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【情けは人のためならずと信じていますか?】
《第10章》
情けをかけると人は甘えてしまいその人のためにならないので,情けはかけるべきではないというのが今風の解釈です。もちろん情けは巡りめぐって自分に返ってくるというのが本来の意味ですね。でも,そのことを本当に信じられるかどうかは,ボランティア活動を続ける糧として大事なことです。
「忘れてた 振りして受け取る 貸した金」という川柳のように,思いを殺して人とさりげなくつきあっています。いろんなことがあって何かしら貧乏くじを引いているような気持ちになることがあります。そんなとき情けは人のためならずという巡り合わせが救いになるはずです。人の縁は見えない形でつながっています。
でも信じるだけでは実感はできないかもしれません。ちょっと近道を見てみることにしましょう。前の章で「ドウゾ」ということを書いておきました。ドウゾとギブするときに多少の自己犠牲をすることがあるかもしれません。でも,自分が大きな犠牲になって相手を喜ばせようとすると,相手も喜べないものです。無理をした犠牲は長続きしません。ボランティアが「できることをするように」と言われるのは,そのためです。思いやりは「利他」行為ですが,だからといって必ず自己犠牲をしなければならないものではありません。
ボランティアは,他人を幸せにすることによって自分が幸福になり,他人を幸福にするために自分もまた幸せになろうとすることが基本です。「カキフライ 数合わすため 食べておく」という川柳が温かなずるさを教えてくれます。数の多少から起こるケンカもないし,同時に自分もちょっと得して嬉しいというちゃっかりした所もあっていいでしょう。冗談はさておき,「牛乳を飲む人よりも,届ける人が健康になる」という俚諺がイギリスにあります。ボランティアは別の形で得をしているはずと信じましょう。食べる人(夫)より食べさせる人(妻)が長生きしているという証拠もあります。
ボランティア活動を受ける人から直接お返しを得るのではなく,どこか別のルートからそれとなくお返しがやってくるものだと考えれば,する人もされる人も気持ちの負担がなくなることでしょう。特に助けてもらっても何のお返しもできないということをとても気になさる方がいます。思いやりの順送りであり,巡り巡っているということを信じ合えるようにしましょう。
ボランティア活動をはじめるとき,「これまで人様のお陰でやってこれた。何らかの形でお返しをしたい」と考えた方もおられるでしょう。社会から受けた恩を社会に返すことで貸し借りの帳尻を合わせるというのも,情けがめぐっていくことを信じているからです。
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