1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)
 
 

1月1日 戊申
  卯の刻、前の武衛鶴岡若宮に参り給う。日次の沙汰に及ばず。朔旦を以て当宮奉幣の
  日に定めらると。三浦の介義澄・畠山の次郎重忠・大庭の平太景義等郎従を率い、去
  る半更以後、辻々を警固す。御出の儀御騎馬なり。礼殿に着御す。専光房良暹予めこ
  の所に候す。先ず神馬一疋を宝前に引き立つ。宇佐見の三郎祐茂・新田の四郎忠常等
  これを引く。次いで法華経供養。御聴聞の事終わり還御の後、千葉の介常胤椀飯を献
  る。三尺の鯉魚を相具す。また上林下客その員を知らずと。
 

1月5日 壬子
  関東の健士等南海を廻り、花洛に入るべきの由風聞す。仍って平家家人等を所々の海
  浦に分ち置く。その内、伊豆の江四郎を差し遣わし志摩の国を警固す。而るに今日熊
  野山の衆徒等、件の国菜切島に競い集まり、彼の江の四郎を襲い攻めるの間、郎従多
  く以て疵を被り敗走す。江の四郎太神宮御鎮座の神道山を経て、宇治岡に遁れ隠れる
  の処、波多野の小次郎忠綱(義通二男)・同三郎義定(義通孫)等主従八騎、折節そ
  の所に相逢い、忠を源家に抽んぜんが為、合戦を遂げ、江の四郎の子息二人を誅すと。
  忠綱・義定は、故波多野の次郎義通が遺跡を相伝し、当国に住す。右馬の允義経は不
  義有って、相模の国に於いて誅罰を蒙ると雖も、この両人に於いては、旧好を思うに
  依って勲功を励ます所なり。
 

1月6日 癸丑
  工藤庄司景光平井の紀六を生取る。これ去年八月、早河合戦の時、北條の三郎主を害
  するの者なり。而るに武衛鎌倉に入御するの後、紀六逐電し、行方を知らざるの間、
  駿河・伊豆・相模等の輩に仰せ、捜し求めらるるの処、相模の国蓑毛の辺に於いて、
  景光これを獲る。先ず相具し北條殿に参る。即ち事の由を武衛に申せらる。仍ってこ
  れを義盛に召し預けらる。但し左右無く梟首すべからざるの旨これを仰せ付けらる。
  糺問するの処、所犯に於いては承伏せしむと。
 

1月7日 甲寅 晴 [玉葉]
  伝聞、左衛門の尉知康(法皇、近日第一の近習者なり)並びに兵衛の尉公友等、禅門
  の許より捕取せられをはんぬ。知康に於いては、重ねて禁固せらると。今日、武士(今
  度は大将軍を遣わさず、ただ私の郎従宣下を持ち行き向かう所と)を遣わし、大和の
  国の庄を停廃す。並びに無罪の僧綱已下を安堵せしめ、有罪の凶徒党類を征伐すべし
  と。
 

1月11日 戊午
  梶原平三景時、仰せに依って初めて御前に参る。去年窮冬の比、實平相具し参る所な
  り。文筆に携わらずと雖も、言語を巧みにするの士なり。専ら賢慮に相叶うと。

[玉葉]
  伝聞、熊野の辺、武勇の者等、五十艘ばかり、伊勢の国に打ち入り、官兵を射取る。
  三百余人猶国内に居住す。この事、去る四日の事と。仍って明日、宣旨を伊勢の国に
  給い、国内の勢を起こし、彼の悪徒を追い払うべきの由と。また筑紫謀叛の者、いよ
  いよ悪逆を事とす。仍って九国與力し、伐ち奉るべきの由、同じく宣旨を下さる。ま
  た延暦の衆徒蜂起す。
 

