*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【社会教育の一考察?】

 社会教育委員のブロックでの研修会を開催する立場になって,どのような研修をするのか提案をする必要がありました。先ずは,自分が何を知りたいか,どこに尋ねればいいのか,を素直に考えてみました。多くの委員が知りたいことは,社会教育委員の仕事・役割は何かという基本的な問です。この問を解くために,従来は,社会教育の研究者や実践者から教えを受ける一方で,実践事例を研修するという形態が主に採用されてきました。幾度となく回を重ねてきても,今ひとつ腑に落ちる納得が得られませんでした。そのような長い間の反省から,社会教育というものを考え直してみることにしました。

※社会教育委員の役割を知っているのは誰か?
 社会教育委員の役割は何かという問は受け継ぐとして,その問を誰にぶつけるかということを考えてみます。そもそも,社会教育委員は,教育委員会から委嘱される役職です。それなら,委嘱する教育委員会は,社会教育委員に何らかの期待をしているはずです。このような役割を果たしてほしいという期待もなしに,委員の人選や委嘱をするはずもありません。委嘱される社会教育委員が自分の役割を考えるのは,無理な話ではないかと考えてみました。世間的には,任せる仕事も決めないで,人を雇うことはしないということです。
 そこで,研修会では,教育委員会が社会教育委員に何を期待しているかを明らかにしたいと考えました。本来であれば,委嘱者である教育委員会から話を聞き出すべきですが,それではあまり上品ではありません。具体的には,教育委員会にアンケート調査をすることによって,委員への期待の内容を集めてみる手立てを採用しました。ブロック内での調査ですからサンプル数は10数件なので,統計的な調査ではなく,意見の集約といったものになるでしょう。それでも,社会教育委員に対する実際的な取り扱いの状況から,社会教育委員が置かれている立場が伺えるはずです。

※組織としての委員の立場はどうあればいいか?
 学校教育以外が社会教育であると定義されています。そのことを考えてみます。
 教育とは,大人になる,大人であることを目的にした社会的な活動・営みです。子どもが「大人になるための教育」は,知情意の教育であるとすれば,知の教育を学校教育,意の教育を地域教育,情の教育を家庭教育という区分けが可能です。そう考えると,知の教育という狭い意味で,学校教育は「大人になる教育」の一部でしかありません。なぜなら,地域の教育,家庭の教育は社会教育に区分けされており,学社融合といった動きがその現れです。一方で,生涯学習と呼ばれている「大人であるための教育」も別にあることを含めると,「人の教育」において,学校教育は特殊な領域であり,教育の一部が学校教育であると考えるべきではないかと思われます。因みに,生涯学習は,学習者の自主性を尊重というゆとり教育の大人版として,期待通りに進んではおらず,社会教育への回帰が起こっていることも,社会教育の意味を再考する契機と捉えるべきです。
 組織論として見ると,教育委員会傘下に,学校教育課と社会教育課が並置されています。そこに,委員組織として,教育委員と社会教育委員とがいます。行政的な処遇として,学校教育課に教育委員が,社会教育課に社会教育委員が張り付けられています。何となく起こっている組織運営上のねじれが,教育委員の位置づけ・意識を間違った方向に導いてきたようです。
 学校教育では,誰が(教職員),誰に(児童生徒),いつ(学年・年間),どこで(学校),何をどのように(指導要領),なぜ(義務,学習権保証)という形で,すべてのことが決まっており,自治体における学校教育課が果たす職務は,実務処理しかありません。つまり,教育委員が学校教育について考えて決めていく余地はほとんどないといえます。
 一方で,社会教育では,誰が行うという専門職はいない,何をするかも決まっていない,どこで,いつ,どのようにというすべてが決まっていません。自治体の事情に合わせて考えて判断するように一任されており,自治体の教育委員会が決める役割を負っています。その際に,教育委員会が住民の意向を勘案するために,「社会教育委員を置くことができる」という法的な環境整備がなされているのです。
 社会教育法の特徴を一言で表せば,住民参加の仕組みとなります。
  ・市町村主義:地域・自治体を基盤とする教育としての社会教育
  ・国・自治体の環境醸成の責務:直接的指導ではなく諸条件の環境整備
                 国民の自己教育・相互教育の重視の立場
  ・住民参加・住民自治システムが想定
 この社会教育システムの機能を教育行政の中で生かす人的な接点として,社会教育委員が設置されています。そこで,改めて社会教育委員の立ち位置を解きほぐすと,
  ・一住民として:住民の声を代弁する。
  ・活動者として:職場等の活動や地域活動の実動で,課題を把握,見えるものを反映,提案する。
  ・推進者として:まちの社会教育の実状を全体的に見つめ,探り,提案する。
 住民の声については,例えば,教育行政への期待,親への期待,学校への期待,地域への期待など,さまざまな期待を仲介することが考えられます。社会の中で交錯している期待のあれこれを整理して,期待実現の動きを喚起する手はずを考察し提案することが,社会教育委員への期待となります。

