9月3日 乙丑 天陰 [玉葉]
或る人云く、頼朝、去る月二十七日国を出てすでに上洛すと。但し信受せず。義仲偏
に立ち合うべく支度すと。天下今一重暴乱出来すか。凡そ近日の天下武士の外は、一
日存命の計略無し。仍って上下多く片山・田舎等に逃げ去ると。四方皆塞がり(四国
及び山陽道安藝以西・鎮西等、平氏征討以前、通達能わず。北陸・山陰両道、義仲押
領、院分已下宰吏一切吏務能わず。東山・東海両道、頼朝上洛以前また進退能わずと)、
畿内近辺の人領、併せて苅り取られをはんぬ。段歩残らず。また京中の片山、及び神
社・仏寺・人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂げる所の庄公の運
上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪い取りをはんぬ。この難市辺に及び、
昨日買売の便を失うと。天何ぞ無罪の衆生を棄てるや。悲しむべし。此の如きの災難、
法皇嗜慾の乱政、源氏奢逸の悪行に與するより出ず。然る間、社稷を思うの忠臣、俗
塵を遁るの聖人、各々非分の横難に逢う。殆ど成仏の直道を怠る。哀れむべしてえり。
ただ前世の宿業のみ。
9月4日 丙寅 陰晴未定 [玉葉]
前の源中納言雅頼卿来たり。多く以て談説す。去る比、義仲の許に落書有り。即ち義
仲の所行不当非法等、悉く以て注し載す。その次いでに余登用せられず、尤も不便な
り。朝の重器たるの由、具に以てこれを載すと。この事、余辺の事不快ニ存ずるの輩
の所為かと。また語りて云く、頼朝必定上洛すべし。次官親能(廣季男)は頼朝に與
し、甚深の知音、当時同宿す。件の者また源中納言の家人、即ち左少弁兼忠が乳母父
なり。件の男一昨日飛脚を以て示し送りて云く、十日余りの比、必ず上洛すべし。先
ず頼朝の使として、院に申す事有り。親能上洛すべきなり。万事その次いでに申し承
るべしと。
9月5日 丁卯 雨下る [玉葉]
早旦或る人云く、平氏の党類、余勢全く減らず。四国並びに淡路・安藝・周防・長門、
並びに鎮西諸国、一同与力しをはんぬ。旧主崩御の由風聞す。謬説なりと。当時周防
の国に在り。但し国中に皇居に用いるべきの家無し。仍って船に乗り浪上に泛ぶと。
貞能已下、鎮西の武士菊池・原田等皆以て同心す。鎮西すでに内裏を立て、出来るに
随い関中に入るべしと。明年八月京上すべきの由結構すと。これ等皆浮説に非ざるな
り。近日、京中の物取り、今一重倍増す。□塵の物、途中に持ち出すこと能わず。京
中の万人、今に於いては一切存命能わず。義仲院の御領已下併せて押領す。日々倍増
し、凡そ緇素貴賤涙を拭わざるは無し。憑む所ただ頼朝の上洛と。彼の賢愚また暗以
て知り難し。ただ我が朝の滅亡、その時すでに至るか。
9月中旬
その日は蘆屋の津といふ所にとどまり給ふ。都より福原に通ひ給ふ時聞き給し里の名
なれば、いづれの里の名よりもなつかしくて、今さらあはれぞまさりける。きかい高
麗の方へも渡らばやとはおぼせども、浪風心に叶はねば、山鹿の兵籐次秀遠に伴て山
鹿城にぞ籠りたまふ。その後、四国の方へおもむき給ふ。
* 木曽冠者義仲はみやこの守護にて候けるが、みめかたちは清く美男にてありけれども、
起居の振舞のこつなさ、ものなどいひたる詞つづきのかたくななる事、堅固の田舎人
にて浅猿くおかしかりけり。実にも理なりとぞ人々申ける。
9月21日 癸未 [玉葉]
伝聞、義仲一昨日参院す。御前に召され勅に云く、天下静かならず。また平氏放逸し、
毎事不便なりと。義仲申して云く、罷り向かうべくんハ、明日早天向かうべしと。即
ち院手に御劔を取りこれを給う。義仲これを取り退出す。昨日俄に下向すと。
9月23日 乙酉 陰晴不定 [玉葉]
人伝えに云く、行家を追討使に遣わすべきの由、院より再三義仲に仰せらる。義仲左
右を申さず、俄に以て逃げ下る。行家を籠めんが為と。
9月25日 丁亥 雨下る [玉葉]
伝聞、頼朝文覺聖人を以て、義仲等を勘発せしむと。これ追討の懈怠、並びに京中を
損ずるの由と。即ち件の聖人に付け陳じ遣わすと。