1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)
 
 

11月5日 丁丑
  足利の冠者義兼・九郎義経・土肥の次郎實平・土屋の三郎宗遠・和田の小太郎義盛
  等、維盛朝臣を防禦せんが為、遠江の国に行き向わんと欲するの処、佐々木の源三秀
  義申して云く、件の羽林、当時近江の国に在り。下向その期を知らず。且つは十郎蔵
  人軍陣を尾張の国に張る。先ず相支うべきか。各々楚忽の進発無しと雖も、何事か有
  らんやと。仍ってこれを延引す。
 

11月11日 癸未
  加賀の堅者参着す。これ故入道源三位卿の一族なり。而るに彼の三品禅門の近親埴生
  の彌太郎盛兼、去年の宇治合戦以後、或る所に蟄居す。潛かに関東に参らんと欲する
  の処、五月二十一日、前の右大将(宗盛卿)勇士を遣わし生虜らんと擬すの刻、忽ち
  以て自殺す。件の與力衆と号し、少納言宗綱を搦め取りをはんぬ。親昵たるに依って
  同じく捜し求めらるるの間、度を失い参向すと。
 

11月12日 甲申 天晴 [玉葉]
  伝聞、大将軍方を憚るに依って、年内関東の賊、入洛すべからず。節分以降、左右無
  く入洛すべしと。
 

11月20日 壬辰 天霽 [吉記]
  北陸道追討使中宮の亮通盛朝臣以て帰京すと。
 

11月21日 癸巳
  中宮の亮通盛朝臣・左馬の頭行盛、北国より帰洛す。但馬の守経正朝臣若狭の国に逗
  留すと。
 

11月25日 丁酉 雨下る [玉葉]
  この日、中宮職院号定めなり。左大臣・左大将已下公卿十許輩参陣すと。女院の儀、
  進表に依って、全く別事無し。建禮門院と号し奉ると。
 

11月29日 辛丑
  早河庄所領の乃具は、一向免除せらる所なり。殊なる御憐愍に依ってなり。