1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)
 
 

3月1日 丁丑
  今日武衛御母儀の御忌月たるに依って、土屋の次郎義清が亀谷堂に於いて仏事を修せ
  らる。導師は箱根山の別当行實、請僧は五人、専光房良暹・大夫公承栄・河内公良睿
  ・専性房全淵・浄如房本月等なり。武衛聴聞せしめ給う。御布施は、導師に馬一疋・
  帖絹二疋、請僧口別に白布二端なり。

[玉葉]
  伝聞、秀平頼朝を追討すべきの由、脚力を進す。前の大将に申せしむ。院奏を経ず、
  直に報状を示しをはんぬ。早々攻め落すべきの由なり。但し秀平全く動揺せず。ただ
  詞を以て、此の如く申せしむばかりなりと。官兵等、未だ尾張河を渡らず、水溢に依
  ってなり。来五日合戦すべしと。
 

3月2日 戊寅 陰晴不定 [玉葉]
  伝聞、尾張の武士等、遠江に引退するの由、日来風聞す。極めて実無しと。義俊(十
  郎蔵人)以下数万、皆尾張の国に在り。敢えて動揺無し。官兵明日(三日)寄せ攻む
  べしと。これ実説なり。坂東の賊首、これを以て先と為すと。
 

3月4日 庚辰 天晴 [玉葉]
  伝聞、三日の合戦延引す。来七日と
 

3月6日 壬午
  大中臣能親、伊勢の国より書状を中八維平の許に通す。これ去る正月十九日、熊野山
  湛増の従類と号し、伊雑宮に濫入し、御殿を錐破り、神宝を犯用するの間、一の禰宜
  成長神主の沙汰として、御躰を内宮に遷し奉るの処、同二十六日、件の輩衆また山田
  ・宇治両郷に襲来し、人屋を焼失し、資財を奪い取りをはんぬ。天照大神鎮坐以降千
  百余歳、皇御孫の尊垂跡の後六百余年、未だ此の如き例有らず。当時源家再興の世な
  り。尤も謹慎の儀有るべしてえり。維平この状を覧て、湛増御方に候しこの企て有り。
  殊に驚き聞こし食す。敬神の為御立願有るべきの旨報じ仰せらると。

[玉葉]
  伝聞、東国勢甚だ以て強大、容易に敗散すべからずと。凶党等相議して云く、官兵等、
  併せて尾張の国に入り立つの後、員を尽くし討伐すべきの由と。凡そ官兵の兵粮併し
  ながら尽きをはんぬ。更に以て計略無し。事の成敗、近日見るべしと。宮と称すの人、
  決定伊豆の国に在り、真偽の間、知り難きと雖も、号する所此の如しと。これ等の説、
  皆信じられ難きか。
 

3月7日 癸未
  大夫屬入道状を送り申して云く、去る月七日院の殿上に於いて議定有り。武田の太郎
  信義に仰せ、武衛追討の廰の御下文を下さるべきの由定めらる。また諸国の源氏、平
  均に追伐せらるべきの條その実無し。限る所武衛ばかりなり。風聞の趣此の如してえ
  り。これに依って武田に於いては御隔心無きに非ず。子細を信義に尋ねらるるの処、
  駿河の国より今日参着す。身に於いて全く追討使の事を奉らず。縦え仰せ下さると雖
  も進奉すべからず。本より異心を存ぜざるの條、去年の度々の功を以て思し食し知り
  給わらんかの由、陳謝再三に及ぶの上、子々孫々に至るまで、御子孫に対し弓を引く
  べからざるの趣、起請文に書き献覧せしむの間、御対面有り。この間猶御用心有るに
  依って、義澄・行平・定綱・盛綱・景時を召し、御座の左右に候せしむと。武田自ら
  腰刀を取り行平に與う。入御の後退出し、これを取り返すと。


3月10日 丙戌
  十郎蔵人行家(武衛叔父)、子息蔵人太郎光家・同次郎・僧義圓(卿公と号す)・泉
  の太郎重光等、尾張・参河両国の勇士を相具し、墨俣河の辺に陣す。平氏の大将軍頭
  の亮重衡朝臣・左少将維盛朝臣・越前の守通盛朝臣・薩摩の守忠度朝臣・参河の守知
  度・讃岐の守左衛門の尉盛綱(高田と号す)・左衛門の尉盛久等、また同河西岸に在
  り。晩に及び侍中計を廻らし、密々平家を襲わんと欲するの処、重衡朝臣の舎人金石
  丸、馬を洗わんが為墨俣に至るの間、東士の形勢を見て、奔り帰りその由を告ぐ。仍
  って侍中未だ出陣せざるの以前、頭の亮の随兵源氏を襲い攻む。縡楚忽に起こり、侍
  中の従軍等頗る度を失う。相戦うと雖も利無し。義圓禅師は盛綱が為討ち取らる。蔵
  人次郎は忠度が為生虜らる。泉の太郎・同弟次郎は盛久に討ち取らる。この外の軍兵、
  或いは河に入り溺れ死に、或いは傷を被り命を殞す。凡そ六百九十余人なり。
 

3月11日 丁亥 雨降る [玉葉]
  経房云く、鴨社の遷宮今年に当たる。而るに神領等、所々領をして押し取らるる事等、
  度々訴え申すと雖も、裁許無きの上、関東の神領等、併せて賊徒の為虜領せられをは
  んぬ。社家の力、造宮に堪ゆるべからず。(中略)大外記頼業来たり、また語りて云
  く、秀衡宣旨の請文を進す。その状に云く、籌策を魚麗の陣に廻らし、賊徒を鳥塞の
  辺に払うと。然れども、専ら信用し難きものかと。
 

