1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)
 
 

8月5日 癸卯
  鶴岡の供僧禅睿訴状を捧げて云く、長日不退の御祈祷、更に怠慢無きの処、恩賜の田
  畠に於いて、平民に准え公事を充て催せらる。愁訴慰め難しと。仍って則ち万雑の公
  事を停止するの由、仰せ下さる。禅睿を御前に召し、直に御下文を賜う。
   下す
    早く若宮の供僧禅睿が在家役並びに自作の麦畠壱町の地子を停止せしむべき事
   右件の人は、若宮の供僧たり。長日の御祈り懈怠無し。而るに在郷住房は土民に准
   えしめ、万雑の公事を懸け煩わしむの條、穏便ならざる事なり。自今以後に於いて
   は、万雑の公事と云い、垣内の畠と云い、早くその煩いを停止せしむべきの状、仰
   せの所件の如し。以て下す。
     治承六年八月五日
 

8月11日 己酉
  晩に及び、御台所御産気有り。武衛渡御す。諸人群集す。またこの御事に依って、在
  国の御家人等近日多く以て参上す。御祈祷の為、奉幣の御使いを伊豆・筥根両所権現
  並びに近国の宮社に立てらる。所謂、
    伊豆山   土肥の彌太郎    筥根    佐野の太郎
    相模一宮  梶原の平次     三浦十二天 佐原の十郎
    武蔵六所宮 葛西の三郎     常陸鹿嶋  小栗の十郎
    上総一宮  小権の介良常    下総香取社 千葉の小太郎
    安房東條寺 三浦の平六     同国洲崎社 安西の三郎


8月12日 庚戌 霽
  酉の刻、御台所男子御平産なり。御験者は専光房阿闍梨良暹・大法師観修、鳴弦役は
  師岡兵衛の尉重経・大庭の平太景義・多々良権の守貞義なり。上総権の介廣常は引目
  役。戌の刻、河越の太郎重頼が妻(比企の尼女)召しに依って参入し、御乳付に候す。
 

8月13日 辛亥
  若公誕生の間、代々の佳例を追い、御家人等に仰せ、御護刀を召さる。所謂、宇都宮
  左衛門の尉朝綱・畠山の次郎重忠・土屋兵衛の尉義清・和田の太郎義盛・梶原平三景
  時・同源太景季・横山の太郎時兼等これを献ず。また御家人等が献ずる所の御馬、二
  百余疋に及ぶ。この龍蹄等を以て、鶴岡宮・当国一宮・大庭寺・三浦十二天・栗浜大
  明神已下の諸社に奉らるなり。父母を兼備するの壮士等、御使いに選定せらると。
 

8月14日 壬子
  若君三夜の儀、小山の四郎朝政これを沙汰すと。
 

8月15日 癸丑
  鶴岡宮の六齋講演を始めらる。
 

8月16日 甲寅
  若君五夜の儀、上総の介廣常が沙汰なり。
 

8月18日 丙辰
  七夜の儀、千葉の介常胤これを沙汰す。常胤子息六人を相具し侍の上に着す。父子白
  の水干袴を装う。胤正が母(秩父大夫重弘女)を以て御前の陪膳と為す。また進物有
  り。嫡男胤正・次男師常御甲を舁く。三男胤盛・四男胤信御馬(鞍を置く)を引く。
  五男胤道御弓箭を持つ。六男胤頼御劔を役す。各々庭上に列す。兄弟皆容儀神妙の壮
  士なり。武衛殊にこれを感ぜしめ給う。諸人また壮観を為す。
 

8月19日 丁巳 天霽 [吉記]
  何ぞ況や追討使下向の者、近江の国の勤めいよいよ叶い難きか。
 

8月20日 戊午
  若君九夜の御儀、外祖これを沙汰せしめ給う。

[吉記]
  風聞に云く、伯耆の国住人成盛(海六と称す。先年基保の為滅亡せらる者なり)と基
  保(小鴨の介と称す)と合戦す。基保追い落とされ、死者幾千を知らず。出雲・石見
  ・備後等の国々與力すと。
 

8月25日 癸亥 雨下る [玉葉]
  伝聞、北陸道の追討使また猶予出来す。毎事ただ支度無きの沙汰か。不便々々。