1183年 (壽永二年 癸卯)
 (吾妻鏡に記載無し。平家物語・その他により記す)
 

10月1日 壬辰 陰雨下る [玉葉]
  伝聞、先日頼朝の許に遣わす所の院の廰官、この両三日以前に帰参す。巨多の引出物
  を與うと。頼朝折紙に載せ三ヶ條の事を申すと。
 

10月4日 乙未 陰晴不定 [玉葉]
  晩に及び大夫史隆職来たり。密々頼朝進す所の合戦注文、並びに折紙等を持ち来たる。
  院御使の廰官持参する所と。件の折紙先日聞く所に違わず。然れども後代の為これを
  注し置く。
  一 勧賞を神社・仏寺に行わるべき事
   右日本国は神国なり。而るに頃年の間、謀臣の輩、神社の領を立てず。仏寺の領を
   顧みず。押領するの間、遂にその咎に依り、七月二十五日忽ち洛城を出て、処所に
   散亡す。王法を守護するの仏神、冥顕の罸を加え給う所なり。全く頼朝が微力の及
   ぶ所に非ず。然れば殊賞を神社・仏寺に行わるべく候。近年仏聖燈油の用途すでに
   闕き、先跡無きが如し。寺領元の如く本所に付すべきの由、早く宣下せらるべく候、
  一 諸院宮・博陸以下の領、元の如く本所に返し付けらるべき事、
   右王侯・卿相の御領、平家一門数所を押領す。然る間、領家その沙汰を忘れ、堪忍
   に能わず。早く聖日の明詔を降らし、愁雲の余気を払うべし。災を攘い福を招くの
   計、何事かこれに如かずや。頼朝尚彼の領等を領さば、人の歎き平家に相同じ候か。
   宜しく道理に任せ御沙汰有るべしてえり。
  一 奸謀者と雖も、斬罪を寛宥せらるべき事、
   右平家郎従落参の輩、縦え科怠有りと雖も、身命を助けらるべし。所以は何ぞ、頼
   朝勅勘を蒙り事に坐すと雖も、更に露命を全うし、今朝敵を討つ。後代またこの事
   無きや。忽ち斬罪行わるべからず。但し罪の軽重に随い、御沙汰有るべきか。
  以前三ヶ條の事、一心所存此の如し。早くこの趣を以て奏達を計らしめ給うべし。仍
  って大概を注し上啓件の如し。
 

10月7日 戊戌 天晴 [玉葉]
  最勝金剛院領、伊賀の国四ヶ庄皆悉く停廃す。国司山下兵衛の尉義経、院奏を経て停
  廃する所と。仍って泰経卿に付け院奏を経て、今日兼親を以て示し送る所なり。返事
  の如きは、大略勿論の事か。
 

10月8日 己亥 天晴 [玉葉]
  伝聞、一昨日頼朝飛脚を進す。義仲等頼朝を伐つべきの由結構の事欝し申すと。泰経
  卿の許へ札を送ると。また聞く、平氏等鎮西に入らんと欲するの間、猶国人等を恐れ、
  猶周防の国に帰到すと。
 

10月9日 庚子 天晴 [玉葉]
  頼朝使者を進す。忽ち上洛すべからずと。一ハ秀平・隆義等、上洛の跡に入れ替わる
  べし。二ハ数万騎の勢を率い入洛せば、京中堪うべからず。この二故に依って、上洛
  延引すと。凡そ頼朝の体たらく、威勢厳粛・其性強烈・成敗分明・理非断決と。今度
  使者を献じ欝し申す所は、三郎先生義廣(本名義範)の上洛なり。また義仲等平氏を
  遂げず、朝家を乱すこと尤も奇怪なり。而るに忽ち賞を行わるの條太だ謂われ無しと。
  申状等その理有るか。(伝聞、義仲播州を経廻す。もし頼朝上洛せば、北陸方に超ゆ
  べし。もし頼朝忽ち上洛せずんば、平氏を伐つべきの由支度すと。)今日小除目有り
  と。頼朝本位に復すの由仰せ下さると。
 

10月13日 甲辰 天晴 [玉葉]
  この日、大夫史隆職来たり。世上の事等を談る。院の廰官々史生泰貞(先日御使とし
  て頼朝の許に向かう。去る比帰洛す)、重ねて御使として坂東に赴くべしと。件の男
  隆職の許に来たり。頼朝の子細を語ると。又云く、平氏決定西海に入りをはんぬと。
 

10月14日 乙巳 天晴 [玉葉]
  尹明云く、平氏去る八月二十六日鎮西に入りをはんぬ。肥後の国住人菊池、豊後の国
  住人臼杵の御方等未だ帰服せずと。
 

10月17日 戊申 天晴 [玉葉]
  伝聞、義仲随兵の中、少々備前の国に超ゆ。而るに彼の国並びに備中の国人等勢を起
  こし、皆悉く伐ち取りをはんぬ。即ち備前の国を焼き払い帰去しをはんぬと。また聞
  く、義仲無勢と。
 

10月23日 庚寅 天晴 [玉葉]
  或る人云く、義仲ニ上野・信濃を賜うべし。北陸を虜掠すべからざるの由、仰せ遣わ
  されをはんぬ。また頼朝の許ヘモ、件の両国義仲に賜うべし、和平すべきの由仰せら
  れをはんぬと。この事或る下臈の申状に依って、俊尭僧正一昨日参院(御持仏堂時と)
  し、この由を法皇に申す。善と称す。即ち僧正の諫言に従い、忽ちこの綸旨を降さる
  と。この條愚案一切叶うべからず。凡そ国家滅亡の結願、ただこの事に在り。
 

10月24日 乙卯 天陰 [玉葉]
  伝聞、頼朝先日院使(泰貞なり)に付け申せしむ事等、各々許容無し。天下は君の乱
  せしめ給うニコソトテ、攀縁即ちその路を塞ぐ。美乃以東虜掠せんと欲すと。但しこ
  の條実説を知らず。
 

10月28日 己未 天晴 [玉葉]
  伝聞、頼朝去る十九日国を出て、来十一月朔比入京すべし。これ一定の説と。また義
  仲去る二十六日(或いは二十八日、即ち今日なり)国を出て、来月四五日の間に入洛
  すべし。頼朝と雌雄を決せんが為と。
 

* 平家は讃岐国八島にありながら、山陽道をぞ打取ける。木曽左馬頭只今是を聞いて、
  信濃国住人矢田判官代、海野矢平四郎行廣を大将軍として、五百余騎の勢を差遣しけ
  り。平家は讃岐国屋島にあり、源氏は備中国水島がみちにひかへたり。