1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)
 
 

9月15日 癸未
  木曽の冠者義仲主を追討せんが為北陸道に発向する所の平氏の軍兵等、悉く以て京都
  に帰る。すでに寒気に属き、在国難治の由披露を成すと雖も、真実の躰、義仲が武略
  を怖るが故なりと。
 

9月20日 戊子
  中納言法眼圓暁(宮法眼と号す)京都より下向す。これ後三條院の御後、輔仁親王の
  御孫、陸奥の守源朝臣義家が御外孫なり。武衛彼の旧好を尋ねられ、請じ申す所なり。
  則ち営中に参り給う。且つは御産の間御祈りの事を申せらるべき処、宿願を果たさん
  が為、下向の便宜を以て、太神宮に参籠するの間、今に遅々すと。祭主親隆卿、家人
  等をして遼遠の境に送り奉らしむと。

[吉記]
  盛職江州より脚力を上げて云く、北陸の賊徒すでに江州を掠領せんと欲す。若州閑か
  ならずと。
 

9月23日 辛卯
  武衛中納言法眼坊を相催し、鶴岡に参り給う。これ宮寺の別当職を申し付けらるるに
  依ってなり。拝殿に於いてこの芳約有りと。
 

9月25日 癸巳
  土佐の冠者希義は、武衛の弟(母は季範女)なり。去る永暦元年、故左典厩の縁坐に
  依って、当国介良庄に配流するの処、近年武衛東国に於いて義兵を挙げ給うの間、合
  力の疑い有りと称し、希義を誅すべき由、平家下知を加う。仍って故小松内府の家人
  蓮池権の守家綱・平田の太郎俊遠(各々当国住人)、功を顕わさんが為希義を襲わん
  と擬す。希義日来夜須の七郎行宗(土州住人)と約諾の旨有るに依って、介良城を辞
  し、夜須庄に向かう。時に家綱・俊遠等、吾河郡年越山に追い到り、希義を誅しをは
  んぬ。行宗は、また家綱等希義を囲むの由これを聞き及び、相扶けんが為、件の一族
  等馳せ向かうの処、野宮の辺に於いて希義誅せらるの由を聞き、空しく以て帰去す。
  而るに家綱・俊遠等、また行宗を討たんと欲するの間、船を粧い、一族これに相乗り、
  仏崎より海上に浮かび逃亡す。家綱等その船津に馳せ到り、先ず行宗を度らんが為、
  二人の使者を行宗の船に遣わす。談合すべき事有り、来臨すべきの由を称す。行宗家
  綱等が造意を察せしめ、二人の使者の首を斬り、船に棹さし紀伊の国に赴くと。
 

9月26日 甲午
  鶴岡の西麓を点じ、宮寺の別当坊を建てらる。今日即立柱棟上げ。大庭の平太景義こ
  れを奉行す。武衛監臨し給うと。
 

9月28日 丙申
  越後の国城の四郎永用、越後の国小河庄赤谷に於いて城郭を構う。剰え妙見大菩薩を
  崇め奉り、源家を呪詛し奉るの由、その聞こえ有り。