12月1日 己卯
左兵衛の督平の知盛卿数千の官兵を卒い、近江の国に下向す。而るに源氏山本前の兵
衛の尉義経・同弟柏木の冠者義兼等合戦す。義経以下、命を棄て身を忘れ挑戦すと雖
も、知盛卿多勢の計を以て、放火し彼等の館並びに郎従宅を焼き廻るの間、義経・義
兼度を失い逃亡す。これ去る八月、東国に於いて源家義兵を挙げるの由、伝聞するの
以降、近国に卜居すと雖も、偏に関東一味の儀を存じ、頻りに平相国禅閤の威を忽緒
するの故、今この攻めに及ぶと。
[玉葉]
夜に入り人伝えて曰く、伊賀の国に平田入道と云う者(俗名家継、故家定法師男、定
能兄と)有り。件の法師近州に寄せ攻め、手嶋の冠者を伐ち(党類郎従、相併せて十
六人梟首、二人搦め得ると)、また甲賀入道(義重法師なり)の城を追い落しをはん
ぬと。
[平家物語]
土佐の国の流人ふく田の冠者希義を誅せらる。かの希義は故左馬頭義朝が四男、頼朝
には一腹一姓の弟也。関東に謀反起りければ、同意の疑にて、かの国の住人蓮池の次
郎清常に仰せて、誅せられにけりとぞ聞えし。
12月2日 庚辰
今日、蔵人の頭重衡朝臣・淡路の守清房・肥後の守直能等、東国を指し発向す。これ
源家を襲わんが為なり。但し路次より帰洛すと。
[玉葉]
辰の刻、追討使下向す。近江道の方、知盛卿大将軍たり。その外一族の輩数輩相伴う。
信兼・盛澄等同じく以て向かうと。伊賀道、少将資盛大将軍たり。前の筑前の守貞能
相具すと。伊勢道、即ち国司清綱行き向かうと。
12月3日 辛巳 天晴 [玉葉]
伝聞、今暁近州の逆賊楯を引き逐電す。美濃に到り辺を焼く。仍って官軍勢多・野地
等の在家数千宇、放火し追い攻むと。終日の間余烟猶尽きずと。美濃の源氏等五千余
騎、柏原(近江の国)の辺に出向くと。官兵近江道・伊賀道相並び、京下の勢三千余
騎と。また人云く、奈良の大衆熾盛蜂起す。人何事を知らず。境節尤も奇怪の事か。
山の大衆三方相分かれをはんぬと(一分座主大衆、官兵に與力。一分七宮方大衆両方
に與せず。一分堂衆の輩、近州に與力すと)。越後城の太郎助永、甲斐・信濃両国に
於いては、他人を交えず、一身に攻め落とすべきの由、申請せしむと。また上野・常
陸等の辺、頼朝に乖くの輩出来すと。
12月4日 壬午
阿闍梨定兼、召しに依って、上総の国より鎌倉に参上す。これ去る安元元年四月二十
六日、当国に流人なり。而るに知法の聞こえ有り。当時鎌倉中、然るべき碩徳無きの
間、廣常に仰せ召し出さるる所なり。今日則ち鶴岡供僧職に補せらると。
[玉葉]
人伝えて云く、江州の武士等併せて落ちをはんぬ。三分の二、官軍に與力しをはんぬ。
その残り城に引き籠もると。また聞く、奥州の戎狄秀平、禅門の命に依って、頼朝を
伐ち奉るべきの由、請文を進しをはんぬと。但し実否未だ聞かず。
12月5日 癸未 天晴 [玉葉]
伝聞、江州の勢(美濃の源氏等を加う)四千余騎、官兵の勢二千余、今日矢合わせ、
明日合戦すべしと。
12月6日 甲申 天晴 [玉葉]
伝聞、近江の国の武士等三千余騎、官兵(僅かに二千騎ばかり)の為に追い散らされ
をはんぬと。
12月9日 丁亥 天晴 [玉葉]
伝聞、延暦寺衆徒の中、凶悪の堂衆三四百人ばかり、山下兵衛の尉義経(近江の国逆
賊の張本、甲斐入道件の義経に與すと)の語を得て、園城寺を以て城と為し、六波羅
