1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)
 
 

5月11日 庚辰 雨下る [玉葉]
  伝聞、菊池貞能の許に帰降し来たると。西海安穏。天下の悦びか。
 

5月12日 辛巳
  伏見の冠者藤原廣綱初めて武衛に参る。これ右筆なり。京都に馴れる者御尋ね有るに
  依って、安田の三郎これを挙し申さる。日来遠江の国懸河の辺に住すと。
 

5月16日 乙酉
  日中に及び、老翁一人束帯を正し笏を把り、営中に参入し西廊に候す。童僕二人これ
  に従う。各々浄衣を着し榊の枝を捧ぐ。人これを怪しむ。面々その座に到るの砌、参
  入の故を問うと雖も、更に答えず。前の少将時家問い到るの時、始めて言語を発す。
  直に鎌倉殿に申すべしと。羽林重ねて名字を問うの処、名謁らず。即ちこの趣を披露
  す。武衛簾中よりこれを覧玉う。その躰頗る神と謂うべし。対面すべしと称し、これ
  に相逢わしめ給う。老翁云く、これ豊受太神宮の禰宜為保なり。而るに遠江の国鎌田
  の御厨は、当宮領として、延長年中より以降、為保数代相伝するの処、安田の三郎義
  定これを押領す。子細を通すと雖も、敢えて許容せず。枉げて恩裁を蒙らんと欲すと。
  この次いでを以て、神宮の勝事、古記の所見を引き、委細を述ぶ。武衛御仰信の余り、
  安田に問わるること能わず。直に御下文を賜う。則ち新籐次俊長を以て御使いと為し、
  為保の使を彼の御厨に沙汰し置くべきの由、これを仰せ付けらると。
 

5月19日 戊子
  十郎蔵人行家三河の国に在り。平家を追討せんが為、上洛せしむべきの由内儀す。先
  ず祈請せんが為、当国目代大中臣蔵人以通を相語らい、密かに告文を勒し、幣物等を
  相副え、二所太神宮に奉る。
   送り奉る 御幣物
    美紙十帖 八丈絹二疋
   右送り奉ること件の如し
     治承五年五月十九日      三河御目代大中臣以通
   蔵人殿の仰せに依って、申せしめ候所なり。太神宮御事、本より内心御祈念候の上、
   旁々御夢想候か。仍って思し食す所の御意趣の告文、御幣物・送文等これを献上す。
   この趣を以て御祈念有るべく候なり。仰せの旨此の如し。謹言。
     五月十九日          大中臣以通(奉る)
   内外宮政所大夫殿                  (養和元年の記事か)
 

5月22日 辛卯 天晴 [玉葉」
  蔵人左少弁光長来たり。院の仰せを伝えて云く、疾病に依って改元を行わんと欲す。
  如何。大甞会以前両度その難有るべきや如何。申して云く、改元に依って厄難を払う
  べきは、三四度に及ぶと雖も、憚り有るべからず。沙汰有り。すでにこれを行わる。
 

5月24日 [平家物語]
  臨時に二十二社の奉幣使を立らる。飢饉疾疫に依ってなり。
 

5月25日 甲午
  相模の国金剛寺の住侶等、解状を捧げ、営中に群参す。これ古庄近藤太が非法を訴え
  申す所なり。彼の状御前に召し出さる。相鹿大夫先生これを読み申す。
   金剛寺住僧等解、鎌倉殿の御裁定を申請する事
    殊に慈恩を蒙り、古庄郷司近藤太が致す非例・濫行を停止することを請う、苛法
    堪え難き子細の状
   副え進す所課注文一通
   右住僧等謹んで言上す。倩々当寺の躰たらくを案ずるに、大日如来の変身、不動明
   王の霊地なり。その利生を仰ぐの輩、悪魔怨敵を破り、十善の尊位に趣く者なり。
   爰に住僧聖禅、この山中を切り払い、明王尊像を安置す。無縁の禅徒を招集し、昼
   夜の勤行を勧め、朝には鐘啓を叩き、大主尊閤を奉祈し、夕には羅衾を屈し、国土
   安穏を祈請す。而るに当郷司猥りに一旦の貪利に耽り、永く三宝の冥助を忘れんや。
   この呵責に依って、住僧等各々庵室の樞を閉じ、供養の法器を捨てをはんぬ。寺中
   に耕作の田畠無し。ただ露命を林菓に懸くばかりなり。就中、山狩りの為僧衆を追
   い出すの條、希代の事なり。此の如きの責めに依って、住僧等すでに逃散す。しか
   のみならず、聖禅の精舎を破壊するに於いて、修造の励みを企つと雖も、誰か安堵
   の踵を留めんや。もし御裁許無くば、誰か住僧の浮跡を留めんや。望み請う、早く
   注文の状に任せ、停止せられば、住僧等各々三葉一心の丹誠を凝らし、千秋の御宝
   算を祈り奉るべし。以て解す。
     治承六年五月日        金剛寺住僧等
 

