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【家庭・地域二日制の基本概念?】
講演に出かけて,あるPTA会長と面談しているときです。「学校週五日制になったが,PTAとしてどう取り組んでいけばよいのか,ということが分からないままに苦慮している」というお話を受けました。何がどうなっているのか,事態を把握しなければ手の打ちようがありません。実践者には具体的なコンセプトが必要なのです。
教育改革という大きなうねりがあります。学校が週五日制に縮小したあおりを,誰が受け止めるべきか? 放り出された子どもを誰が「確かに受け取りました」と責任ある解答をすべきなのか? 引き受けたとして,何から手をつければよいのか? 自分たちの体制にはいまさら何ができるのか? 何一つ明確なイメージを描けないままです。
また,様々なキーワードが飛び交っています。体験,生きる力,豊かな心,ゆとり・・・,それぞれにその意味は分かります。そこで,例えば,地域で体験行事を企画実践します。確かに,子どもに体験の機会を与えることができます。でも,それがどうしたという見通しを確信できないもどかしさを拭えません。有り体に言えば,総合的な見取り図がないのです。基本となる事業概念がないままに何かしろと言われているようなものです。
PTA会長の苦衷に対して,どのような答えをすればよかったのか,とっさの受け答えの中で構築したあらましと,講演の中でも触れたあれこれを整理して,ここにまとめておくことにします。
《どこで受け入れるのか?》
学校週五日制はあくまでも学校側の体制変更です。子どもの立場になれば,学校は五日しかないということです。残りの日はどこに行けばいいのでしょうか? 子どもが行くところは,家庭・地域の他にはありません。つまり,学校週五日制を補完するキーワードは,「家庭・地域二日制」なのです。子どもを受け取る場所は,家庭であり,地域です。もし,これまで通りの家庭・地域のままであれば,子どもは社会に放り出されることになります。その最も分かりやすい例は塾通いか,繁華街の路上ということでしょう。
《誰が受け入れるのか?》
家庭二日制と言われても,実際的には親は忙しくて,家庭には不在です。地域とて状況は変わりません。誰もいないのです。生活のために,親は子どもを放り出さざるを得ない,構ってやれない状況にあります。その現実に対して,一体誰の子どもなんだという親への非難めいた言葉掛けがなされるかもしれません。その背景には親であれば何はさておいても子どものことを優先すべきであるという価値観があります。誰しも異論を差し挟めない正論かもしれませんが,正論必ずしも実現可能とはならないのが,人の世です。正論だけで事態が好転するはずもありません。
とはいえ,家庭・地域で子どもを引き受けざるを得ない事態になった以上,親や地域の大人が何らかの責任を負わざるを得ません。逃れようがないのも一方の現実です。このジレンマの最も基本的な様相は,子どもが家にいるときに,親は不在であるということです。言い換えると,親が傍にいないと構ってやれないという問題意識なのです。このくびきを解き放つことが重要です。
昔の親も,家にいて子どもの傍にいたわけではありません。農家であれば父母は畑仕事で日中は不在だったのです。傍にいなければならないということが求められてはいないのです。傍にいなくても,子どもを子どもとして身近な存在にすることが可能だと考えるべきなのです。子どもを我が子として家族の一員に受け入れることのできる親でありさえすればいいのです。
《いつ受け入れるのか?》
家族の一員として子どもを受け入れるということはどういうことでしょう? 家族とは暮らしを共にする者のことです。お互いが家族のためになることを持ち寄ることで暮らしを維持しようという人的なシステムです。子どもが家族の一員になったとき,子どもは受け入れられたことになります。親の姿が傍になくても,家族という気持ちでつながりを持てれば,それで受け入れはできたことになるのです。
家族の崩壊という危惧があります。ホテルのような個室に引き籠もり,隔絶した暮らしのパターンが取り上げられます。すれ違いの生活サイクルもあります。つながりを途絶えさせる条件が重なってきました。言い過ぎを承知で敢えて言えば,親も子どももお互いを必要としなくなっています。子どもがいれば足手まといになる,負担が増えて自己実現が疎かになるという表層的な思考も根強く蔓延っています。一方で,子どもは可愛い存在という狭い意識も反動的に生まれています。
家族とは何か,そのことをもう一度真剣に考える必要があります。家族の密着が強すぎて個を封じ込めていた時代の反作用として,個の解放が意図的に進められてきました。子どもの育ちにおける様々な問題が表出したことは,その傾向が行き過ぎる時期に入っている示唆と考えることができます。生き方にバランスを保持する必要があるとするなら,解き放たれた個は結びつく方向に動いていく必要があります。家庭二日制という時代の流れは,家族とは何か,それを問いかける絶好のチャンス到来になります。
《何を受け入れるのか?》
では,子どもの身柄を家族として受け入れたとして,一体何を受け入れたらいいのでしょう? 家族としての生活の一部を子どもに託すことです。一つの例として,買い物をあげておきましょう。母親が夕食の素材をメモ書きして,買い物を子どもに任せるのです。普通の日でも先に帰宅する子どもが,素材を買ってきておきます。生きる力とは,生活力です。食べることに関わることは生きる体験です。体験行事で織り込まれる竹とんぼ作りなども体験ではあるのですが,それはあくまでも生きることには二次的です。子どもに生きるチャンスを与えられるのは,家族としての生活の場しかありません。
