたいと願います。この状態が〈奉仕状態〉です。
 今の子どもたちはお化けとか幽霊といったものを信じていません。夜,便所に行くのが恐かったことを思い出しませんか。理屈では説明できない得体の知れないものがいるという経験をしていないと,抽象的なものが信じられなくなります。つまりお化けを恐がる子どもの方が正常な発育をしているのです。こんなことを言いますとお叱りを受けるかも知れません。現在の社会は高度情報化社会にハイテンポで向かっており,したがって教育の内容,形態も社会の進歩や時代の急変に即応して変わるべきであるという風潮があります。この膨張する知識社会の流れに逆らっているように聞こえるかもしれません。しかしじっくりと考えてみて下さい。人間の知恵は個々の頭脳の中に蓄積できるものではありません。親の頭の中にある考え方を子どもがそっくり引き継ぐことはできません。もちろん私たちの生活環境は時代によって異なります。今のように便利になり精密さが極端に進んでいる時代では,情報量は増えているかもしれません。しかし,それは情報であって知恵ではありません。この世に生を受けた人間は,いつの時代でも同じように遊び学び,恋をしてということを繰り返します。確かに技術は進歩していきますが,人間の行動や意識は全くと言って良いほど変わってはいません。情報はともかく私たちの知恵の方はたかがしれています。人が人をなぜ好きになるのかということすらまだ理屈で説明はできません。何百年前の人と比べて一体どれほど人は進歩していると言えるでしょうか。源氏物語の世界は本質的に今も変わってはいません。繰り返しますが,自然界のごく一部の改良は進みましたが,人間の中身は聖域として不変なままであって,知的という名の,生命のない価値観とは全く別の次元のことなのです。こどもの頃に聞いたおとぎ話の世界も抽象的な感性の世界を呼び起こしてくれます。理解できなくても分かるということができる世界があります。
 私たちは多くの男女の中から特定の人を好きになり結婚します。若者の結婚に関する希望は「安定が一番」ということのようです。そのためにより自分に似合った相手を探すことが必要です。情報化社会ではコンピュータが相性を診断し相手を選び出してくれます。今の個人が持つ条件が死ぬまで保たれると仮定しています。あたかも結婚の時点で人生のすべてが完全に予測可能であるかのようです。人を好きになり愛するのに論理的な必然性はありませんし,また人は成長という大事な特性を持ち合わせています。結婚した後もお互いに良い影響を与え合って,素晴らしい夫婦という人間関係を作り出していく能力を持っています。この影響という他への働きかけ,これが情緒的なものです。思いやりとか,優しさという形のないものです。結婚してから二人の生活を二人で作り上げてゆくという心構えが,人間の成長という命あるものの特権を正しく理解している人には備わっています。結婚は将来への出発であり,1+1=2という知的な常識を越えた3にも4にもなれる人間の営みです。
 子どもが奉仕的な行動をしたときに,私たちは褒めます。母親を助けようとお手伝いをすると褒められます。子どもはまた褒めてもらおうと願います。褒められることを快感として感じます。この状態は小学校低学年までです。高学年になりますと,相手の気持ちを思い測ることができるようになり,褒められることを利用しようという下心から出る煽てであるとか,分担能力のない赤ん坊扱いをしているとか,褒めれば何でもすると思っているとか,と受けとめるようになります。情緒的な価値を感じられるような褒め方,心から歓びに満ちた褒め方をして欲しいと願うようになります。褒めるという行為は,良いことをしたことを認める激励でありたいものです。褒められることに快感を感じるのではなく,良いことをしたから快感を覚えるように育てたいと思います。そうすることで子どもの心の中に自前の「幸福感」が湧いてくるものです。
 奉仕状態では自分の善意を信じていますから,他人の善意も信じることができます。自分を四分,他人に六分を与えようと自己抑制をしますが,このときの二分の不足分は相手が歓ぶ顔が見たいという願いが叶うことで十分に補いがついています。