1月1日 戊申
卯の刻、前の武衛鶴岡若宮に参り給う。日次の沙汰に及ばず。朔旦を以て当宮奉幣の
日に定めらると。三浦の介義澄・畠山の次郎重忠・大庭の平太景義等郎従を率い、去
る半更以後、辻々を警固す。御出の儀御騎馬なり。礼殿に着御す。専光房良暹予めこ
の所に候す。先ず神馬一疋を宝前に引き立つ。宇佐見の三郎祐茂・新田の四郎忠常等
これを引く。次いで法華経供養。御聴聞の事終わり還御の後、千葉の介常胤椀飯を献
る。三尺の鯉魚を相具す。また上林下客その員を知らずと。
1月5日 壬子
関東の健士等南海を廻り、花洛に入るべきの由風聞す。仍って平家家人等を所々の海
浦に分ち置く。その内、伊豆の江四郎を差し遣わし志摩の国を警固す。而るに今日熊
野山の衆徒等、件の国菜切島に競い集まり、彼の江の四郎を襲い攻めるの間、郎従多
く以て疵を被り敗走す。江の四郎太神宮御鎮座の神道山を経て、宇治岡に遁れ隠れる
の処、波多野の小次郎忠綱(義通二男)・同三郎義定(義通孫)等主従八騎、折節そ
の所に相逢い、忠を源家に抽んぜんが為、合戦を遂げ、江の四郎の子息二人を誅すと。
忠綱・義定は、故波多野の次郎義通が遺跡を相伝し、当国に住す。右馬の允義経は不
義有って、相模の国に於いて誅罰を蒙ると雖も、この両人に於いては、旧好を思うに
依って勲功を励ます所なり。
1月6日 癸丑
工藤庄司景光平井の紀六を生取る。これ去年八月、早河合戦の時、北條の三郎主を害
するの者なり。而るに武衛鎌倉に入御するの後、紀六逐電し、行方を知らざるの間、
駿河・伊豆・相模等の輩に仰せ、捜し求めらるるの処、相模の国蓑毛の辺に於いて、
景光これを獲る。先ず相具し北條殿に参る。即ち事の由を武衛に申せらる。仍ってこ
れを義盛に召し預けらる。但し左右無く梟首すべからざるの旨これを仰せ付けらる。
糺問するの処、所犯に於いては承伏せしむと。
1月7日 甲寅 晴 [玉葉]
伝聞、左衛門の尉知康(法皇、近日第一の近習者なり)並びに兵衛の尉公友等、禅門
の許より捕取せられをはんぬ。知康に於いては、重ねて禁固せらると。今日、武士(今
度は大将軍を遣わさず、ただ私の郎従宣下を持ち行き向かう所と)を遣わし、大和の
国の庄を停廃す。並びに無罪の僧綱已下を安堵せしめ、有罪の凶徒党類を征伐すべし
と。
1月11日 戊午
梶原平三景時、仰せに依って初めて御前に参る。去年窮冬の比、實平相具し参る所な
り。文筆に携わらずと雖も、言語を巧みにするの士なり。専ら賢慮に相叶うと。
[玉葉]
伝聞、熊野の辺、武勇の者等、五十艘ばかり、伊勢の国に打ち入り、官兵を射取る。
三百余人猶国内に居住す。この事、去る四日の事と。仍って明日、宣旨を伊勢の国に
給い、国内の勢を起こし、彼の悪徒を追い払うべきの由と。また筑紫謀叛の者、いよ
いよ悪逆を事とす。仍って九国與力し、伐ち奉るべきの由、同じく宣旨を下さる。ま
た延暦の衆徒蜂起す。
1月14日 辛酉 晴 [玉葉]
寅の刻人告げて云く、新院すでに崩御てえり。実否を知らざるに依って相尋ねるの処、
卯の刻使い帰り来たりて云く、事すでに一定。丑の終わり寅の始めの程の事と。
1月16日 癸亥 晴 [玉葉]
左少弁行隆来たりて云く、諸国の勇士、併せて謀叛の心有り。仍って先ず五畿内、及
び近江・伊賀・伊勢・丹波等の国、武士を補し以て遠国の凶徒を禦がるべきの由、故
院仰せ置かると。
1月18日 乙丑
去年十二月二十八日、南都東大寺・興福寺已下堂塔・坊舎悉く以て平家の為焼失す。
僅かに勅封倉・寺封倉等この災を免がる。火焔大仏殿に及ぶの間、その周章に堪えず、
投身の焼死者三人。両寺の間、不意の焼死者百余人の由、今日関東に聞ゆ。これ相模
の国毛利庄住人印景が説なり。印景は学道として、この両三年南都に在り。彼の滅亡
に依って帰国すと。
[玉葉]
伝聞、官兵等美乃の国に入り、光長城を攻む。相互に死者多し。遂に光長が首を梟す
と。彼の国の源氏等、光長の外、党類幾ばくならずと。而るにすでに宗たる者を誅伐
しをはんぬ。今に於いては、美乃・尾張両国、共に以て敵対すべきに非ずと。
1月20日 丁卯 晴 [玉葉]
或る人云く、頼朝病有りと。伝聞。禅門の小女(世に御子姫君と号す。巫女の腹と)
法皇宮に納ると。凡そ思慮の及ぶ所に非ず。弾指して余り有り。
1月21日 戊辰
熊野山の悪僧等、去る五日以後伊勢・志摩両国に乱入し、合戦度々に及ぶ。十九日に
至り、浦七箇所皆悉く民屋を追捕す。平家の家人、彼が為或いは要害の地を捨て逃亡
す。或いは誅に伏しまた疵を被るの間、いよいよ勝ちに乗り、今日二見浦の人家を焼
き払う。四瀬河の辺に攻め到るの処、平氏の一族関出羽の守信兼、姪伊籐次已下の軍
兵を相具し、船江の辺に相逢い防戦す。悪僧の張本戒光(字大頭八郎房)、信兼が箭
に中たる。仍って衆徒二見浦に引退す。下女(歳三四十の者)並びに小童(十四五の
者)等以上三十余人を搦め取り、同船せしめ、熊野浦を指し纜を解くと。この濫觴を
尋ねるに、南海道は、当時平相国禅門虜掠の地なり。而るに彼の山関東繁栄を祈り奉
るに依って、平氏方人を亡ぼさんが為、この企て有りと。
平相国禅門驕奢の余り、朝政を蔑如し、神威を忽緒し、仏法を破滅し、人庶を悩乱す。
近くは則ち使者を伊勢の国神三郡(大神宮御鎮坐)に放ち入れ、兵粮米を充て課し、
民烟を追捕す。天照太神鎮坐以降千百余歳、未だ此の如き例有らずと。凡そこの両三
年、彼の禅門及び子葉孫枝敗北すべきの由、都鄙貴賤の間、皆夢想を蒙る。その旨趣
区々と雖も、その料簡の覃ぶ所、ただ件の氏族の事なり。
[玉葉]
伝聞、頼朝夭亡謬説と。
1月23日 庚午
武蔵の国長尾寺並びに弘明寺等に於いては、僧長栄を以て沙汰を致すべきの旨定め下
さる。これ源家累代の祈願所なり。
1月25日 壬申 夜より雨下る [玉葉]
美濃の国の逆徒等、討伐せられをはんぬ(蒲倉城に籠もり、悉く誅せられをはんぬと)。
件の事、去る二十日の事と。官軍疵を被るの者、数十人に及ぶ。