*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【補助金削減への意識改革?】

 社会的活動やボランティアなどの世界に触れていると,時折公私の別が曖昧になっていないのかと思うことがあります。私的な関心を公的な活動に結びつけているというシステムが必然的に帯びる性格のようです。よほど自覚をしておかないと,けじめがなし崩しになります。

 最近気になっていることは,補助金に対する考え方です。不景気と言われている状況を反映して,いろんな社会活動が予算の削減傾向に直面しています。補助を削られたら今までのような活動ができなくなるという危機感を,多くの方が口にされます。その追い詰められていく気持ちはよく分かります。
 「しかし・・・」,という苛立ちは普段は陰の声として抑え込まれています。抑え込んでいるということは,相手にとっては「しかし」という反論は心地よいものではないという配慮が働いているからです。せっかくみんなのためにとがんばっているのに,水を差すのは悪いという気配りです。でも,その心配りが仇になる事態がじわりと近づいているのも事実です。両方共に抱いている甘い気持ちは拭い去らなければなりません。

 補助を受けている活動全般について,補助金のあり方を考え直す必要があります。活動予算の構造改革です。補助というのはあくまでも補助に過ぎないという当たり前のことを当たり前だと意識しなければなりません。まず自分たちで工面した予算があって,そこに多少の不足があるというときに,補助でまかなうというのが本筋です。子どもがお小遣いを貯めて足りないところを親が補助してやります。全部親がかりでは,甘えです。
 普段の活動費は自分たちで何とかしているが,でも特別に必要性が出てきたのに力不足という場合には臨時的に助けてもらう,それが真っ当な住民活動の姿でしょう。少なくとも受益者負担をきっちりと果たした上で,補い助けを受けるという姿勢を明確にしていけば,補助金削減にめげる必要はなく前向きに対処できるはずです。

 一方で,余裕がない状況になると,当事者以外の人の中に補助を甘い汁と思い不当な優遇と断じてくる方が現れます。その追求に対して高邁な目的をもって応じることは可能ですが,相手には言い訳にしか聞こえません。このような現実的な意見の食い違いは,いったん表立つと納まらなくなります。予防がなによりです。そのためには,下世話に言うように,痛い腹を探らせぬという予防線を構築しておくことです。無防備のまま放置することが最も大きな失策になります。今の世の中は,何も講じていないという無策が責められます。

 受益者負担というキーワードがそろそろ出番と待機しています。このときに問題になるのは,受益者が誰かという点です。社会活動として括られている理由は,誰でも参加できるという任意性にあります。特定の人に限らないという開放性が,公共性の条件になっています。社会活動では受益者がみんなという理屈になっているのです。そこに補助をする行政側の理論的な基盤があります。
 ところが,現実に参加している人,受益者は一部の人です。実質的にはみんなではないのです。この実質の部分を納得できる形に整えておく必要があります。それが補助は補助であるという受益者側の節度ある態度に掛かっています。身を処していることが受益者の責任でもあります。
 補助を貰うのは当然であるとか,補助に頼り切っていてさらに増額を求めるという無節操な言動を垣間見ることがあります。金を引き出すことで自らにこれほどの力があると誇示したいのかと勘ぐってしまいます。そうではないのでしょうが,いくらみんなのためにがんばっていると自讃しようと色褪せて見えます。自らにけじめを通してこそ,要求が説得力を持つことを弁えてほしいものです。それが上手な要求の仕方なのです。

 さて,話はそう簡単ではありません。社会活動の中には,行政側による住民活動の利用もあります。手が足りないので,お礼を補助金という名目にすり替えて,手伝って貰おうという魂胆です。こういうケースでは,削減する側の受益に関わりますので,削減のペースがダウンするのは自明のことです。活動継続の心配は少ないでしょう。ただ気をつけないと,関わっている側では,自分たちがしているという自立的充実感はゆっくりと萎んでいくでしょう。

 いずれにしても,古い言い方ですが,お陰を頂いているという節度が消えているような気がしています。社会は節度があってはじめて円滑に動いていくものです。その節度とは,人に言われるものではありません。自ら示すものです。少なくとも社会活動に関わる人には備わっていて欲しいと思っているのですが,表立ってこないのは寂しく残念です。

(2002年09月12日)