1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)
 
 

5月1日 丙子 晴 [玉葉]
  頼朝すでに上洛せんと欲すと。これ武蔵の有勢の輩等、異心有り。凡そ各々一統せざ
  るの間、その勢殊に滅らざるの前、素懐を遂げんが為と。
 

5月8日 癸未
  園城寺の律静房日胤の弟子僧日恵(師公と号す)鎌倉に参着す。彼の日胤は千葉の介
  常胤が子息、前の武衛の御祈祷師なり。仍って去年五月、伊豆の国より遙かに御願書
  を付けらる。日胤これを給い、一千日石清水宮寺に参籠せしめ、無言にして大般若経
  を見読せしむ。六百箇日の夜、眠りの内に、宝殿より金の甲を賜うの由霊夢を感じ、
  潛かに所願成就の思いを成すの処、翌朝高倉宮三井寺に入御するの由を聞き、武衛の
  御願書を日恵に誂え、宮の御方に奔参す。遂に同月二十六日、光明山の鳥居に於いて、
  平氏の為討ち取られをはんぬ。而るに日恵先師の行業を相承り、千日の所願を果たし、
  遺命を守り参向せんと欲するの処、都鄙静まらざるの間、今に延引するの由これを申
  すと。
 

5月13日 戊子
  鶴岡若宮営作の為、材木の事その沙汰有り。土肥の次郎實平・大庭の平太景能等奉行
  たり。当宮は去年仮に建立の号有りと雖も、楚忽の間、先ず松柱・萱軒を用いらるる
  所なり。仍って花構の儀を成し、専ら神威を賁らるべしと。
 

5月16日 辛卯
  村山の七郎源頼直の本知行所、今更相違有るべからざるの由仰せらる。その書き様、
  村山米用、件の所本の如く、村山殿の御沙汰たるべしと。これ武衛の安否未定の時、
  懇志を運し城の四郎等に戦うの功を以て、事に於いて優恕せらると。
 

5月23日 戊戌
  御亭の傍らに、姫君の御方並びに御厩を建てらるべし。且つは土用以前、作事を始め
  られんが為、庄公別納の地を論ぜず、今明日の内工匠を召し進すべきの旨、安房の国
  在廰等の中に仰せ遣わさると。昌寛これを奉行す。
 

5月24日 己亥
  小御所・御厩等の地を曳かる。景能・景時・昌寛等これを奉行す。御家人等面々疋夫
  を召し進す。
 

5月28日 癸卯
  去る夜、安房の国の大工参上す。仍って今日件の屋々立柱・上棟と。