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【いじめ自殺が訴えること?】
いじめを受けたからと遺書を残して自殺した中学生がいました。無念さを思うとやりきれません。
ところで,そのきっかけを作ったのがベテランの担任教師であったということで,たいへん問題になっています。言語道断,あるまじき事が起こりました。その後の学校側の対応の中で,差別発言によるいじめがストレスを与えたと言い換えられ,そのいじめが自殺の原因とは言い切れないという曖昧さを持ち込もうとする姿勢が見えてきました。保身のため,事なかれ主義であるという糾弾の声も,報道のコメントに出ています。
事件の渦中にあると判断が割引されることは仕方がありませんが,ものごとを考える筋道は明確にしておかなければ,説明責任を果たすことができなくなります。一つだけ例示しておくと,いじめが自殺の原因とは言い切れない,という判断に欠陥があります。他の事情が重なっている可能性を言いたいのでしょう。つまり一般に当事者が常に持ち出す言い訳の類があるということです。もしもいろんな原因が重なっていると考えていくと,どれが最も重大な原因か分からなくなります。集団の中では責任が分散して曖昧になってしまうことと同じ状況に陥ります。
いじめを受けなければ自殺することはなかった。だからいじめが原因です。それ以外の諸事情は背景でしかなく原因ではありません。疲れていると風邪を引きますが,だからといって疲れは風邪の原因にはなりません。なによりいじめがつらくて自殺するという意思表明の重さを聴き取ってやることから反省は始まるべきです。そのスタンスが明確に出てこないから,ことは脇道に逸れていきます。いじめのことより対応のまずさに関心が移ってしまいます。
担任教師の口から「からかいやすかった」という言葉が出ていました。嫌みを言われた中学生が笑っていたから,この子には言っても大丈夫と判断したようです。中学生にすれば先生に言われたら,笑ってやり過ごすしかありません。その受け流しがその後の同級生からのからかいを呼び込むとまでは思いもしなかったはずです。からかいという軽いのりの行為が,受ける側にどう作用するか,考えようとしない軽薄さが罪作りになっています。からかいは時として親密さを表すこともあり,そのつもりであったのかもしれません。しかし,立場の違いのある関係の中では成り立ちません。それはハラスメントになります。
社会教育という目で,この事例からくみ取ることができる課題について考えておきましょう。先ずは単刀直入に,いじめという言葉は軽い響きがあり,実は言葉の暴力であるという認識を広める必要があります。万引きは窃盗であるという認識も同じです。言葉に対する感性を磨き直すような啓発活動です。
さらには,例えいじめを受けても死に結びつかないように,背景状況を改善すべきです。考えられることとして,子どもの人間関係を複数にすることがあります。学校での関係しかないから,追い詰められます。また,親と教師以外の大人との関係を作ることがあります。いじめを受けた子どもが相談できる相手は,親でも先生でもないからです。親には心配掛けたくないと思い,先生にはチクリになると躊躇します。その他のことを勘案すると,地域での豊かな人間関係という所に向かっていきます。
健全育成の局面では「学校・家庭・地域の連携」が常套句です。しかしながら,地域はその機能を全く果たしていません。地域が機能していたら,いじめによる痛みは随分と軽減されるはずです。現状では,学社連携や融合という言葉に引きずられて,学校主導に止まっています。また,生涯学習という機能を社会教育と重ねようとしたことも整合性を無視した舵取りになりました。社会教育という言葉を「地域教育」と読み替えるぐらいの覚悟を持って活動をすることが急務です。すでに福祉分野では「地域福祉」という概念を実現化しようとしています。
さまざまな問題が現れている現状は,システムの不備と捉えるべきであり,理念優先の舵取りの限界に気がつく時期にきているのです。
(2006年10月21日)
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