***** 《ボランティアの窓》 *****

【万障繰り合わせを覚悟していますか?】

《第11章》

 暮らしの場で,「この仕事 皆でやろうと 人に投げ」ということがあります。皆でやるということは,誰も自分がするとは思わないという皮肉です。家の前の道路に花や樹木が植えられています。その管理は行政でしょう。日照りの中で乾ききった花樹はしおれています。家のすぐ前にあるのに,水をかけてあげようとは思いません。それは行政の仕事と押しつけるだけで,あげくは花樹を枯らした責任を追及するといったことになります。花樹が水を求めているのに,知らんぷりをする薄情さは文字通り情けないことです。

 助けを必要としている相手に,自分にできることであればドウゾと手をさしのべることが当たり前でしょう。できることをしないことが恥ずかしいことという気持ちを無くしたから,人は寂しくなってきたのです。まず,できることをしようという心根がボランティアの出発です。

 人とのつながりを求めて何かをはじめようとするとき,人のお役に立てることをしようと考えます。ドウゾと人助けをすることです。しかし,一方で「人助けなど大層なことはできそうもない」という不安や迷いもあります。そこで「自分にできることをすればいいのですよ」と先輩が慰めてくれます。何の変哲もない,素直な物言いに過ぎませんが,案外と奥深い言葉なのです。

 江戸時代に白隠禅師という偉いお坊さんがいました。ある人が禅師を尊敬し帰依していました。その人の娘は身持ちが悪く,浮気な男と密通して子を産んだそうです。父親は誰の子かと問いつめ,娘は「白隠様です」と嘘をついてしまいました。父親は怒り,日頃の尊敬を忘れ,「覚えがあろう」と赤ん坊を連れて怒鳴り込みました。白隠は何の弁解もせず「そうか」と赤ん坊を受け取り,そのスキャンダルで名声は一挙に地に落ちました。その後,白隠は黙々と子どもを抱いて托鉢をし,雪の日も赤ん坊を衣に抱いていました。そのような禅師の姿を見て,娘はついに「あの子の父親は白隠様ではない」と告白しました。

 禅師にとっては名誉が失墜し,世間から白眼視されることなど眼中にはありませんでした。ただ罪のない赤ん坊を死なさないことのみを考えたのです。どうでもいい方は捨てて,しなくてはならない方を取ったわけですが,こういう人が温かな光を発します。偉い人です。凡人にそこまでできません。どうしてこんな並はずれた人の話など持ち出したのでしょう。

 普通の人には,できなくていいのです。できるだけのことをしてあげるしかありません。そこで,「これだけしかできなくてごめんなさい」という気持ちになるはずです。そうすると,人によく思われようなどと欲張ったことは考えなくて済みますし,ありがとうというお礼の言葉も求めなくなります。その上,「少しだけどしてあげられた」と満足できるはずです。

 もちろん,ボランティア活動に関わろうとしている方は既にこの境地にあるはずです。そこでもう一つ次のステップに触れることにします。それは「できるときに」ということについてです。ボランティアは「できることを,できるときに」とはならないということです。自分が好きなときにすればいいと考えていたら,それは身勝手になります。

 ボランティア活動は助けを求めている方の都合に合わせることが本筋だからです。待っている方に合わせないと,活動が実行できません。また,ボランティアはチームを組んで予定をやりくりし,引き継いでいく形で実行されることもあります。つまり,自分の担当する日時が決まりますので,それについては万障繰り合わせなければなりません。引き受けた以上は責任を負わなければならないのです。「できるときに」ではなくて「万障繰り合わせて」というぐらいの覚悟が必要です。