3月12日 戊子
  諸国未だ静謐ならず。武衛御怖畏無きに非ず。仍って諸社に御立願有り。今日先ず常
  陸の国塩浜・大窪・世谷等の所々を以て、鹿島社に奉寄せらる。その上御敬神の余り、
  宮中に於いて狼藉を現せしめざらんが為、鹿島の三郎政幹を以て、当社の惣追捕使に
  定補せらると。

[吉記]
  平中納言送書、また所々より告げて云く、去る十日尾張の賊徒等、彼より洲俣を渡り、
  官軍に向き逢い合戦す。渡る者三千余騎、及び千余人打ち取ると。事実ならば、一天
  四海の慶び何事かこれに如かずや。
 

3月13日 己丑
  安田の三郎が使者武藤五、遠江の国より鎌倉に参着す。申して云く、御代官として当
  国を守護せしめ、平氏の襲来を相待つ。就中命を請け橋本に向かい、要害を構えんと
  欲するの間、人夫を召すの処、浅羽庄司宗信・相良の三郎等、事に於いて蔑如を成し
  合力を致さず。剰え義定地下に居るの時、件の両人、乗馬ながらその前を打ち通りを
  はんぬ。これすでに野心を存ずる者なり。随って彼等一族当時多く平家に属く。速や
  かに刑罰を加えらるべきかと。

[玉葉]
  伝聞、去る十日、官兵等墨俣を渡らんと欲するの間、尾張を遮る賊徒等越え来たる。
  五千余騎なり。而るに重衡が舎人男(金石丸。高名の者なりと)これを告ぐ。茲に因
  って相防ぎ、巳の刻より申の刻に至り合戦す。賊党等千余人梟首せらる。その後三百
  余人河水に溺れ亡滅す。大将軍等、多く以て伐ち取りをはんぬ。猶官兵等墨俣河を渡
  り、残賊等を襲うと。これ去る夜、飛脚到来し、称し申すと。十郎蔵人行家(本名義
  俊)疵を被り河に入りをはんぬ。定めて夭亡をはんぬか。然れども、梟首の中に入ら
  ずと。

[吉記]
  美濃合戦の事注文風聞す。実説を知らずと雖もこれを注す。
   三月十日、墨俣河の合戦に於いて、討ち取りし謀反の輩の首目六。
   頭の亮方二百十三人(内生取八人)、越前の守方六十七人、権の亮方七十四人、
   薩摩の守方二十一人、参河の守方八人(内自分有り)、讃岐の守方七人(同)、
    已上三百九十人、内大将軍四人、
   和泉の太郎重満(頭の亮方盛久自分)、同弟高田の太郎(同方盛久郎等分)、
   十郎蔵人息字二郎(薩摩の守分)、同蔵人弟悪禅師(頭の亮方盛綱手)
    この外負手河ニ逃げ入る者三百余人。
 

3月14日 庚寅
  浅羽庄司・相良の三郎等が事、一方の欝陶に就いて罪科に処せられ難きの由、武藤五
  に仰せ含めらるるの処、武藤申して云く、彼等が奇怪を訴えんが為、使者を遣せらる
  の由、国中に披露しをはんぬ。而るに裁許を蒙らずして空しく帰国せしめば、その威
  勢無きが如くか。後日もし虚訴の旨を聞こし食さば、使いを斬罪に行わるべしてえり。
  これに依って彼の領に於いては、義定主領掌すべきの旨御消息有り。但し宗信等後日
  陳謝し、もしその謂われ有らば、還って訴人を罪科に処せらるべきの趣これを載せら
  ると。
 

3月17日 癸巳 朝陰 [玉葉]
  伝聞、秀平頼朝を責めんが為、軍兵二万余騎、白河の関の外に出る。茲に因って、武
  蔵・相模の武勇の輩、頼朝に背きをはんぬ。仍って頼朝安房の国の城に帰住しをはん
  ぬと。また越後城の太郎助永病死しをはんぬと。但しこれ等の事、信を取り難し。
 

3月19日 乙未
  尾張の国の住人大屋の中三安資鎌倉に馳参す。申して云く、去る十日、侍中墨俣河に
  於いて平氏等と合戦し、侍中の従軍悉く以て滅亡す。平家勝ちに乗るの間、その所を
  去り熱田社に籠もられをはんぬ。一陣敗るの上は、重衡朝臣以下定めて近く来たらん
  か。当国の在廰等多く以て平氏に従うの処、安資忠直を抽んず。尤も神妙の旨仰せ含
  めらると。
 

3月26日 壬寅 天晴 [玉葉]
  去る夜半、重衡朝臣入京すと。
 

3月27日 癸卯
  片岡の次郎常春、謀反の聞こえ有るに依って、雑色を彼の領所下総の国に遣わし召さ
  るるの処、領内に乱入すと称し、乃ち御使いを傷つけ面縛すと。仍って罪科重畳の間、
  所帯等を召し放たるの上、早く件の雑色を進すべきの由今日仰せ下さると。
 

3月28日 甲辰 天晴 [玉葉]
  また聞く、坂東の勇士等、すでに参河の国に超え来たり。実説と。官兵等併しながら
  帰洛す。また兵粮無し。その隙を得て襲来すべきか。尤も用心有るべき事か。