5月26日 乙未
  金剛寺僧徒訴えの事、昨日その沙汰有らんと擬すの処、すでに秉燭に及ぶの上、昌寛
  障りを申して参らざるの間、今日沙汰を経られ、外題を成し下さると。
   申状僧徒等に如くてえり。山寺に公事並びに狩山を課し蚕食に召し仕う事、見苦し
   き事なり。速やかに停止せしむべきの状、仰せの処件の如し。
 

5月27日 丙申
  改元、養和二年を改め、壽永元年と為す。

[玉葉]
  この日改元なり。左大将上卿、公卿七八人ばかり参入す。壽永(俊経卿撰び申すと)
  を用いらる。改元全く物用に叶うべからざる事か。
 

5月29日 戊戌
  十郎蔵人、去る十九日告文等を伊勢太神宮に奉る。彼の禰宜等の返状、今日三河の国
  に到着す。
   今月十九日の告文並びに御消息、同二十二日到来し、子細披見しをはんぬ。抑も去
   年の冬比、関東静かならず。殊に祈請すべきの旨、頻りに綸言を下さるるに依って、
   各々丹誠を凝らすの処、図らざるの外、神主・禰宜等朝家に背き源氏に同意し、彼
   の祈請を致すの由、讒奏出来するの間、度々院宣を下し、真偽を相尋ねらるるに依
   って、誤らざるの状を勒し、請文を進しをはんぬ。而るに今告文を送られ、輙く領
   状すること能わず。この旨を以て奏聞を経るべきなり。これ後日勅勘の疑い、その
   恐れ有るべきが故なり。神宮の事、偏に神明を仰ぐと雖も、また公家の裁定を蒙ら
   ずんば、沙汰を致さざるの例なり。また東国の中、太神宮御領すでにその数有り。
   神戸と云い御厨と云い、皆勤める所限り有り。厳重に止むこと無し。而るに彼の所
   司・神人等、事を騒動に寄せ、また兵粮米の責め有りと号し、所当の神税上分等、
   難済せしむに依って、先例に任せ、宮使を遣わし催促を加えしむの処、弁済すでに
   少し。対捍甚だ多し。これに因って色々神役闕乏す。各々神人愁吟を抱く。神慮恐
   れ有り。人意休むこと無きの間、今妨げを致すべからざるの由、状に載せらる。そ
   の旨を存ずべく候の状件の如し。
     治承五年五月二十九日     太神宮政所権の神主
  侍中返状を披くの後、神慮不快の由を知り、更に周章せしむ。また山門衆徒を相恃み、
  牒状を延暦寺に送る。これ平家の祈請を忘れ謀り、源氏に合力すべきの由なり。
                             (養和元年の記事か)
 

*[方丈記]
  あくる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、さまざまに跡
  形なし。世人みなけいしぬれば、日を経つヽきはまりゆくさま、少水魚のたとへにか
  なへり。果てには笠うち着、足ひきつヽみ、よろしき姿したるものどもの、ひたすら
  に家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ
  伏しぬ。築地のつら、道のほとりに飢え死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つ
  るわざもしらねば、くさき香世界に充ち満ちて、変りゆくかたち、ありさま、目もあ
  てられぬこと多かり。(中略) 仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつヽ数も知らず
  死ぬる事を悲しみて、その首を見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわ
  ざをなんせられける。人数を知らむとて、四五両月を数へたりければ、京のうち、一
  条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、す
  べて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬるもの多く、又河原、
  白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。