1183年 (壽永二年 癸卯)
 (吾妻鏡に記載無し。平家物語・その他により記す)
 

*[北條九代記]
  壽永二年迄、御下文等に治承七年と載す。養和・壽永の年号を用いられず。
 

1月24日 庚寅 天晴 [玉葉]
  東大寺勧進聖人重源来たり。余相招くに依ってなり。聖人云く、大仏鋳成奉る事、偏
  に唐の鋳師の意巧を以て成就すべしと。来四月の比鋳奉るべしと。件の聖人渡唐三箇
  度、彼の国の風俗委しく見知る所と。仍ってほぼこれを問う。語る所の事、実に希異
  多端のものか。
 

3月25日
  官兵今日門出すと聞ゆ。来る四月十七日に北国へ発向して、木曽義仲を追討の為なり。
 

* 去比より兵衛佐と木曽冠者と不和の事ありて、木曽を討たんとす。その故は、兵衛佐
  は先祖の所なればとて、相模国鎌倉に住す。伯父十郎蔵人行家兵衛佐を頼て、世に有
  ん事有がたし。木曽を頼まんとて、千騎の勢にて信濃へ越にけり、兵衛の佐是を聞い
  て、十郎蔵人がいはんことに附て、木曽は頼朝をせめんと思ふ心附てんず。おそはれ
  ぬ先に急ぎ木曽を討んとぞ思ひける。(中略)木曽越後国へ越て、越後と信濃の境関
  山と云処に陣を取て、厳敷固めて兵衛佐を待懸たり。兵衛佐は武田五郎を先に立て、
  八ヶ国の勢共我劣らじと馳重なりて、十万余騎に成にけり。信濃国佐樟川の端に陣を
  取。(中略)歳十一歳に成清水冠者を呼出して、鎌倉殿の子にせんと乞はるれば遣す
  ぞ。義仲に宮仕と思ひて、鎌倉殿を背べからず。少も命を背くものなれば切られんず
  るぞ、そこを心得てふるまへ。(略)二人の御使(天野籐内遠景・岡崎四郎義實)共
  御曹司を請取てぞ帰りける。