1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)
 
 

閏2月1日 丁未 天晴 [玉葉]
  夜に入り、有安来たりて云く、禅門の所労、十の九は、その憑み無しと。又云く、筑
  前の国司貞能申し上げて云く、兵粮米すでに尽きをはんぬ。今に於いては計略無しと。
  仍って急ぎ攻めんと為す。前の幕下俄に下向せんと欲するの間、禅門の病に依て後れ
  をはんぬと。
 

閏2月2日 [平家物語]
  其日のくれ程に、入道病に責伏られてたへがたさに、比叡山の千手院の水を取下して、
  石の舟に入て入道彼水に入て冷給へ共、下の水上に涌上り、上の水は下に涌きこぼれ
  けれども、少しも助かり給ふ心もちし給ざりければ、せめての事にや板敷に水を汲流
  して、其上に臥まろびて冷給へども、猶も助かる心地もし給はず。後には帷子を水に
  ひたして、二間を隔てて投げかけしけれども、ほどなくはらはらとなりにけり。かか
  へおさふる人一人もなし、口にてはとかくののしりけれども叶わず。悶絶僻地して、
  七日と申に終にあつさ死に死たまひけり。(略)今年六十四にぞなり給へる。
 

閏2月3日 己酉 天陰 [玉葉]
  美乃に在る追討使等、一切の粮料無きの間、餓死に及ぶべしと。坂東の賊徒、勢日を
  追って万倍すと。大略万事至極の時なり。


閏2月4日 庚戌
  戌の刻、入道相国薨ず(九條河原口盛国が家)。去る月二十五日より病脳すと。遺言
  に云く、三箇日以後に葬りの儀有るべし。遺骨に於いては播磨の国山田法華堂に納め、
  七日毎に形の如く仏事を修すべし。毎日これを修すべからず。また京都に於いて追善
  を成すべからず。子孫偏に東国帰往の計を営むべしてえり。

[玉葉]
  夜に入り伝聞、禅門薨去すと。但し実否知り難し。
 

閏2月5日 辛亥 天晴 [玉葉]
  禅門薨逝、一定なりと。昨日朝、禅門圓實法眼を以て、法皇に奏して云く、愚僧早世
  の後、万事宗盛に仰せ付けをはんぬ。毎事仰せ合わせ、計り行わるべしとてえり。勅
  答詳らかならず。爰に禅門怨みを含むの色有り。行隆を召して云く、天下の事、偏に
  前の幕下の最なり。異論有るべからずと。
 

閏2月7日 癸丑
  武衛御誕生の初め、御乳付けに召さるるの青女(今は尼、摩々と号す)、相模の早河
  庄に住国す。御憐愍の故有るに依って、彼の屋敷田畠相違有るべからざるの由、惣領
  の地頭に仰せ含めらると。

[玉葉]
  綸旨に云く、関東逆乱の間、天下飢饉に依って、御祈り合期せず。また兵粮すでに尽
  きをはんぬ。賊首尾張の国に群集す。猶追討せらるべきか。もしまた宥め行わるの儀
  如何。一同申して云く、先ず院宣を下され、その状の跡に随い、沙汰有るべし。(中
  略)西海謀反の聞こえ有り。また如何。人々申して云く、西海の事、同じく廰の下文
  を下さるべし。使者の事、両様、或いは主典代、若しくは廰官、或いは四位院司と。
  (略)伝聞、幕下返奏して云く、重衡に於いては、来十日一定下り遣わすべきなり。
  然れば、当国の勇士等、頼朝に乖き、重衡に随うべきの由、院宣に載すべきてえり。
 

閏2月10日 丙辰
  前の大将(宗盛卿)の家人大夫判官景高以下千余騎、前の武衛を襲わんが為東国に発
  向すと。
 

閏2月12日 戊午
  伊豫の国の住人河野の四郎・越智の通清平家に反き、軍兵を卒い当国を押領するの由
  その聞こえ有りと。

[玉葉]
  伝聞、関東すでに伐ち入らんと欲し、官軍陣中物騒す。飛脚頻りに到来す。この状に
  申す。重衡明旦馳せ向かうべしと。
 

閏2月15日 辛酉
  院の廰の御下文を東海道の諸国に下さる。蔵人の頭重衡朝臣これを帯し、千余騎の精
  兵を卒い東国に発向す。これ前の武衛を追討せんが為なり。

[玉葉]
  今日、追討使蔵人の頭正四位下平重衡朝臣、院の廰の御下文を相具し、発向する所な
  り。今日宇治に宿す。来十九日、美乃・尾張の境に着くべしと。兵万三千余騎を随う
  と。重喪中陰の内たりと雖も、前の幕下の命に依って、先父の追慕を顧みざらんか。
  重衡武勇の器量に堪たるの故、殊にこの撰に応ずと。
 