に夜打ちに入るべし。また近江の国に進向する所の官軍等、その後を塞ぎ、東西より
攻め落とすべきの由、結構を成すと。茲に因って経雅朝臣・清房(禅門息、淡路の守
と)等、追って遣わさるべしと。また興福寺の衆徒、逐日蜂起し、宮大衆と称すと。
四郎房と云う者有り。武勇に堪たるの徒党、四百余人に及ぶ。これ禅門の方人たりと。
而るに悪僧等数百人出来し、件の四郎房を払いをはんぬ。関東の賊徒江州に攻め来た
るの時、南京よりまた洛中に伐ち入るの由、支度を成すと。この事信受せられざるか。
12月10日 戊子
山本兵衛の尉義経鎌倉に参着す。土肥の次郎を以て案内を啓して云く、日来志を関東
に運すの由、平家の聴に達す。事に触れ阿党を成すの刻、去る一日、遂に城郭を攻め
落とさるるの間、素意に任せ参上す。彼の凶徒を追討するの日、必ず一方の先登を奉
るべしてえり。最前の参向尤も神妙なり。今に於いては、関東祇候を聴さるべきの旨
仰せらると。この義経は、刑部の丞義光より以降、五代の跡を相継ぎ、弓馬の両芸、
人の聴す所なり。而るに平家の讒に依って、去る安元二年十二月三十日、佐渡の国に
配流す。去年適々勅免に預かるの処、今また彼の攻めに依って牢籠す。宿意を結ぶの
條、更に御疑い無しと。
[玉葉]
また云く、只今南都より脚力到来す。衆徒すでに洛に入らんと欲し、終夜走り来たる
所なり。大衆の勢以ての外と。てえれば、今日山の悪僧等を追討せんが為、官兵行き
向かうの間、山科東の辺に於いて衆徒と降り合い、すでに以て合戦す。未だ事切れず
と。申の刻に及び、大衆等引退し、籠城しをはんぬと。夜に入り、南都より告げ送り
て云く、大衆蜂起すと雖も、僧綱以下制止を加えるに依って、和平しをはんぬと。
12月11日 己丑
平相国禅閤重衡朝臣を園城寺に遣わし、寺院の衆徒と合戦を遂ぐ。これ当寺の僧侶、
去る五月の比、三條宮に候する故なり。南都同じく滅亡せらるべしと。凡そこの事、
日来沙汰無きの処、前の武衛彼の令旨に依って、関東に於いて合戦を遂げらるるの間、
衆徒定めて與し奉るかの由、禅閤思慮を廻し、この儀に及ぶと。
[玉葉]
伝聞、昨日山僧と官兵と合戦す。両方の勢各々二三十人ばかり、堂衆方四人梟首せら
れをはんぬ。官兵十人ばかり手を負うと。堂衆等山中に引き籠もりをはんぬ。或る説、
三井寺に籠もるべしと。また聞く、南都の衆徒、僧綱等の制止に依って、一旦和平す
と雖も、始終知らずと。
12月12日 庚寅 天晴、風静まる
亥の刻、前の武衛新造の御亭に御移徙の儀有り。景義の奉行として、去る十月事始め
有り。大倉郷に営作せしむなり。時剋に、上総権の介廣常が宅より、新亭に入御す。
御水干・御騎馬(石禾栗毛)、和田の小太郎義盛最前に候す。加々美の次郎長清御駕
の左方に候す。毛呂の冠者季光同右に在り。北條殿・同四郎主・足利の冠者義兼・山
名の冠者義範・千葉の介常胤・同太郎胤正・同六郎大夫胤頼・籐九郎盛長・土肥の次
郎實平・岡崎の四郎義實・工藤庄司景光・宇佐見の三郎助茂・土屋の三郎宗遠・佐々
木の太郎定綱・同三郎盛綱以下供奉す。畠山の次郎重忠最末に候す。寝殿に入御の後、
御共の輩侍所(十八箇間)に参り、二行に対座す。義盛その中央に候し、着到すと。
凡そ出仕の者二百十一人と。また御家人等、同じく宿館を構う。爾より以降、東国皆
その有道を見て、推して鎌倉の主と為す。所辺鄙にて海人・野叟の外、素より卜居の
