1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)
 
 

10月9日 丙子
  越後の住人城の四郎永用、兄資元(当国守)が跡を相継ぎ、源家を射奉らんと欲す。
  仍って今日、木曽の冠者義仲北陸道の軍士等を引卒し、信濃の国築磨河の辺に於いて
  合戦を遂ぐ。晩来に及び、永用敗走すと。
 

10月17日 甲寅
  御台所並びに若公、御産所より営中に入御す。佐々木の太郎定綱・同次郎経高・同三
  郎盛綱・同四郎高綱等、若公の御輿を舁き奉る。小山の五郎宗政御調度を懸く。同七
  郎朝光御剣を持つ。比企の四郎能員御乳母夫として、御贈物を奉る。この事、若干御
  家人有りと雖も、能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。而るに永暦元
  年豆州に御遠行の時、忠節を存ずる余り、武蔵の国比企郡を以て請け所と為し、夫掃
  部の允を相具す。掃部の允下向し、治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪
  い奉る。今御繁栄の期に当たり、事に於いて彼の奉公に酬いらるるに就いて、件の尼、
  甥能員を以て猶子と為し、挙げ申すに依って此の如しと。
 

*[平家物語]
  南都北嶺の大衆、四国九国の住人、熊野、金峯山の僧徒、伊勢大神宮の神官、宮人に
  至るまで、悉く平家を背きて源氏に心を通はす。四方に宣旨を下し、諸国へ院宣を下
  さるといへども、宣旨も院宣も皆平家の下知とのみ心得ければ、したがひ附もの一人
  もなかりけり。