閏2月17日 癸亥
  安田の三郎義定、義盛・忠綱・親光・祐茂・義清、並びに遠江の国の住人横地の太郎
  長重・勝間田の平三成長等を相卒い、当国浜松庄橋本の辺に到る。これ前の武衛の仰
  せに依ってなり。この所要害たるの間、平氏の襲来を相待つべきが故なり。

[玉葉]
  伝聞、越後城の太郎助永、宣旨に依ってすでに甲斐・信乃の国に襲来するの由風聞す。
  無実たりと。晩に及び、隆職来たり語りて云く、筑前の前司貞能が郎従、一昨日上洛
  す。私に相触れる事有り来向す。語りて云く、官兵その勢万余騎、尾張の賊徒僅かに
  三千騎ばかり。刹那の間、攻め落とすべし。日来船遅々するの間今に戦わず。五百余
  艘すでに付きをはんぬ。今に於いては、賊徒の敗績、程を経るべからずと。
 

閏2月19日 乙丑
  中宮大夫屬康信が状鎌倉に到着す。一通の記を進す。洛中の巨細を載せる所なり。ま
  た去る四日平相国禅門薨ず。遺骨を送らんが為、播磨の国に下向すでにをはんぬ。世
  上聊か落居せしめば参向すべきの由と。


閏2月20日 丙寅
  武衛の伯父志田三郎先生義廣、骨肉の好を忘れ、忽ち数万騎の逆党を卒い、鎌倉を度
  らんと欲す。縡すでに発覚す。常陸の国を出て下野の国に到ると。平家の軍兵襲来す
  るの由日来風聞するの間、勇士多く以て駿河の国以西の要害等に遣わされをはんぬ。
  彼のこの計会、殊に思し食し煩う。爰に下河邊庄司行平下総の国に在り。小山の小四
  郎朝政下野の国に在り。彼の両人は仰せ遣わされずと雖も、定めて勲功を励まんかの
  由、尤もその武勇を恃み給う。これに依って朝政が弟五郎宗政、並びに同従父兄弟関
  の次郎政平等、合力を成さんが為各々今日下野の国に発向す。而るに政平御前に参り
  身の暇を申し座を起ちをはんぬ。武衛これを覧玉い、政平は貳心有るの由仰せらる。
  果たして道より宗政に相伴わず、閑路を経て義廣が陣に馳せ加うと。

[玉葉]
  行隆また云く、近日、猶南都の僧等、謀反に與力するの由、ほぼその聞こえ有り。こ
  の状如何。余云く、猶この儀有るに於いては、また忽ち何ぞ寛宥の沙汰に及ばんや。
  勿論の事か。但し真偽を尋ね捜し、事実ならば、法に任せ沙汰有るべきかてえり。
 

