2月1日 戊寅
足利の三郎義兼北條殿の息女を嫁す。また加々美の次郎長清上総権の介廣常の聟と為
る。両人共穏便を存じ忠貞を挿む。御気色快然の余り、別の仰せに依って今この儀に
及ぶと。
[玉葉]
伝聞、謀叛の賊源義俊(為義子、十郎蔵人と号すと)、数万の軍兵を率い尾張の国に
超え来たる。官兵両度の合戦に疲れ、暫く近江・美濃の辺に休息す。忽ち寄せ戦うべ
からずと。
2月2日 己卯 天晴 [玉葉]
伝聞、常陸の国の勇士等、頼朝に乖きをはんぬ。仍って伐たんと欲するの処、還って
散々に射散らされをはんぬ。この由、飛脚到来す。今明官兵を遣わさらば、彼より攻
むべきの由申し上げると。但し実否知り難きか。
2月3日 庚辰 天晴 [玉葉]
伝聞、頼朝常陸の国に寄せ攻むの間、始め一両度、追い帰さると雖も、遂に伐ち平げ
をはんぬと。これまた実否知り難し。一昨日彼の国より上洛するの者の説と。
2月9日 丙戌
去年の冬、河内の国に於いて、平家の為殺害せらるる所の源氏前の武蔵権の守義基の
首、今日大路を渡し、獄門の樹に懸く。先ず検非違使左衛門の少尉中原章貞・源仲頼
・右衛門の少尉中原基廣・安部資成・右衛門の志中原明基・左衛門の府生大江経廣・
右衛門の府生紀兼康等、七條河原に行き向かう。平氏の家より彼の頸を渡す。また義
基弟石河判官代義資・神戸先生義廣生虜らるるの間、兄の首を相具し、左の獄舎に遣
わさると。
[玉葉]
伝聞、今日源義基の頸、並びにその弟二人等(生きながらこれを捕り得る。仍って頸
を刎ねざるの前、渡さると)を渡さる。また聞く、関東の反賊等半ばに及び、尾張の
国に越え来り、十郎蔵人義俊を以て大将軍と為すと。その勢幾千万を知らず。官軍度
々の合戦に疲れ、頗る弱気有りと。また左兵衛の督知盛卿、所悩に依って俄に帰洛を
企て、来十二日入洛すべし。その替わり、頭重衡朝臣行き向かうべしと。大将軍の帰
洛、不吉の徴たるの由、天下謳歌すと。尤も然る事なり。
2月10日 丁亥
安房の国洲崎の神領に於いて、在廰等煩いを成すの由、神主等の訴え有り。仍って停
止すべきの由、今日下知せしめ給う所なり。
下す 須宮神官等
早く安房の国須宮をして万雑公事を免除せしむべき事
右件の宮、万雑公事は、先日御奉免しをはんぬ。重ねて神官等訴え申す。事実なら
ば尤も不敵なり。早く免除すべきの状件の如し。仍って在廰等宜しく承知すべし。
違失すること忽れ。
治承五年二月日
2月11日 戊子 天晴 [玉葉]
行隆、鎮西・伊勢等の事を語る。肥後の国菊池郡住人高直、謀叛の聞こえ有り。仍っ
て九国與力し、伐ち奉るべきの由、宣旨を下されをはんぬ。また熊野の悪徒等、伊勢
の国に越え来たり。伊装宮の近辺焼失しをはんぬ。すでに内外宮に及ばんと欲するの
間、和泉の守信兼来逢し、希有に伐ち散らしをはんぬ。少々伐ち取り、その外逃げ脱
すの輩、多く以て海に入ると。この外、関東の事に於いては、委しく聞かず。この間、
伊勢の国を廻る船、須万多渡に着くべし。その後、官軍尾張の国に寄せ攻むべきの由、
聞く所なりと。
2月12日 己丑
左兵衛の督知盛卿・左少将清経朝臣・左馬の頭行盛等、近江の国より上洛す。これ源
武衛従軍等を追討せんが為発向するの処、左武衛所労に依って此の如しと。美濃の国
に於いて討ち取らるる所の源氏、並びに相従うの勇士等の頸、今日入洛す。知盛卿こ
れを相具すか。所謂小河兵衛の尉重清・蓑浦の冠者義明(兵衛の尉義経男)・上田の
太郎重康・冷泉の冠者頼典・葦敷の三郎重義・伊達の冠者家忠・同彦三郎重親・越後
の次郎重家(越後平氏)・同五郎重信(同上)・神地の六郎康信(上田太郎家子)等
なり。
2月15日 壬辰 天晴 [玉葉]
伝聞、鎮西謀叛の輩、日を追って興盛す。太宰府を焼き払いをはんぬと。
2月16日 癸巳 天晴 [玉葉]
伝聞、知盛卿帰洛しをはんぬ。その替わり、重衡朝臣向かうべきの由、その儀有り。
然れどもその儀忽ち変り、鎮西に遣わさるべしと。伝聞、今日賊首(十人)を渡さる。
使の廰請け取ると。
2月17日 甲午 天晴 [玉葉]
伝聞、熊野の法師原、阿波の国を焼き払い、在家の雑物・資材・米穀等の類を追捕す。
一物遺らず捜し取りをはんぬ。また源義俊(為義の子、世十郎蔵人と称す)尾張の国