類これ少し。正にこの時に当たり、閭巷の路を直し、村里の号を授く。しかのみなら
ず家屋甍を並べ、門扉軒を輾ると。今日、園城寺平家の為に焼失す。金堂以下堂舎・
塔廟並びに大小乗経巻、顕密の聖教、大略以て灰燼と化すと。
[玉葉]
伝聞、昨日官兵等三井寺に寄せ(山の堂衆一昨日より引き籠もるなり)、夜漏に及び
合戦す。堂衆勢少く、引退し江州方に向かいをはんぬ。官兵等三井寺の近辺並びに寺
中の房舎少々を焼き払う。堂舎に及ばずと。官兵方七十余人疵を蒙ると。また聞く、
江州の賊徒等の勢甚だ強し。忽ち落ち得るべからずと。武田の党、遠江に来住し、参
州を伐ち取りをはんぬ。美濃・尾張、また素より與力しをはんぬと。城の太郎助永、
すでに信濃に越えるの由風聞す。謬説と。雪深くて人馬の往還及ぶべからずと。また
秀平攻め落とすべきの由、請文を進すの旨、その聞こえ有り。而るに行程の推す所、
その使い帰参の期に及ばず。疑うに、士卒の心を励まさんが為、頗る虚聞有るかと。
12月13日 辛卯 天晴 [玉葉]
伝聞、前の右中弁親宗朝臣、頼朝と音信の由風聞す。その事に依って召し問わるべし
と。また諸卿左右大臣を除くの外、左大将已下、併せて武士を進すべきの由催せらる
と。これ等奇異の政なり。時忠張行する所と。(略)伝聞、前の右中弁親宗、内事を
頼朝に通わすの風聞有り。従者を召し問わるの処、承伏しをはんぬと。
12月14日 壬辰
武蔵の国の住人、多く本知行地主職を以て、本の如く執行すべきの由下知を蒙る。北
條殿並びに土肥の次郎實平奉行たり。邦通これを書き下すと。
[玉葉]
近江の官兵等、昨日矢合わせ。また伊勢の武士等、美濃の国に寄せ攻めんと欲すと。
12月15日 癸巳 天晴 [玉葉]
一昨日、知盛・資盛等、敵城を攻む。甲賀入道並びに山下兵衛の尉義経等、徒党千余
騎、即時に追い落とされをはんぬ。二百余人梟首し、四十余人捕り得る。残る所併し
ながら追い散りをはんぬ。件の首中に甲賀入道有りと(後聞無実)。
12月16日 甲午
鶴岡若宮に鳥居を立てらる。また長日最勝王経の講読を始行せらる。武衛詣でしめ給
う。水干を装束し、龍蹄に駕し給うと。
[玉葉]
南都の大衆、すでに入洛の由風聞す。然れどもその実無し。今日重ねて官兵等、近江
山下城を攻むと。
12月19日 丁酉
右馬の允橘の公長鎌倉に参着す。子息橘太公忠、橘次公成を相具す。これ左兵衛の督
知盛卿の家人なり。去る二日、蔵人の頭重衡朝臣、東国を襲わんが為進発するの間、
前の右大将宗盛の計として、これを相副えらる。弓馬の達者たるの上、戦場に臨み知
謀を廻すこと、人に勝れるが故なり。而るに公長倩々平家の躰たらくを見て、佳運す
でに傾かんと欲す。また先年粟田口の辺に於いて、長井齋藤別当・片桐小八郎大夫(時
に各々六條廷尉の御家人)等と喧嘩の時、六條廷尉禅室、定めて奏聞に及ばるるかの
由、怖畏を成すの処、啻にその憤りを止めこれを宥めらるるのみならず、還って齋藤
・片桐等を誡めらるるの間、彼の恩化を忘れず。志偏に源家に在り。これに依って大
将軍の夕郎を厭却し、縁者を尋ね、先ず遠江の国に下向す。次いで鎌倉に参着す。一
所の傍輩の好を以て、加々美の次郎長清に属き、子細を啓すの処、御家人たるべきの
旨、御許容有りと。
[玉葉]
また聞く、南都の衆始終無く、大略源氏の党類少々凶悪の輩に與力す。然りと雖も、
