4月1日 丙午
前の武衛鶴岡に参り給う。而るに廟庭に荊棘有り。瑞籬草露を蔵す。仍って掃除せら
る。大庭の平太景能参上す。終日この沙汰有りと。
4月7日 壬子
御家人等の中、殊に弓箭に達するの者、また御隔心無きの輩を選び、毎夜御寝所の近
辺に候すべきの由定めらると。
江間の四郎 下河邊庄司行平 結城の七郎朝光 和田の次郎義茂
梶原源太景季 宇佐美の平次實政 榛谷の四郎重朝 葛西の三郎清重
三浦の十郎義連 千葉の太郎胤正 八田の太郎知重
4月9日 甲寅 天晴 [玉葉]
或る人云く、坂東の武者、すでに尾張の国に来たると。
4月11日 丙辰 天陰、時々小雨 [玉葉]
坂東の武者等、すでに三河の国に越え来たると。
4月13日 戊午 [吉記]
殿下に参る。信清に付け條々の事を申す。
肥後の国の住人高直追討の由、宣下せらるべき事(院よりこれを仰せらる)。
4月14日 己未 陰晴不定 [吉記]
申の刻左府に詣ず。肥後の国の住人高直追討の事宣下これを申す。早く下知すべきの
由これを示し給う。
治承五年四月十四日 宣旨
肥後の国の住人藤原高直、頃年以来恣に武威を振るい、忽ち皇化に背き、啻に本住
の州縣のみならず、既に傍国の郷土に及ぶ、偏に狼唳の心に任せ、旁々烏合の群を
成す。しかのみならず海路に白波の賊徒を設け、陸地に緑林の党類を結ぶ。庄公を
論ぜず乃貢を奪い取り、蚕害を庶民に致す。蚕食を九国に企て、都府に及ばんと欲
するに依り、府官並びに国々の軍兵等防御せしむの処、度々戦闘するの由、太宰府
頻りに以て言上す。仍って追討使を遣わし征伐せらるべし。その間管内の戮力禁遏
せらるべきの旨、院廰より使を差し下知せられ先にをはんぬ。而るに奸濫いよいよ
増し、寇盗未だ休まずと。叛逆の至り、責めて余り有り。宜しく前の右近衛大将平
朝臣に仰せ、管内諸国の軍兵を催し、彼の高直並びに同意與力の輩を追討せしむべ
し。
蔵人頭左中弁藤原経房(奉る)
4月19日 甲子
腰越浜の辺に於いて、囚人平井の紀六を梟首す。これ北條の三郎主を射る。罪科軽か
らざるの間、日来殊に禁しめ置かるる所なり。
4月20日 乙丑
小山田の三郎重成、聊か御意に背くの間、怖畏を成し籠居す。これ武蔵の国多西郡内
吉富並びに一宮蓮光寺等を以て、所領の内に注し加う。去年東国の御家人本領を安堵
するの時、同じく御下文を賜いをはんぬ。而るに平太弘貞が領所たるの旨申状を捧げ
るの間、糺明するの処相違無し。仍って弘貞に付けらるる所なり。
4月21日 丙寅 天晴 [玉葉]
或る人云く、昨日常陸の国より上洛の下人有り。四十余日、前途を遂げ北陸道を廻り
入洛すと。件の者相語りて云く、秀衡すでに没するの由無実なり。頼朝秀衡の娘を娶
るべきの由、相互に約諾を成すと雖も、未だその事を遂げず。凡そ関東諸国、一人と
して頼朝の旨に乖く者無し。佐竹の一党三千余騎、常陸の国に引き籠もる。その名を
思うに依って、一矢を射るべきの由存ぜしむと。その外、一切異途無しと。禅門逝く
事、第八日風聞しをはんぬ。また同心の助永、共に以て夭亡す。爰に頼朝且雄を称し
て云く、我君に於いて反逆の心無し。君の御敵を伐ち奉るを以て望みと為す。而るに
天罰を遮り蒙りをはんぬ。仏神の加被、偏に我が身に在り。士卒の心、いよいよ相励
むべきのものなりと。茲に因って禅門薨去の後、坂東諸国、いよいよ以て一統しをは
んぬ。上洛の條に於いては、追討使襲来の時、則ち追い帰し、その次いでに伐ち入る
べきの由、支度を成すとてえり。様々の浮説の中、この説頗る指南に備うべきか。
4月22日 丁卯 [玉葉]
伝聞、坂東の武士等、その意各々別と。武蔵の国有勢の輩、多く頼朝に乖きをはんぬ
と。凡そ近日の風聞、朝暮に変有り。
4月26日 辛未 天霽 [吉記]
今日前の大将参院せらる。禅門の事以後初参なり。また頭重衡朝臣始めて参内す。諒
闇の間、重服の人の参内不審の由、先日女房これを示す。
4月30日 乙亥
遠江の国浅羽庄司宗信、安田の三郎義定の訴えに依って、所領を収公せらると雖も、
謝し申すの旨等閑ならざるの間、安田またこれを執り申す。仍って且つは彼の庄の内
柴村、並びに田所職を返し給いをはんぬ。これ子息・郎従数有り。尤も御要人たるべ
きが故と。