*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【学力の低下?】

 学校週五日制が完全実施に入って,にわかに子どもたちの学力不足が意識されるようになりました。長い間大学などで教壇に立っていると,学べない学生の蔓延はかなり以前から実感していたことです。ことさら新しい事態などではなく,放置できない状況になってしまったということに過ぎません。

 授業中に私語をする学生を注意しても,5分ももちません。聞いている人の邪魔になるから,と言っても全く意に介しません。リビングでテレビを見ている感覚です。先生は勝手にしゃべっていると思っています。面白いことが飛び出さない教育テレビの視聴率が数%であることと全く同じなのです。学びの楽しさ,学びの面白さに対する感性がほとんど未開拓です。学びに対しては,CMの方を喜ぶ赤ん坊同然です。
 「ここは試験に出るから覚えておきなさい」,先生がそう言わなかったから試験が不合格になったと詰め寄ってくる学生がいましたが,そんな甘えを求める学生は十年以上前に現れていました。今はその甘えすら見せず,面白くおかしく教えてもらうことを期待しているようです。試験ができなくても,みんなができないからと妙に安心しています。最終的には単位の取得に向けて先生が何とか対処してくれるだろうと高をくくっています。

 学びを知らない子どもたち,巣立っていった若者がそろそろ職場で中堅層に差し掛かっている現在,企業の活力が衰えているのは当然の結果です。かつては中堅層がしっかり自己能力を発揮してきたからこの国は豊かになったのですが,今は落ち目に向かっています。景気を動かしている基盤であるマンパワーが活力を持っていないのですから,先行きは心配です。
 そんなことはない,懸命に頑張っていると言われるかもしれません。人それぞれに頑張っていることでしょう。でも,頑張り方が的を得ていないのです。無駄な努力とは言いませんが,確かな結果の出る道に沿っていないのです。大人になるとは自分で考えることです。世間の風潮に従ってもそれは無駄足です。風潮になった知恵は既に賞味期限が切れた知恵だからです。自分で考える,それが学びですが,学びをしたことがないと時代を動かすようなことを考えることなどできない相談です。

 仕事の現場で一人ひとりが小さな知恵を持ち寄ることが活力です。そんなことは他人に任せておけばいい,自分は関係ない,誰かするだろう,そう思って多くの人が逃げているから,世の中は沈滞していきます。構造改革をしても,そこに入る人材が他人任せであれば,何も起こらないでしょう。
 もちろん高等教育機関が座視してきたわけではありません。少しでも実力を付けてやるべく,補習をしたり内容を初級に下げたりといった手当をしてきました。そのことは一方で高等教育への期待に添えないことになります。大学を出ても使えないという声が寄せられるのです。学力の地盤沈下は手直しではカバーできなくなってきました。学習内容の精選という名の下に,初等教育の教科書が薄くなりました。学ぶ力が弱いから,せめてこれくらいという切羽詰まった選択なのです。本音の所では,国際的な競争を強いられている世の中からの要請とは著しく乖離しているのです。

 学力とはつけてもらうものではなく,自らつけるものです。その前提がすっかり落とされていることが問題であり,それ故に,ゆとりの教育という言葉が誤解されています。自分で考えるという学びの癖をつけるための猶予が本来の趣旨ですが,学習時間を減らして自由時間が増えると早とちりをしています。これから,子どもたちを考える人に育てることで何とか底上げの希望をつなぐために,学校週五日制を最大限に活かすチャンスです。

(2002年12月03日)