※社会教育とはどういうことか?
 社会教育委員は何をすべきか,何ができるかという問に対して,その解決の糸口を探るために,事例研修が行われてきました。そこでは,常に,違うんだなという後味の悪さが残っています。研修の物足りなさの気持ちが,事例の中に社会教育委員の姿が見えてこないという声として,聞こえてきます。この研修の不完全燃焼を解消しておかなければ,前進することができません。その一助として,一つの問を想定することにします。
 「社会教育活動と社会活動の違いは何か?」という問を立ててみます。その背景に,社会活動なら担当部局は首長部局,社会教育活動なら担当部局は教育委員会であろうという選別の可能性を意図しています。事例として語られる社会教育活動がまちづくりという目的にリンクされている状況があり,一方で,さまざまな活動が首長部局へ移っていっているケースも現れています。町の活性化に資する活動が社会教育活動と言えるのか,現状の社会教育活動の中に"教育"という要素が見えるのか,そこを曖昧にしたままでは,いつまでも霧は晴れないと思われます。
 福岡県社会教育委員連絡協議会が発行している社会教育委員の手引きに,「市町村社会教育委員に関する実態調査集計」が掲載されています。調査項目の中に「活動」という分野があり,(1)諮問・答申 (2)建議 (3)その他の提言等・調査 (4)市町村独自の研修等について,実態が調べられています。研修会で事例紹介されているさまざまな実践活動は,調査の対象ではありません。つまり,社会教育委員の活動実態には,実践的な社会活動は想定されていないのです。社会活動は,社会教育委員が実践者として直接に関わるものではなく,あくまでも第三者的に調査対象として扱うことが期待されています。繰り返しますが,社会教育委員は実践者ではなく,社会活動を調査分析し,成果を整理し報告する分析者と自覚すべきです。
 思考を先に進めるためには,「教育とは何か」を定義しなければなりません。一般辞書では,教育は一般的又は専門的な知識や技能の修得,社会人としての人間形成などを目的として行われる訓練とあります。ここでは違った目線を持ってみます。人として持つべき知識・知恵を明らかにすることが教育の基本です。何を教えるかということがなければ,教育は成り立ちません。学校教育では知識として確立したものが教科に振り分けられています。しかし,社会教育が扱うべき知恵は,価値観の多様化という基準の揺らぎによって,曖昧になってしまっています。
 教育のイメージを捉まえる一助として,体験と教育の関係を考えてみます。子どもが夕焼けを見ます。わーっと声をあげます。何かを感じています。大人が「きれいね」と言葉を伝えます。子どもは,自分の感動体験をきれいという感動と名付けることができます。体験しただけではその場限りですが,言葉という記憶ファイル化することによって,知恵として整理することができます。人が何気なくしているさまざまな営みの中にある大事な部分を知恵として抽出し,言語化,理論化,体系化,意識化,共有化するプロセスが教育です。学校教育のイメージである既存の知識を伝達することだけが教育ではありません。教科書を作るところからが教育活動であることを見落としてはなりません。したがって,学校教育とは違って,社会教育では教科書を作るところから始めなければなりません。すなわち,体験的な社会活動の中から,大切な要素を抜き出して,意味付けを行い,価値を見いだして整理し,知恵として普及し,さらに学習者が自ら知恵を見いだす力を備えるようにすることが,社会教育活動となります。
 そうは言っても,すべてを新たに創り出す必要はありません。教科書は随所にあるからです。例えば,おとぎ話はただのお楽しみではなく,大げさに言えば人の道を教えてくれる教材です。こういうときはこうするのですよという生活の知恵を授けてくれるだけではなく,最後をめでたしめでたしと締めるのが通常です。世の中はいろいろあっても何とかなって,最後にはめでたく終わる,世の中とはいいものという価値標準を教えるのが教育の目標です。つまり,めでたしという結びの言葉を伝えることこそが,教育活動なのです。
 教育活動には,特殊な状況下での気付きと学びというプロセスもあります。例えば,非日常体験としての通学合宿活動が行われています。生活を丸ごと自分で引き受ける状況に置かれることによって,自分がいかに世話を受けて生きているのかを気づかされ,生きることの面倒な手立てを思い知り,同時に苦労の後には楽しみがあることを知り,共同することのすごさを体感し,日常を見る目が改まります。子ども自身が学ぶことができるという教育活動です。もちろん,子どもの学習能力に応じて,大人が適切な意味づけをフォローする教育活動も欠かせません。

