1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)
 
 

7月12日 庚辰
  御台所御産気に依って、比企谷殿に渡御す。御輿を用いらる。これ兼日その所を点ぜ
  らると。千葉の小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景季等御共に候す。梶原平三景時、
  御産の間の雑事を奉行すべきの旨、仰せ付けらると。
 

7月14日 壬午
  新田の冠者義重主御気色を蒙る。これ彼の息女は、悪源太殿(武衛舎兄)の後室なり。
  而るに武衛、この間伏見の冠者廣綱を以て、潛かに御艶書を通ぜらると雖も、更に御
  許容の気無きの間、直に父主に仰せらるるの処、義重元より事に於いて思慮を廻らす
  に依って、御台所の御後聞を憚り、俄に以て件の女子を師の六郎に嫁せしむが故なり。
 

7月24日 壬辰 天陰雨下る [玉葉]
  又聞く、東大寺大仏鋳加奉る事、重源聖人の功に依ってすでに成らんと欲す。宋朝の
  鋳師年来この朝に渡る。且つは今年渡りて鎮西に在り。而るに宋朝に帰らんと欲する
  の間、忽ち船破損し前途を遂げず。度々止めをはんぬ。而るの間、この事出来す。件
  の聖人の請いに依って京上す。
 

7月28日 丙申 時々雨降る [吉記]
  伝聞、前の馬の允行光(三條宮侍専一の者なり)・前の瀧口(実名を知らず。馬大夫
  式成男、重衡卿侍)・上野の国住人奈越の太郎家澄等(当時前の大将の許に祇候す)、
  都廬五十人ばかりの者、二十三日出京し坂東に赴く。近江の国高島に於いて成すこと
  無く搦め留めらる。或いはまた逃げ下ると。
 

7月29日 丁酉 天晴 [玉葉]
  早旦、全玄僧正来たり。大将を訪うなり。語りて云く、前の幕下年来召し仕う所の侍
  両三人、引率し東国に逃げ去る。三條宮の子宮を具し奉ると。而るに路頭に於いて、
  皆悉く搦め留められをはんぬと。また或る人云く、讃岐の前司重季北陸道に向かいを
  はんぬ。事もし実ならば、左右に能わざる事なり。