1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)
 
 

11月10日 丁丑
  この間、御寵女(亀前)伏見の冠者廣綱が飯島の家に住すなり。而るにこの事露見し、
  御台所殊に憤らしめ給う。これ北條殿の室家牧の御方密々にこれを申せしめ給う故な
  り。仍って今日、牧の三郎宗親に仰せ、廣綱が宅を破却し、頗る恥辱に及ぶ。廣綱彼
  の人を相伴い奉り、希有にして遁れ出て、大多和の五郎義久が鎧摺の宅に到ると。
 

11月12日 己卯
  武衛事を御遊興に寄せ、義久が鎧摺の家に渡御す。牧の三郎宗親を召し出し、御共に
  具せらる。彼の所に於いて廣綱を召し、一昨日の勝事を尋ね仰せらる。廣綱具にその
  次第を言上せしむ。仍って宗親を召し決せらるるの処、陳謝舌を巻き、面を泥沙に垂
  る。武衛御欝念の余り、手づから宗親の髪を切らしめ給う。この間仰せ含められて云
  く、御台所の事を重んじ奉るに於いては尤も神妙なり。但し彼の御命に順うと雖も、
  此の如き事は、内々盍ぞ告げ申さざらんや。忽ち以て恥辱を與うの條、所存の企て甚
  だ以て奇怪と。宗親泣いて逃亡す。武衛今夜止宿し給う。
 

11月14日 辛巳
  晩景、武衛鎌倉に還らしめ給う。而るに今晩、北條殿俄に豆州に進発し給う。これ彼
  の欝陶、宗親御勘発の事に依ってなり。武衛この事を聞かしめ給い、太だ御気色有り。
  梶原源太を召し、江間は穏便の存念有り。父縦え不義の恨みを挿み、身の暇を申さず
  下国すと雖も、江間は相従わざるか。鎌倉に在るや否や慥にこれを相尋ぬべしと。片
  時の間に景季帰参し、江間下国せざるの由を申す。仍って重ねて景季を遣わし江間を
  召す。江間殿参り給う。判官代邦通を以て仰せられて云く、宗親奇怪を現すに依って
  勘発を加うの処、北條欝念に任せ下国するの條、殆ど御本意に違う所なり。汝吾が命
  を察し、彼の下向に相従わず。殊に感じ思し食すものなり。定めて子孫の護りたるべ
  きか。今の賞追って彼に仰せらるべしてえり。江間殿是非を申されず。畏り奉るの由
  を啓し、退出し給うと。
 

11月17日 甲申 天晴 [玉葉]
  権右中弁行隆院の御使として来たり云く、太神宮の禰宜等東国に同意するの由風聞有
  るの條、尋ね問わる文書此の如し。罪科有るべきや否や。計らい申すべしてえりと。
  (余申して云く、縦え祭主と雖も、謀叛に同意するの者、爭か沙汰無きや。但し此の
  如き浮説、これ文書の如きは、慥に證拠見えざるか。猶嫌疑の者に尋ねられ、所犯の
  実に随い、沙汰有るべきか。)
 

11月20日 丁亥
  土佐の国住人家綱・俊遠等を征せんが為、伊豆左衛門の尉有綱を彼の国に差し遣わさ
  る。有綱夜須の七郎行宗を以て、国中の仕承と為し、今暁首途す。件の家綱等、土佐
  の冠者を誅す科に依って此の如しと。