※社会教育活動とは?
 教育の目的とは,将来に対する期待です。ヒトがさまざまな意味で人として社会の中で幸せに生きていくために必要な素養を獲得できるように配慮されます。今の活動が明日のためにどのような役に立つのか,一連のつながりを明らかにすることによって,今の活動の意味が納得されます。明日への期待がある限り,人は努力することができます。社会教育委員に期待されている第1の役割が社会教育の計画を立案することとされている理由が,この点にあります。
 例題を考えてみます。当面する社会的課題の解決のために「絆」の力が期待されています。絆あふれる社会の実現を目指すことが課題となりますが,絆づくりを目指すスローガンを掲げるだけでは事は成りません。社会教育はどのような計画を策定すればいいのでしょう。実践のステップを提示して,人々の理解と納得を促して,実現化を図る必要があります。それが計画書です。
 先ずは,無縁社会という現状に対処するために,さまざまな出会いの場となる活動を配置します。そこには「知り合う」という意味があります。あいさつ運動などの取組がこの段階に位置づけられる社会活動です。社会教育は次のステップを考えます。知り合っている人の間に限定されているつながりを,身近にいる他者にも届けるような活動を促進します。そこには「助け合う」という意味が見えます。その活動を引き出すために,「どうぞ」という言葉が人をつなぐことを教えます。さらには,助け合いの結果によってお互いに「よかった」の言葉が響き合う喜びを体験します。そこに絆の価値を認知できる「学び合う」という意味が現れます。個々の社会活動である,知り合う活動,助け合う活動,学び合う活動を一連の流れとして構築していくと,計画書が出来上がります。将来への期待という総合的な視点から,さまざまな既存・新規の社会活動を整理・統合する意味づけの作業が,社会教育活動と 考えることができます。
 子育てをすることによって,親が育てられるということがあります。子育ては親育て,つまり親は子どもを育てているつもりですが,いつの間にか親としての教育を受けていることになります。作用と反作用が表裏一体であるという自然法則が,教育活動にも起こるのです。社会活動ではどうなのか,考えてみましょう。
 新任委員の研修会での事例として,婚活活動が紹介されました。地域の若者の出会いがないという声を受けて,地域の各団体のメンバーが集って婚活会を組織し,3回のイベントを開催し,カップルが成立したという事例でした。社会教育委員がメンバーとして入っていたということで,報告されたようです。話された事業の中には,これといった教育活動は含まれていませんし,社会教育委員としての活動も見当たりません。一見して社会活動に過ぎないのではという印象です。
 実は,ここまでは序章に過ぎません。地域の各団体のメンバーはこのイベントを期に集まって知り合い,イベントのためにそれぞれの力を出して助け合い,その努力が実って幸せなカップルが誕生し喜びを共にすることができたという学び合いをしています。地域社会に新たな絆を生みだしたことになります。善かれと思ってしたことが,自分たちを地域の大人として一廻り大きく育ててくれたことになります。婚活会に関わった人にとっての社会教育活動であったのです。そして,みんなで良いことをして心豊かになれたことを認めてほめてやることが,社会教育委員の役割です。ほめて育てる,それが教育の常套手段であることを思い起こしておきましょう。

 以上の経験知に依る論考の正しさは別にして,なにがしかの筋道を通すことができたのではと感じています。自分なりの筋道を立てておかないと,臨機応変といえば聞こえは良いのですが,その場しのぎの考えに振り回されることになります。自分はこう考えるというささやかな信念を持つことが,一時的であれ,リーダー役に期待されることです。いろんな方と意見交換をしながら,論考を精査していこうと思っています。
(2012年07月15日)