生活のことは親が一切面倒を見て,子どもは勉強をしていればいいという隔離的子育てをしてきたから,生きる力のない,体験不足のひ弱な子どもに育ってしまったのです。生きることがどれほど手間暇のかかることか,その面倒くさい営みを体験していないから,人の生きる苦労を弁えない甘えが増長してきたのです。家庭で家族の一員として生きること,その子どもの役割を親が受け入れればいいのです。
《なぜ受け入れるのか?》
子どもは「ありがとう」という立場で育ってきました。親や大人があれこれ面倒をみてやります。それは保護行為として必要なことです。しかし,ありがとうと受け取っている間は,子どものままです。大人になるということは「どうぞ」という立場になることです。育ちの目標は,どうぞといえるようになることなのです。だとすれば,それは家族のために何事かの役割を引き受けて「どうぞ」と役割を果たすことで可能になります。それが子どもを家庭に受け入れることで達成される大事な子育てであり,家庭二日制の子どもにとっての意味なのです。
子どもに求められるものとして「豊かな心」があります。豊かな心は様々な内容を持っています。どうすれば子どもにそれを持たせることができるのでしょうか? 子育ては子どもが持っている可能性を引き出させてやることです。その考えに従えば,子どもは豊かな心を既に持っていると考えるべきでしょう。だとすれば,後は引き出す手だてがあれば済むことになります。それが「どうぞ」というキーワードなのです。どうぞという言葉を使うことによって,子どもは自らの内に秘めている豊かな心を引き出すことができるようになります。思いやりや優しさ,ボランティアや責任感など,よいことのほとんどが,この呪文によって吹き出してくるはずです。
家族の暮らしは,幸せになることを目的にしています。先ほどの例でいえば,買い物を子どもが引き受けてくれたら,母親は時間と手間が楽になります。これは母親の手助けであり,母親を幸せにする手段にもなります。母親から感謝され,その喜びを子どもは受け取ることでしょう。みんなニコニコ,いいことずくめです。子どもを家庭で引き受けなければならなくなって,余計な手間暇が増えると考えれば,幸せではないでしょう。でも,子どもをそれなりの生活の担い手と考えて手分けをすれば,人手が増えるのですから,うれしいことのはずです。「子どもが家にいてくれてよかった」,その気持ちが家庭二日制を定着させる方便になるはずです。
同じことは地域についても言えます。子どもを対象にした行事が終わったときに,子どもたちが「ありがとうございました」と礼を言って帰るような行事は,お客様行事です。地域の一員としての実践でなければならず,大人の方がありがとうと礼の言えるものであって欲しいのです。してあげられた,そんな思いを子どもに持たせてやれる行事こそが,地域二日制の目標とする実践です。地域にとっても,地域二日制はいいことであり,決して余計なことを背負い込むことなどではありません。
《どのように受け入れるのか?》
子どもを家庭に受け入れるといっても,どのようなことが可能なのでしょうか? 生活のことといっても,便利になった家庭生活には,子どもに任せられることがないという感想が聞かれます。否定的な結論とは,得てして,する気がないところから生まれます。あるはずだと考える真剣さが大切です。
買ってきた食材の下準備ができます。ジャガイモの皮を剥いておくとか,ワカメを水につけておくとか。調理の手伝いでは,大根や山芋をおろすとか。回覧板を回すこと。役場に書類を届けること。ゴミの分別や空き缶つぶし。家計簿の計算の手伝い。目に付いたゴミを拾っておく。ペットの世話。トイレットペーパーの補充。できることはいくらでもあります。
子どものことですから,失敗もあるでしょう。その失敗を引き受けてやれるのは,親しかいません。親は子どもの失敗の後始末をするのが役目です。家で失敗をしながらもできるように育つことで,子どもは外の世界に出ていく準備ができていくのです。家庭二日制の唯一の苦労は,親らしいこと,つまり,子どもの不始末を黙って引き受けることです。実は,これが親になるための試練です。これから逃げている間は,親としての成長はできません。
母親のメモ書きを見ながら買い物に行って,あいにく売り切れていることがあるでしょう。そのときにどうするか? 子どもが育つチャンスです。子どもなりに考えるでしょう。無かったよとあっさり帰ってくるかもしれません。それでは,献立ができず,一つの不達成が全部を無駄にすることを体験するでしょう。それを学んだら,次からは何とかしようという気になるはずです。この繰り返しが子どもをたくましくしていきます。子どもを小さなチャレンジに追い込む術として,親の叱咤ではなくて,しないといけない状況を子どもに自然に課していくことが賢い子育てです。親が言うからしなければというのではなくて,自分がしないと皆が困ることになるという責任を引き受けること,そういう任された体験を通して,子どもの一員としての自覚が育っていくのです。
このデッサンは,子どもが今までにしてこなかったこと,免れてきたことですから,子どもにとっては余計なことになります。しかしながら,当初はそういう思いにかられるはずですが,やってみれば違ってくるはずです。イヤだなと思うことを我慢してこなすうちに,実力が備わるものです。社会性とは多少なりとも自己我慢を強いられます。そこをクリアする体験としての意味も意識しておくべきでしょう。
いま親が突きつけられている課題に対して,一つのデッサンを描いてみました。どのように肉付けし色を配置していくか,それは現場の判断になります。社会教育委員の役割はここまでです。計画する者と実践する者とは別人であることが,往々にしてよい結果を生み出します。脚本家と演出者・演技者とは分担するのが通例であるという現実は,その方がいいという経験があるからです。社会活動の脚本家が社会教育委員であると考えれば,仕事の役割について一つのイメージが持てるはずです。
(2002年11月11日)
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