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【生きている社会?】
ある研修会で,委員長として舞台の袖で講演を聞く機会がありました。その位置関係のせいでしょうか,講演内容を真っ向から受け止めるのではなく,講師と聴衆を同時に聞くという不思議な体験をしました。聞きながら話している,話しながら聞いているという感じです。その過程で考えていた概略を記しておきます。
国の施策が「今後の」とか「新しい時代」とかのスタンスで進められていく中,ともすれば現場で活動する社会教育委員は,右往左往させられます。そこから出てくるキーワードにしても,「社会教育」と「生涯学習」を混在させた結果,機構面・機能面で未整理な状況を生み出したまま放置され,新たな課題に向けて次は次はと先走りしています。学校教育についても「ゆとり」から「生きる」,さらに「学力」とその時々の課題ばかりを追い掛けているような感があります。
講演の中でスパイラル状に原点に返る必要性が指摘されました。歴史は繰り返されるという原則が社会の動静を見極める上で一つの有効な指標ですが,それは元に戻りながらも時代の流れの上であることから,らせん的なものにならざるを得ません。その観点にはもう一つの重要な因子があります。らせんのピッチです。歴史的判断には数百年,数十年という長期のピッチが想定されますが,行政上の判断に際しては,もう少し短期間のピッチが必要になります。
世情の動向を表す情報として,「最近○○という出来事が多くなった」という事例を取り上げるのが普通です。「だから○○という対策が急がれる」という形の判断が出てきます。緩やかな変化の中に現れる突発的な事象,いわゆるニュース情報は数学的には微分情報です。量的には些少でも,異常であるということが大きく見えてしまいます。滅多に起こらないことだからニュースになるという理屈が忘れられます。もちろん,どのような変化が起こっているかという情報としてはとても有効です。よく言われることとして,これらの出来事は氷山の一角に過ぎないという注釈は大切です。
水面下で起こっている大きいがゆったりとした変動はどのように把握することができるのでしょうか? 数学的には積分という操作に対応した手法があります。現時点で起こるニュース的な事象の他に,ある期間にわたる事例の検証をすることです。一つの例としてあげると,アンケート調査による分析の場合には,現時点での数値割合を見るだけではなく,過去の数値からの変動を見るようにすればいいのです。
年配者が必ず口にする「自分たちの頃と比べると今は・・・」という言い方は,当たらずとも遠からずと考えるべきです。そこに一つのピッチが刻まれて,積分された世情判断が語られているからです。もちろん,スパイラルであるという修正は必要ですが,社会状況の緩やかな変動が見えてきます。
とても気がかりなことは,直面する事象に振り回されているのではという危惧です。例えば,学力の低下が見えると,ゆとり教育を破棄して,詰め込み教育にすぐに転換するといった場当たり的にしか見えない動きが機械的な思考に陥っているためであると感じられます。社会は入力信号を変えたらすぐに反応できる機械とは違います。リモコンでパッと局面を変えられると思っているようですが,有機体である社会はそうはいきません。ゆったりとしか動くことはできません。おそらく予算という金の流れによって制御しようとしているのでしょうが,短期注入的なことをしていたら予算は摩擦熱で消滅していくだけです。
あちら立てればこちらが立たず,それが社会の有り様を考える常識です。どこかをいじれば,その影響はとんでもないところに波及します。だからといって手を拱いているわけにはいかない,あれこれやってみるしかないのが現状です。ただその試行錯誤の期間を十分に取る我慢が必要です。右往左往するようでは何の成果も得られません。また,危機管理の鉄則である分散ということも考えるべきです。一律にということにこだわらないことです。あれもするこれもする,それが案外と有効です。
社会教育という分野の難しさを再確認しただけのことですが,かすかに感じたことは一人ひとりの委員が真摯であれということです。じっくり見極める目と誠実に取り組む姿勢が集約することで,社会はよい方向を探し当てるはずです。社会は生きているからです。社会を信じる気持ちが薄れないようにしたいものです。
(2006年10月22日)
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