12月3日 [平家物語]
皇嘉門女院失させ給ひぬ。御年六十一。是は法性寺禅定殿下の御娘、崇徳院の后。(略)
最期の御あり様目出たく、仏前に霊香有。御善知識には大原来迎院の本成坊湛敬とぞ
聞えし。
12月7日 己酉
御台所御脳。仍って営中上下群集す。
12月11日 癸丑
師公日恵入滅す。日来腹中を煩う。今夜、則ち山内の辺に葬る。武衛御哀傷の余り、
自らその荼毘所に向わしめ給う。これ園城寺の律靜房日胤の門弟、顕密兼学の浄侶な
り。去る五月、先師の旧好を尋ね参向せしむの間、御帰依有りと。
*[方丈記]
又養和のころとか、久しくなりておぼえず、二年が間、世中飢餓してあさましき事侍
りき。或は春夏ひでり、或は秋大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀こ
とごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り冬をさむるそ
めきはなし。是によりて国々の民、或は地をすてて境をいで、或は家を忘れて山にす
む。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしな
し。京のならひ、なにわざにつけても、みな、もとは田舎をこそ頼めるに、絶えて上
るものなければ、さのみやはみさをもつくりあへん。念じわびつヽ、さまざまの財物
かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見たつる人なし。たまたまかふるもの
は、金を軽くし、粟を重くす。乞食路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に満てり。