惣て大衆制止を加うの間、和平すと。尾籠第一の事か。また頼朝の勢十万騎と。三條
宮坂東に在るの由、極めて謬説と。また仲綱決定伐たれをはんぬ。平等院に於いて自
害の輩、三人の中なり。
12月20日 戊戌
新造の御亭に於いて、三浦の介義澄椀飯を献る。その後御弓始め有り。この事兼ねて
その沙汰無しと雖も、公長の両息殊に達者たるの由聞こし食さるるの間、件の芸を試
みしめ給う。酒宴の次いでを以て、当座に於いて仰せらると。
射手
一番 下河邊庄司行平 愛甲の三郎季隆
二番 橘太公忠 橘次公成
三番 和田の太郎義盛 工藤の小次郎行光
今日御行始めの儀、籐九郎盛長が甘縄の家に入御す。盛長御馬一匹を奉る。佐々木の
三郎盛綱これを引くと。
12月22日 庚子
新田大炊の助入道上西、召しに依って参上す。而るに左右無く鎌倉中に入るべからざ
るの旨、仰せ遣わさるの間、山内の辺に逗留す。これ軍士等を招き聚め、上野の国寺
尾館に引き籠もるの由風聞す。籐九郎盛長に仰せ、これを召されをはんぬ。上西陳じ
申して云く、心中更に異儀を存ぜずと雖も、国土闘戦有るの時、輙く出城し難きの由、
家人等諫めを加うに依って、猶予するの処、今すでにこの命に預かる。大いに恐れ思
うと。盛長殊にこれを執り申す。仍って聞こし食し開かると。また上西孫子里見の太
郎義成、京都より参上す。日来平家に属くと雖も、源家の御繁栄を伝え聞き参るの由
これを申す。[その志祖父に異なる。早く昵近し奉るべきの旨これを免さる。義成語
り申して云く]、石橋合戦の後、平家頻りに計儀を廻し、源氏一類に於いては、悉く
以て誅亡すべきの由、内々用意有るの間、関東に向かい武衛を襲うべきの趣、義成偽
り申すの処、平家これを喜び、免許せしむの間参向す。駿河の国千本松原に於いて、
長井齋藤別当實盛・瀬下の四郎廣親等相逢いて云く、東国の勇士は皆武衛に従い奉り
をはんぬ。仍って武衛数万騎を相引い、鎌倉に到らしめ給う。而るに吾等二人は、先
日平家の約諾を蒙る事有るに依って、上洛するの由これを語り申す。義成この事を聞
き、いよいよ鞭を揚ぐと。
[玉葉]
伝聞、来二十五日、官軍を南都に遣わし、悪徒を捕り搦め、房舎を焼き払い、一宗を
摩滅すべしと。先ず今明の間、大和・河内等の国人を以て、道々を守護す。その後官
兵を寄せらるべしと。
12月23日 辛丑 天晴 [玉葉]
今日、維盛朝臣副将軍として、近江の国に下向すと。
12月24日 壬寅
木曽の冠者義仲、上野の国を避け信濃の国に赴く。これ自立の志有るの上、彼の国多
胡庄は、亡父の遺跡たるの間、入部せしむと雖も、武衛の権威すでに東関に輝くの間、
帰往の思いを成し此の如しと。
[玉葉]
伝聞、甲賀入道・山下兵衛の尉等、未だ伐たれず、山下城に籠もる。また尾張・美濃
等の武士、彼に相加わらんと欲すと。或いは然らずと。此の如きの説々、皆以て相違
す。信受し難き事か。明日南都を攻めらること必定と。
12月25日 癸卯
石橋合戦の刻、岩窟に納めらるる所の小像の正観音、専光房の弟子僧、閼伽桶の中に
安じ奉りこれを捧持し、今日鎌倉に参着す。去る月仰せ付けらるる所なり。数日山中
を捜し、彼の岩窟に遇い、希有にて尋ね出し奉るの由これを申す。武衛手を合わせ、
直に請け取り奉り給う。御信心いよいよ強盛すと。今日、重衡朝臣平相国禅閤の使と
して、数千の官軍を相卒い、南都の衆徒を攻めんが為首途すと。
