1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)
 
 

6月1日 庚子
  武衛御寵愛の妾女(亀前と号す)を以て、小中太光家が小窪の宅に招請し給う。御中
  通の際、外聞の憚り有るに依って、居を遠境に構えらると。且つはこの所御浜出便宜
  の地なりと。この妾、良橋の太郎入道が息女なり。豆州の御旅居より昵近し奉る。顔
  貌の細やかなるのみならず、心操せ殊に柔和なり。去る春の比より御密通、日を追っ
  て御寵甚だしと。
 

6月5日 甲辰
  熊谷の次郎直實は、朝夕恪勤の忠を励むのみならず、去る治承四年佐竹の冠者を追討
  するの時、殊に勲功を施す。その武勇を感ぜしめ給うに依って、武蔵の国の旧領等、
  直光の押領を停止し、領掌すべきの由仰せ下さる。而るに直實、この間在国す。今日
  参上せしめ、件の下文を賜うと。
   下す 武蔵の国大里郡熊谷の次郎平の直實定補する所の所領の事
   右件の所、且つは先祖相伝なり。而るを久下権の守直光押領の事を停止し、直實を
   以て地頭の職として成しをはんぬ。その故何なれば、佐汰毛の四郎、常陸の国奥郡
   花園山に楯籠り、鎌倉より責め御しめ給うの時、その日の御合戦に、直實万人に勝
   れ前懸けし、一陣を懸け壊し、一人当千の高名を顕わす。その勧賞として、件の熊
   谷郷地頭職に成しをはんぬ。子々孫々、永代他の妨げ有るべからず。故に下す。百
   姓等宜しく承知すべし。敢えて遺失すべからず。
     治承六年五月三十日
 

6月7日 丙午
  武衛由比浦に出しめ給う。壮士等各々弓馬の芸を施す。先ず牛追物等有り。下河邊庄
  司(御合手たり)・榛谷の四郎・和田の太郎・同次郎・三浦の十郎・愛甲の三郎射手
  たり。次いで股解沓を以て、長八尺の串に差し、愛甲の三郎を召し射さしめ給う。五
  度これを射る。皆中たらずと云うこと莫し。而るを武衛彼の馬の跡と的下とを打たし
  め給うの処、その中間八杖たるなり。仍ってこの杖数を積もり、これを相廣め馬場を
  定むべきの由仰せ出さる。その後盃酌の儀有り。興宴刻を移す。晩に及び、加藤次景
  廉座席に於いて絶入す。諸人騒ぎ集う。佐々木の三郎盛綱大幕を持ち来たり、景廉に
  纏い懐き持ち退出す。則ち宿所に帰り療養を加う。この事に依って、御酒宴を止め帰
  らしめ給うと。
 

6月8日 丁未
  武衛景廉が車大路の家に渡御す。病痾を訪わしめ給う。今暁より、心神復本の由これ
  を申す。即ち御共に候ぜしめ、小中太が家に参ると。
 

6月20日 己未
  戌の刻、鶴岡の辺光物有り。前浜の辺を指し飛行す。その光数丈に及び、暫く消えず
  と。