11月10日 丁丑
この間、御寵女(亀前)伏見の冠者廣綱が飯島の家に住すなり。而るにこの事露見し、
御台所殊に憤らしめ給う。これ北條殿の室家牧の御方密々にこれを申せしめ給う故な
り。仍って今日、牧の三郎宗親に仰せ、廣綱が宅を破却し、頗る恥辱に及ぶ。廣綱彼
の人を相伴い奉り、希有にして遁れ出て、大多和の五郎義久が鎧摺の宅に到ると。
11月12日 己卯
武衛事を御遊興に寄せ、義久が鎧摺の家に渡御す。牧の三郎宗親を召し出し、御共に
具せらる。彼の所に於いて廣綱を召し、一昨日の勝事を尋ね仰せらる。廣綱具にその
次第を言上せしむ。仍って宗親を召し決せらるるの処、陳謝舌を巻き、面を泥沙に垂
る。武衛御欝念の余り、手づから宗親の髪を切らしめ給う。この間仰せ含められて云
く、御台所の事を重んじ奉るに於いては尤も神妙なり。但し彼の御命に順うと雖も、
此の如き事は、内々盍ぞ告げ申さざらんや。忽ち以て恥辱を與うの條、所存の企て甚
だ以て奇怪と。宗親泣いて逃亡す。武衛今夜止宿し給う。
11月14日 辛巳
晩景、武衛鎌倉に還らしめ給う。而るに今晩、北條殿俄に豆州に進発し給う。これ彼
の欝陶、宗親御勘発の事に依ってなり。武衛この事を聞かしめ給い、太だ御気色有り。
梶原源太を召し、江間は穏便の存念有り。父縦え不義の恨みを挿み、身の暇を申さず
下国すと雖も、江間は相従わざるか。鎌倉に在るや否や慥にこれを相尋ぬべしと。片
時の間に景季帰参し、江間下国せざるの由を申す。仍って重ねて景季を遣わし江間を
召す。江間殿参り給う。判官代邦通を以て仰せられて云く、宗親奇怪を現すに依って
勘発を加うの処、北條欝念に任せ下国するの條、殆ど御本意に違う所なり。汝吾が命
を察し、彼の下向に相従わず。殊に感じ思し食すものなり。定めて子孫の護りたるべ
きか。今の賞追って彼に仰せらるべしてえり。江間殿是非を申されず。畏り奉るの由
を啓し、退出し給うと。
11月17日 甲申 天晴 [玉葉]
権右中弁行隆院の御使として来たり云く、太神宮の禰宜等東国に同意するの由風聞有
るの條、尋ね問わる文書此の如し。罪科有るべきや否や。計らい申すべしてえりと。
(余申して云く、縦え祭主と雖も、謀叛に同意するの者、爭か沙汰無きや。但し此の
如き浮説、これ文書の如きは、慥に證拠見えざるか。猶嫌疑の者に尋ねられ、所犯の
実に随い、沙汰有るべきか。)
11月20日 丁亥
土佐の国住人家綱・俊遠等を征せんが為、伊豆左衛門の尉有綱を彼の国に差し遣わさ
る。有綱夜須の七郎行宗を以て、国中の仕承と為し、今暁首途す。件の家綱等、土佐
の冠者を誅す科に依って此の如しと。