[玉葉]
今日、蔵人の頭重衡朝臣、大将軍として南都の悪徒を追討せんが為下向す。来二十八
日攻戦すべし。今一両日宇治に経廻すべしと。伝聞、美濃・尾張の武士等、早く征伐
せらるべきの由、官軍を牒送す。而るにその勢敵対に及ばず。故に勇士を副え下さる
を請う。仍って追って維盛朝臣(一昨日下向)を遣わさると。
12月26日 甲辰
佐々木の五郎義清、囚人として兄盛綱に召し預けらる。これ早河合戦の時、渋谷庄司
に属き、殊に射奉るが故なり。
12月27日 乙巳 天晴 [玉葉]
伝聞、河内地方より、官兵を寄せらるるの間、大衆の為射危せられ、三十余人射取ら
れをはんぬ。その後追い帰されをはんぬと。宇治地の官軍、今日発向す。明日合戦す
べしと。奈良勢六万騎ばかりと。但し一定を知らず。
12月28日 丙午
出雲の時澤雑色の長たるべきの旨仰せらる。朝夕祇候の雑色等数有りと雖も、征伐の
際、時澤の功他に異なるに依って、故に彼の職に抽補せらると。
今日、重衡朝臣南都を焼き払うと。東大・興福両寺の郭内、堂塔一宇としてその災い
を免れず。仏像・経論同じく以て回禄すと。
[玉葉]
伝聞、去る夜重衡朝臣南都に寄す。その勢莫大に依って、忽ち合戦すること能わずと。
狛川原の辺の在家併せて焼き払う。或いは又光明山を焼かんと欲すと。
12月29日 丁未 天晴 [玉葉]
巳の刻人告げて云く、重衡朝臣南都を征伐し、只今帰洛すと。また人云く、興福寺・
東大寺已下、堂宇・房舎地を払い焼失す。御社に於いては免じをはんぬと。また悪徒
三十余人これを梟首す。その残り春日山に逃げ籠もると。凶徒の戮さるに至れば、還
って御寺の要事たり。七大寺已下、悉く灰燼に変わるの條、世の為民の為、仏法・王
法減し尽きをはんぬるか。凡そ言語の及ぶ所に非ず。
*[平家物語]
重衡朝臣は法華寺の鳥居の前に打立ちて、南都をやきはらふ。(略)行歩にも叶はぬ
老僧、修学者、ちご共、女房、尼などは山階寺の天井の上に七百余人かくれのぼる。
大仏殿の二かいのもこしの上には、千七百余人逃のぼりけり、敵をのぼせじとてはし
ごを引きてけり。十二月のはてにては有けり。風はげしくして、所々に懸たる火一に
もえあひて、多くの堂舎にふきうつす。
興福寺より始て、東金堂、西金堂、南圓堂、七重の塔、二階楼門、しゅろう、経蔵、
三面僧房、四面廻廊、元興寺、法華寺、やくし寺迄やけて後、西の風いよいよ吹けれ
ば、大仏でんへ吹うつす。猛火もえ近附くに随ひて、逃上る所の千七百余人の輩、叫
喚大叫喚、天をひヾかし、地をうごかす。何とてか一人も助かるべき、焼死にけり。
興福寺は淡海公の御願、籐氏一家の氏寺なり。(略)東金堂におはします仏法最初の
しゃかの像、西金堂におはします自然湧出の観世音、るりを並べし四面廊、紫檀を学
べる二階の楼、九輪空にかがやきし二基の塔も、空しく烟りと成にけるこそかなしけ
れ。(中略)金銅十六丈の盧遮那佛、鳥瑟高くあらはれて、半天の雲にかくれ、白毫
新に磨いて、萬徳の尊容を模したりし尊像、八万四千の相好の秋の月、五重の雲にか
くれ、四十一地の瑠璃の夜のほし、空しく十悪の風ふかし、烟は中天の上ひまなく、
猛火虚空に満ちみてり。みぐしはやけ落ちて地に有、御身は涌合ひて湯のごとし、ま
のあたりに見奉もの目もあてられず。はるかに伝へきく人も涙を流さぬはなかりけり。