に居住す。その勢三万余騎。美乃の国に在る官兵等、僅かに七八千騎と。頼朝未だ足
柄関を越えず。先ず義利の勢を以て、四手に分け寄せ攻むべしと。また聞く、鎮西謀
叛の者張本徒党十六人同意すと。
[平家物語]
近江美濃両国の凶徒が首を、七條堀川にて武士の手より、検非違使請取て、大路を渡
し西の獄門にかく。其日午の刻計り、伊豫の国より飛脚来り申けるは、当国の住人河
野介通清、去年の冬より謀叛を起して、当国の道前道後の境なる高直の城に楯籠たり
けるを、備中国の住人、沼賀入道西寂、彼を討たんとて、備後の鞆より十余艘の兵船
をととのへて、通清を攻む。昼夜九日ほど戦ひけれども、勝負をも決せず。
2月18日 乙未
大河戸の太郎廣行・同弟次郎秀行(清久と号す)・同三郎行元(高柳と号す)・四郎
行平(葛渡と号す)、以上四人、日来御気色を蒙る。今日免許有り。廣行は三浦の介
義明が聟として、その好に就いて、義澄預かり守護するの間これを具し参る。武衛簾
中に於いて覧玉いをはんぬ。その面を見るに、皆勇士の相を備うの間、御感に及ぶと。
彼等の父下総権の守重行は、平家に属くの咎に依って、去年伊豆の国蛭島に配流す。
適々更免有り、召し還さるるの処、路次に於いて痢病発動し、遂に亡卒すと。
2月20日 丁酉 天晴 [玉葉]
伝聞、関東の事、宮御坐さずの由を聞く。多く頼朝に乖くの者有り。甚だ物騒。また
その勢数万騎と云うと雖も、全く物要に叶うべからず。尤も嗚呼なりと。
2月21日 戊戌 天晴 [玉葉]
伝聞、坂東の軍陣、太だ以て物騒。泉の冠者(名を知らず)、十郎蔵人義俊を召し具
し降を請い、官軍方に来たるの由風聞す。但し義俊捕わるの條、果たして以て僻事か。
信受せられず。
2月26日 癸卯 天晴 [玉葉]
伝聞、関東の徒党、その勢数万に及ぶ。官兵オウ弱。仍って俄に前の将軍宗盛已下、
一族の武士、大略下向すべし。来月六七日の比と。重衡の鎮西下向停止をはんぬと。
2月27日 甲辰
安田の三郎義定が飛脚、遠江の国より鎌倉に参上す。申して云く、平氏の大将軍中宮
の亮通盛朝臣・左少将維盛朝臣・薩摩の守忠度朝臣等、数千騎を相率い下向す。すで
に尾張の国に至る。重ねて軍士を差し、防戦の儀を構えらるべきかと。
2月28日 乙巳
志太三郎先生義廣、濫悪に常陸の国鹿島社領を掠領するの由、これを聞こし食すに依
って、一向御物忌の沙汰たるべきの由仰せ下さる。散位久経これを奉行すと。今日和
田の小太郎義盛・岡部の次郎忠綱・狩野の五郎親光・宇佐見の三郎祐茂・土屋の次郎
義清等、遠江の国に差し遣わす。平氏等発向するの由、その告げ有るに依ってなり。
[平家物語]
太政入道重病と成給て、六波羅辺騒ぎあへり。様々の祈祷共始められけると聞えしか
ば、さみつる事をとぞ貴賤ささやきつつやきける。病付給へる日よりして、白き水を
だに咽へ入給はず。身の内あつきこと火の燃るがごとく、臥給へる二三間が内へいる
ものは、あつさたへがたければ、近く寄るもの希なり、宣ふことあたあたと計なり。
2月29日 丙午
鎮西に於いて兵革有り。これ肥後の国住人菊池の次郎隆直・豊後の国住人緒方の三郎
惟能等、平家に反くが故なり。隆直に同意するの輩、木原の次郎盛實法師・南郷大宮
司惟安。惟能に相具する者、大野の六郎家基・高田の次郎隆澄等なり。此の外、長野
の太郎・山崎の六郎・同次郎・野中の次郎・合志の太郎、並びに太郎資泰已下六百余
騎の精兵を率い、関を固め海陸の往還を止む。仍って平家方人原田大夫種直、九州の
軍士二千騎を相催し、合戦を遂ぐ。隆直等が郎従多く以て疵を被ると。
[玉葉]
刑部卿頼輔朝臣来たりて云く、豊後の国に下向すべし。これ彼の国の住人等、謀叛を
企て目代を追い出しをはんぬ。凡そ鎮西謀叛に依って、追討使を遣わさるべしと。も
し然れば、当国滅亡すべし。諸身を取るに、任国の外他の計略無し。賊徒と云い、追
討使と云い、旁々以て国中損亡の基なり。仍って国司下向し、住人の梟悪を鎮むべし。
追討使を境内に入れらるべからざるの由、禅門に申せしめ、すでに可許有り。仍って
思い立つ所なりと。(中略)伝聞、尾張の賊徒等、少々美乃の国に越え来たり。阿波
民部重良の徒党を射散らす。相互に疵を被るの者数有り。官軍方、池田の太郎と云う
者有り。件の者を捕り、生きながら持ち去りをはんぬと。この事実事なり。