1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)
 
 

2月2日 癸卯
  高場の次郎が郎従生澤の五郎、御気色を蒙り小山の小四郎朝政に召し預けらる。これ
  神馬進発の前、殊に労り飼うべきの旨、仰せ含めらるるの処、この男緩怠の事有るが
  故なり。但し生倫神主、此の如き刑罰、神慮に叶うべからざるの由、頻りに傾け申す
  に依って、厚免せらると。
 

2月8日 己酉
  御願書を伊勢太神宮に奉らる。大夫屬入道善信草案を献ず。これ四海泰平・万民豊楽
  の為なりと。生倫衣冠を着し、営中に参りこれを賜い、則ち進発す。中四郎維重これ
  を相副えらる。長江の太郎義景、神宝奉行として同じく首途す。義景が先祖権五郎景
  政、鄭重の信心を抽んで、去る永久五年十月二十三日、私領相模の国大庭の御厨を以
  て、永く神宮に奉寄するの間、彼の三代の孫尤も神慮に相叶うべきかの由、御沙汰を
  経られ、その撰に応ずと。
  御願書に云く、
   これ歳次治承六年(壬寅)二月八日(己酉)に当たり、吉日良辰を選び定めて、前
   の右兵衛の佐従五位下源朝臣頼朝、礼代の御幣・砂金・神馬等、捧ぜしめ斎持して、
   天照百皇太神の廟前に、恐れても申して申さく。頼朝が遠祖を訪ぬれば、神武天皇
   より初めて、日本の国豊葦原水穂に濫觴せしめて、五十六代に相当たれる清和天皇
   の第三の孫より、武芸に携わりて、国家を護り、衛官に居て朝威を輝かす。爾より
   以来、野心を挿む凶徒を征罰する勲功に依って、恵沢身に余り、武勇世に聞こへ、
   和国無為にし截克の調有りて、星霜三百余歳に覃ぶ処、保元年中より洛陽に兵乱起
   こる。時の人湯王の化を訪わず、鎮護の誓いを存ぜず。犯否を押し混ぜて賞罰を申
   し行ふ間、平治年中に、頼朝咎過無くして罪科に覃ぶ。愁憤を含んで春秋を送る処
   に、前の平大相国驍勇の党を従わしめて、去々年の秋、頼朝を誅せんと擬せし日、
   天運有るに依って、鯨布が鏑を遁れしむる。本より誤らざるが故に、神の冥助なり。
   而るに彼の平大相国、還って頼朝が謀叛の由叡聞を驚かす。即ち奏する事不実なり。
   披陳に便無くして、ただ蒼穹を仰ぐ間に、華夷静かならず。逆濫重畳せり。その中
   に、聖武天皇草創鎮地の後、四百余歳を経たる蓮宮を焚焼せしむ條、蒼生誰か悲歎
   せざるや。凡そ朝務を押し行ない、郡郷を滅亡する。これ量に謀叛に非ざるや。爰
   に平大相国俄に早世せる。神慮不快の由露見なり。但し頼朝殊に恐れる所は、風聞
   の如きは、熊野の衆徒と号して奸濫を巧む類等、去年正月に、皇太神宮の別宮伊雑
   宮に濫入して、御殿を破損し、神宝を犯用す。茲に因って、御躰を皇太神の御所の
   砌り、五十鈴の河上の畔に仮に遷し奉ると。また同月に彼の凶族等、二所太神宮の
   御所近辺の人宅に乱入し、資財を捜し取り、舎宅を焼失する刻、祠官等恐怖を成し
   て宮中に参りて騒動せしむ。この両條、全く頼朝謬らず、神明の照鑑を仰ぐ。方今
   無為無事に参洛を遂げて、朝敵を防いで、世務を元の如く一院に任じ奉りて、兎王
   の慈愍を訪わしめ、神事を在るが如くに崇め奉りて、正法の遺風を継がしむ。縦え
   平家と雖も源氏と雖も、不義をば罰し、忠臣をば賞し賜へ。兼ねては又古今の例を
   訪いて、二宮に新加の御領を申し立て、伊雑宮を造営し、神宝を調進せむと祈請す
   る所なり。抑も東州の御領、元の如く相違有るべかざる由、二宮の注文に任せ、丹
   筆を染めて免じ奉りをはんぬ。これ凡そ訛謬すべからず。皇太神、この状を照納せ
   しめて、上政王より始め、下百司民庶にまで、安穏泰平に恵護を施せしめて、頼朝
   が伴類に到るまで、夜の守りに昼の守りに、護幸へ給へと。恐れて恐れても申して
   申さく。
     治承六年二月八日
                    前の右兵衛の佐従五位下源朝臣頼朝