閏2月21日 丁卯
  今日以後七箇日、鶴岡若宮に御参有るべきの由立願し給う。これ東西の逆徒蜂起の事
  静謐せんが為なり。未明に参り給い、御神楽を行わると。
 

閏2月22日 戊辰 陰晴定まらず [玉葉]
  伝聞、熊野の法師原二千余人、尾張に越えをはんぬ。與力せんが為なりと。
 

閏2月23日 己巳
  義廣三万余騎の軍士を卒い鎌倉方に赴く。先ず足利の又太郎忠綱に相語る。忠綱本よ
  り源家に背くの間、約諾を成す。また小山と足利と、一流の好有りと雖も、一国の両
  虎たるに依って、権威を争うの処、去年夏の比、平相国一族を誅戮すべきの旨、高倉
  宮令旨を諸国に下されをはんぬ。小山則ち承引す。忠綱に語るに、その列に非ず、太
  だ鬱憤を含み平氏に加う。宇治河を渡り、入道三品頼政卿の軍陣を敗り、宮を射奉る
  所なり。異心未だ散ぜず。且つは次いでを以て小山を亡さんが為、この企て有りと。
  次いで義廣與すべきの由を小山の小四郎朝政に相触る。朝政の父政光は、皇居警衛の
  為未だ在京す。郎従悉く以てこれに相従う。仍って無勢たりと雖も、中心の所これ武
  衛に在り。義廣を誅し取るべきの由群議す。老軍等云く、早く與同せしむべきの趣、
  偽って先ず領状せしむの後これを度るべきなりてえり。則ちその旨を示し遣わす。義
  廣喜悦の思いを成し、朝政が館の辺に来臨す。
  これより先朝政本宅を出て、野木宮に引き籠もらしむ。義廣彼の宮の前に到るの時、
  朝政計議を廻して、人をして登々呂木澤・地獄谷等の林の梢に昇らしめ、時の声を造
  らせむ。その声谷に響き、多勢の粧いを為す。義廣周章迷惑するの処、朝政郎従太田
  の冠者・永代の六二郎・和田の次郎・池の二郎・蔭澤の次郎、並びに七郎朝光郎等保
  志秦の三郎等攻戦す。朝政は火威の甲を着し、鹿毛の馬に駕す。時に年二十五、勇力
  太だ盛んにして、四方に懸け、多く凶徒を亡ぼすなり。義廣発つ所の矢朝政に中たる。
  落馬せしむと雖も死悶に及ばず。爰に件の馬主に離れ、登々呂木澤に嘶く。而るに五
  郎宗政(年二十)鎌倉より小山に向かうの処、この馬を見て、合戦すでに敗北し、朝
  政夭亡せしむかの由を存じ、駕を馳せ義廣が陣方に向かう。義廣乳母子多和利山の七
  太鞭を揚げ、その中を隔つ。宗政弓手に逢い、七太を射取りをはんぬ。宗政の小舎人
  童七太が首を取る。その後義廣聊か引退し、陣を野木宮の坤方に張る。朝政・宗政東
  方より襲い攻む。時に暴風巽より起こり、焼け野の塵を揚ぐ。人馬共に眼路を失い、
  横行分散す。多く骸を地獄谷・登々呂木澤に曝す。また下河邊庄司行平・同弟四郎政
  義、古我・高野等の渡を固め、余兵の遁走を討ち止むと。足利の七郎有綱・同嫡男佐
  野の太郎基綱・四男阿曽沼の四郎廣綱・五男木村の五郎信綱、及び大田小権の守行朝
  等、小手差原に陣取り、小堤等の所々に合戦す。この外八田武者所知家・下妻の四郎
  清氏・小野寺の太郎道綱・小栗の十郎重成・宇都宮所信房・鎌田の七郎為成・湊河庄
  司太郎景澄等朝政に加う。蒲の冠者範頼同じく馳せ来たる所なり。
  彼の朝政は、曩祖秀郷朝臣、天慶年中朝敵(平将門)を追討し、両国守を兼任す。従
  四位下に叙せしむ以降、勲功の跡を伝え、久しく当国を護る。門葉の棟梁たるなり。
  今義廣が謀計を聞き、忠を思い命を軽んずるが故、戦場に臨み勝ちに乗るを得るか。
 

閏2月25日 辛未
  足利の又太郎忠綱、義廣に同意せしむと雖も、野木宮の合戦敗北するの後、先非を悔
  い後勘を恥じ、潛かに上野の国山上郷龍奥に籠もる。郎従桐生の六郎ばかりを招き、
  数日蟄居す。遂に桐生の諫めに随い、山陰道を経て西海方に赴くと。これ末代無双の
  勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に
  響くなり。三にその歯一寸なりと。
 

閏2月27日 癸酉
  武衛若宮に奉幣し給う。今日七箇日を満つ所なり。而るに宝前に跪き、三郎先生の蜂
  起如何の由、独り仰せ出さる。時に小山の七郎朝光御劔を持ち御共に候す。この御旨
  を承りて云く、先生すでに朝政が為攻め落とされをはんぬと。武衛面を顧みて曰く、
  少冠の口状は、偏に心の発する所に非ざるなり。尤も神託たるべし。もし思いの如く
  無為に属かしむに於いては、優賞に行わるべしてえり。朝光今年十五歳なり。御奉幣
  の事終わり、還向し給うの処、行平・朝政が使い参着し、義廣逃亡するの由これを申
  す。晩に及び、朝政が使いまた参上し、先生が伴党の頸を相具すの由言上す。仍って
  三浦の介義澄・比企の四郎能員等に仰せ、彼の首を腰越に遣わされこれを梟せらると。
 

閏2月28日 甲戌
  宗政朝政(朝政疵を被るに依って不参)の名代として、一族及び今度合力の輩を相卒
  い、鎌倉に参上す。武衛御対面有り。勲功を感じ仰せらる。宗政・行平以下の一族西
  方に列居す。知家・重成以下また東方に列す。生虜る所の義廣従軍二十九人、或いは
  梟首、或いは行平・有綱等に召し預けらると。次いで常陸・下野・上野の間、三郎先
  生に同意するの輩の所領等悉く以てこれを収公せらる。朝政・朝光等恩賞に預かると。
 

閏2月29日 乙亥 天晴 [玉葉]
  前の右大将宗盛、病気有り。然れども、頗る秘蔵すと。