1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)
 
 

12月1日 丁酉
  生倫神主注進し申して云く、二宮の禰宜等、関東に同意し奉るの由、平家の讒奏有り。
  去る月の比、公家の御沙汰に及ぶ。遂に祠官の悩乱たるかと。
 

12月2日 戊戌
  生倫が申状に就いて、御書を太神宮に遣わさる。
   禰宜等頼朝に同心するの由、平家訴え申す事、驚き思い給うものなり。但し神は道
   理を納受す。君も遂に然り御うか。各々危ぶまず、始終祈念し給わば、東国御領等、
   相違有るべからざるの趣、二宮に触れ申さるべきなり。謹言。
     十二月二日
       次郎大夫殿
 

12月7日 癸卯
  夜深人定まる後、武衛鶴岡に御参り、佐々木の三郎・和田の次郎等の外、御共の人無
  し。而るを拝殿に於いて御念誦。宮寺の承仕法師栄光咎め来たりて云く、君の御座に
  着くは誰人ぞや。早く退去すべしと。武衛御感の余り、御前に召し出し、甘縄辺田一
  町を賜う。
 

12月10日 丙午
  御寵女小中太光家が小坪の宅に遷住す。頻りに御台所の御気色を恐れ申さると雖も、
  御寵愛日を追って興盛するの間、なまじいに以て仰せに順うと。
 

12月16日 壬子
  伏見の冠者廣綱遠江の国に配す。これ御台所の御憤りに依ってなり。
 

12月30日 丙辰
  上総の国御家人周西の二郎助忠已下、多く以て本宅を安堵すべきの旨、恩裁を奉ると。