2月14日 乙卯
  伊東の次郎祐親法師は、去々年已後、三浦の介義澄に召し預けらるる所なり。而るに
  御台所御懐孕の由風聞するの間、義澄便を得て、頻りに御気色を窺うの処、御前に召
  し、直に恩赦有るべきの旨仰せ出さる。義澄この趣を伊東に伝う。伊東参上すべきの
  由を申す。義澄営中に於いて相待つの際、郎従奔り来りて云く、禅門今の恩言を承り、
  更に前勘を恥ると称し、忽ち以て自殺を企つ。只今僅か一瞬の程なりと。義澄奔り至
  ると雖も、すでに取り捨てると。

2月15日 丙辰
  義澄門前に参り、堀の籐次親家を以て祐親法師自殺の由を申す。武衛且つは歎き且つ
  は感じ給う。仍って伊東の九郎(祐親子)を召し、父入道その過これ重しと雖も、猶
  宥めの沙汰有らんと欲するの処、自殺せしめをはんぬ。後悔臍を食らうに益無し。況
  や汝に於いて労り有らんや。尤も抽賞せらるべきの旨仰せらる。九郎申して云く、父
  すでに亡ぶ。後栄その詮無きに似たり。早く身の暇を給うべしと。仍って意ならず誅
  戮を加えらる。世以てこれを美談とせざると云うこと莫し。武衛豆州に御座すの時、
  去る安元元年九月の比、祐親法師武衛を誅し奉らんと欲す。九郎この事を聞き、潛か
  に告げ申すの間、武衛走湯山に逃れ給う。その功を忘れ給わざるの処、孝行の志有っ
  て此の如しと。

2月20日 辛酉 天晴 [玉葉]
  大夫史隆職来たり。語りて云く、東大寺大仏御首の事、土を以て形を造るべしと。用
  途大略知識物を以て成し寄すの由、重源聖人申せしむと。
 

2月22日 癸亥 天晴 [吉記]
  伝聞、五條河原の辺、三十歳ばかりの童死人を食うと。人人を食う、飢饉の至極か。
  定説を知らずと雖も、珍事たるに依って、なまじいにこれを注す。後聞或る説に、そ
  の実事無しと。
 

2月23日 甲子 天晴 [玉葉]
  午の刻、泰親朝臣来たり。去る比、火星歳星を犯す。近日、また金星同星を犯す。共
  に常事なり。但し火星の変、治承三年大乱の時の変なりと。また云く、この間、金星
  昴宿を犯さんと欲す。もし存じの如くこれを犯さば、殊勝大事の変なり。

[平家物語]
  太白昴星を犯す。これ重変なり。天文要録に云く、太白昴星を犯すは、大将軍を国堺
  に失う。また云く、四夷来りて兵起の事在りといへり。
 

2月25日 丙寅 雨降る [吉記]
  平中納言示す、菊池高直亡び落ちをはんぬ。城中□火焼死の由風聞す。後聞、すでに
  これ無実なり。蔵人少輔示し送りて云く、新平中納言北陸道を下向すべし。追討使た
  りと。