***** 《ボランティアの窓》 *****

【ボランティア 忘れた頃に 喜びを】

《ボランティア・ノウハウ:第02条》

 ボランティア活動が静かに浸透しています。ところで,ボランティア活動をしてあげているという気持ちは傲慢であると,誰しも思います。そこで,ボランティア活動をさせて頂いているという言い方が出てきました。心得としては,原点に戻れたということでしょう。それくらいの抑制を意識しておかなければ,心地よい優越感に蝕まれてしまいます。人の心は弱いものです。

 あるボランティアの助けを受けている方が,させて頂くという言い方は自分たちには不愉快さを与えると話していました。自分たちは人にさせるほどの大層なご身分だとは思っていないので,かえって皮肉に聞こえてしまうそうです。ボランティア活動をする方もされる方も,心に少しの堅さがあるのかもしれません。ゆっくりと解れていくのを気長に待つしかないようです。

 人の手を借りなければならない情けなさを酌み取ってやることが,ボランティアの心です。情けなさの底にあるのは,助けて貰っても何のお返しもできないことです。その気持ちの負担をせめて金銭的にでも片が付けられれば,よほどすっきりすることができるかもしれません。そこに便乗するのが商売としての福祉でしょう。それも行き過ぎない程度なら,短兵急には否定できません。

 ボランティア活動をしていると,何かお礼をと言われて,困ってしまうと言われる方がおりました。お断りするけど,どう考えたらいいのでしょうと相談されました。そのときに,とっさにお答えしたのは,次のようなことでした。

 ボランティア活動を成り立たせているのは,その場で決済できるものとはせずに,順送りにするという構造です。かつて世話を受けたことがあるから,今お返しをしているとか,かつて親が世話して貰ったから,今子どもが助ける方に回っているといったことです。世代毎の順送りなのです。

 ボランティア活動という言葉のない時代の,地域の暮らしがそうでした。地域のつながりが途切れている今の世では,昔と同じ考え方は通用しないと思われるかもしれません。でも,年老いた親は誰かに世話になっていたし,自分の周りには子どもから離れたお年寄りがいる,お互いに直接の相手は違ってはいますが,世代の順送りは成り立つはずです。ボランティア活動が,昔流の義理を果たすという域を超えた一回り大きな人間関係を生み出すきっかけになれたら,どんなに素晴らしいことだろうと思います。

 世話している方もやがて自分が世話を受ける身になります。世話をされている方もこれまでの付けを払って貰っていると思えばいいし,世話をさせてあげれば功徳になると考えればいいでしょう。人は一人では生きられない弱みを持っています。長いおつきあいの中で,人はお互いに生きるための積み立てをしているのです。