***** 《ボランティアの窓》 *****

【思いやりとお節介の違いを弁えていますか?】

《第05章》

 ボランティア活動は,まだその歴史は浅く,なじみのない社会活動です。地域生活が生きていた頃は,お互いに顔なじみの間柄で,普段から遠慮なく家を行き来してして「勝手知った他人の家」でした。そこでの互助活動はごく自然に生活の一部でした。その温かな関係をうっとうしいと嫌がったために地域が衰退してしまいました。しかし,人は一人では生きられないという現実を思い知らされ,新しくボランティア活動という助け合いが登場してきました。助け合いのネットワークが一度完全に切れてしまったことを,十分に意識しておかないとボランティア活動は根付きません。

 ボランティアは,「してあげる」のではなく,「させていただく」と考えるようにしようとします。ボランティア活動の対象者が主人であるとは,「お客様が神様です」という発想と同じです。謙虚になることはよいことかもしれませんが,それはあくまでもボランティアの側の都合です。してもらう側からすれば,させていただくと思われているとしたら,祭り上げられているようで落ち着きませんし,気持ちの重荷になります。それに,してあげる,してもらうの一方通行では永続きしません。もっと対等で楽な気を遣わない関係でありたいものです。

 特に高齢者が対象になる場合には,「人様に迷惑をかけないように」という気持ちが強いので,お世話を受けることにとても気分的な疲れを感じるものです。お世話をしていただいても何のお返しもできないということを,非常に恥ずかしいことと思います。昔のように親子代々のおつきあいがあるときは,自分が若いときにあれこれと世話をしてあげたお返しの順送りと思うことができていました。しかし,今のボランティア活動という助け合いは見ず知らずの人からご恩を受けるのですから,借りをつくるだけになります。自分が情けなく惨めに見えてくることでしょう。

 ボランティア活動で見過ごされていることは,ボランティア活動を受ける側の態勢です。初対面の人にもっとも個人的な弱みをさらすことに慣れていないということです。病院のような所では専門家が相手ですから何の心配もないと思うことができますが,ボランティアは一般人ですので内情を公開してしまう気まずさがぬぐえません。また,家庭の台所にボランティアが入り込むことがあるかもしれません。よその方に台所を勝手にいじられることが気になる方もおられるでしょう。気心の知れた人になるまでは,お互いに焦らないことが肝要です。

 ボランティア活動は思いやりの活動です。そのときに相手がどのように受け取るかということに深入りしないことも必要になります。例えば食事を届けるボランティアの場合,相手が食べずに捨ててしまったら,どう思いますか? 「せっかく届けたのに」と腹が立ったり,「あんなに手間をかけたのに」とがっかりされるかもしれません。しかし,それはする側の不満なのです。思いやりとは届けるまでです。届けられたものを相手がどう扱おうと,相手の勝手なのです。相手には相手の事情があります。わざわざ届けていただいたけど体調が悪いとか,嫌いなものであったとか,別に頂き物があったとか,いろんな要因を相手は抱えています。こちらの思うとおりには運ばないのです。思いやりが無駄になったと思ったとき,それはお節介になります。

 手助けにも程があるということです。その境界を守るように気をつけなければなりません。相手が生きていく上で不自由していることだけを引き受けること,それ以上は大きなお世話になります。相手が自分でできることは相手に残すようにしなければなりません。介護などで世話を焼きすぎると,身体を動かさなくなり,かえって弱らせるということもあるようです。どこまで踏み込めばいいのか,よく見極めなければなりません。

 ここで,もう少し深い考察をしておきましょう。ボランティア活動は「人を生かすことではなく,人が生きようとすることに手を貸すことである」ということです。古い話ですが,1950年代,エチオピアの貧村でマラリアが流行し,乳幼児死亡率が80%に達したことがありました。WHOがイタリア医師団を派遣し,5年でマラリアを撲滅し,その成果は世界に喧伝されました。10年後に事後調査をしてみると,その村が消滅していました。なんということでしょう。

 実はマラリアで死んでいく乳幼児がいなくなり,すべて元気に育った結果,人口が増えたのです。それまで住民を支えていた土地の食料生産力が,その人口増加に耐えられなくなり,村人は食べられなくなって離散したのです。死なさないことは大事なことであったのですが,その先に生きていくことも考えておかなければならなかったのです。生きようとすることへの手助けを忘れていたのです。医師団の手助けに続いて,村人を支えるボランティア活動が欠けていたということです。

 ボランティア活動はよかれと思う善意です。しかし,その善意が届くためには相手と対等に生きようとする気持ちのつながりが必要です。あせらず,できることから,ゆっくりと気長に繰り返すことです。