1月14日 辛酉 晴 [玉葉]
  寅の刻人告げて云く、新院すでに崩御てえり。実否を知らざるに依って相尋ねるの処、
  卯の刻使い帰り来たりて云く、事すでに一定。丑の終わり寅の始めの程の事と。
 

1月16日 癸亥 晴 [玉葉]
  左少弁行隆来たりて云く、諸国の勇士、併せて謀叛の心有り。仍って先ず五畿内、及
  び近江・伊賀・伊勢・丹波等の国、武士を補し以て遠国の凶徒を禦がるべきの由、故
  院仰せ置かると。
 

1月18日 乙丑
  去年十二月二十八日、南都東大寺・興福寺已下堂塔・坊舎悉く以て平家の為焼失す。
  僅かに勅封倉・寺封倉等この災を免がる。火焔大仏殿に及ぶの間、その周章に堪えず、
  投身の焼死者三人。両寺の間、不意の焼死者百余人の由、今日関東に聞ゆ。これ相模
  の国毛利庄住人印景が説なり。印景は学道として、この両三年南都に在り。彼の滅亡
  に依って帰国すと。

[玉葉]
  伝聞、官兵等美乃の国に入り、光長城を攻む。相互に死者多し。遂に光長が首を梟す
  と。彼の国の源氏等、光長の外、党類幾ばくならずと。而るにすでに宗たる者を誅伐
  しをはんぬ。今に於いては、美乃・尾張両国、共に以て敵対すべきに非ずと。
 

1月20日 丁卯 晴 [玉葉]
  或る人云く、頼朝病有りと。伝聞。禅門の小女(世に御子姫君と号す。巫女の腹と)
  法皇宮に納ると。凡そ思慮の及ぶ所に非ず。弾指して余り有り。
 

1月21日 戊辰
  熊野山の悪僧等、去る五日以後伊勢・志摩両国に乱入し、合戦度々に及ぶ。十九日に
  至り、浦七箇所皆悉く民屋を追捕す。平家の家人、彼が為或いは要害の地を捨て逃亡
  す。或いは誅に伏しまた疵を被るの間、いよいよ勝ちに乗り、今日二見浦の人家を焼
  き払う。四瀬河の辺に攻め到るの処、平氏の一族関出羽の守信兼、姪伊籐次已下の軍
  兵を相具し、船江の辺に相逢い防戦す。悪僧の張本戒光(字大頭八郎房)、信兼が箭
  に中たる。仍って衆徒二見浦に引退す。下女(歳三四十の者)並びに小童(十四五の
  者)等以上三十余人を搦め取り、同船せしめ、熊野浦を指し纜を解くと。この濫觴を
  尋ねるに、南海道は、当時平相国禅門虜掠の地なり。而るに彼の山関東繁栄を祈り奉
  るに依って、平氏方人を亡ぼさんが為、この企て有りと。
  平相国禅門驕奢の余り、朝政を蔑如し、神威を忽緒し、仏法を破滅し、人庶を悩乱す。
  近くは則ち使者を伊勢の国神三郡(大神宮御鎮坐)に放ち入れ、兵粮米を充て課し、
  民烟を追捕す。天照太神鎮坐以降千百余歳、未だ此の如き例有らずと。凡そこの両三
  年、彼の禅門及び子葉孫枝敗北すべきの由、都鄙貴賤の間、皆夢想を蒙る。その旨趣
  区々と雖も、その料簡の覃ぶ所、ただ件の氏族の事なり。

[玉葉]
  伝聞、頼朝夭亡謬説と。
 

1月23日 庚午
  武蔵の国長尾寺並びに弘明寺等に於いては、僧長栄を以て沙汰を致すべきの旨定め下
  さる。これ源家累代の祈願所なり。
 

1月25日 壬申 夜より雨下る [玉葉]
  美濃の国の逆徒等、討伐せられをはんぬ(蒲倉城に籠もり、悉く誅せられをはんぬと)。
  件の事、去る二十日の事と。官軍疵を被るの者、数十人に及ぶ。