1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)
 
 

3月5日 乙亥
  山田の太郎重澄、日来朝夕祇候す。殊に慇懃の忠を竭す。仍って今日一村の地頭職を
  賜う。
 

3月9日 己卯
  御台所御着帯なり。千葉の介常胤が妻、殊なる仰せに依って、孫子小太郎胤政を以て
  使いとして御帯を献る。武衛これを結ばしめ給い奉る。丹後の局陪膳に候す。
 

3月12日 壬午 天晴 [玉葉]
  夜に入り人伝えに云く、今日午の刻ばかりに、頭の弁親宗朝臣、院の御使として前の
  幕下の第に向かう。大将人を以て親宗に示して云く、天下の乱、君の御政の不当等、
  偏に汝の所為なり。故禅門は、遺恨有るの時、直にこれを報答す。宗盛に於いては、
  尋常を存じ、万事存ぜざるが如く、知らざるが如し。仍って事に於いて面目を損ず。
  頗る怨み申す所なりと。親宗迷惑す。逐電退出の後門戸を閉めをはんぬと。
 

3月15日 乙酉
  鶴岡の社頭より由比浦に至り、曲横を直して詣往道を造る。これ日来御素願を為すと
  雖も、自然日を渉る。而るに御台所御懐孕の御祈りに依って、故にこの儀を始めらる
  るなり。武衛手づからこれを沙汰せしめ給う。仍って北條殿以下、各々土石を運ばら
  ると。
 

3月17日 丁亥 [吉記]
  近日諸国の庄々兵粮米重ねて苛責有り。使廰の使を付けらるべき由、院宣を下さる。
  行隆朝臣沙汰なり。上下色を失う事か。
 

3月19日 己丑 天晴 [吉記]
  道路に死骸充満するの外他事無し。悲しむべきの世なり。
 

3月20日 庚寅
  太神宮奉幣の御使い帰参す。二宮の一の禰宜各々幣物を領納し、懇祈を抽んずるべき
  の由、内々これを申す。但し状を奉らず。これもし平家の後聞を憚るかの旨、御疑い
  有りと。
 

3月21日 辛卯 天霽 [吉記]
  風聞に云く、筑後の前吏重貞脚力を上ぐ。謀反の源氏等すでに越前の国赴きをはんぬ
  と。肥後の脚力到来す。菊池未だ落とされず。貞能の管国公私物を点定するの外、他
  の営み無しと。訴えるに所無きを謂うか。
 

3月25日 乙未 陰晴不定 [吉記]
  今夜火有り。押小路高倉なり。近日強盗・火事連日連夜の事なり。天下の運すでに尽
  きるか。死骸道路に充満す。悲しむべし。
 

3月30日 庚子 天霽 [吉記]
  肥後の国目代久兼が脚力来たり。追討使貞能すでに国務を押し取り、目代を逐い出し
  をはんぬと。当世の法驚くべからざるか。