1183年 (壽永二年 癸卯)
 (吾妻鏡に記載無し。平家物語・その他により記す)
 

閏10月1日
  水島が途に小舟一艘出来、海船釣舟かと見る所に、それにはあらず。平家の牒使の船
  なりけり。源氏の大将軍海野矢平四郎行廣、搦手の大将軍矢田判官、平家の大将軍に
  は本三位の中将重衡、新三位中将資盛、越前三位通盛、からめ手の大将軍には新中将
  知盛、門脇の中納言教盛、次男能登守教経なり。巳の刻より未の下刻に至るまで、隙
  ありとも見えざりけり、然るに源氏終にまけ軍になりて、大将軍矢田判官代も討れに
  けり。討漏されたる源氏の郎等ども、取物もとりあへず、はうはう都へ逃上る。義仲
  是を聞て安からぬ事に思ひて、夜を日についで備中国へはせ下る。
 

閏10月2日 癸亥 天晴 [玉葉]
  申の刻、頭の弁兼光来たり。語りて云く、平氏始め鎮西に入ると雖も、国人必ず始用
  せざるに依って逃げ出て、長門の国に向かうの間、また国中に入れず。仍って四国に
  懸けをはんぬ。貞能ハ出家シテ西国に留まりをはんぬと。この由周防・伊豫両国より
  飛脚を進し申せしむと。また私に義仲使いを兼光の許に送り、その男の説云々の如き
  相違無し。その上申して云く、前の内府の許より使者を義仲の許に送りて云く、今に
  於いては偏に帰降すべし。ただ命を乞わんと欲すと。この上神鏡・劔璽事の障り無し。
  迎え奉られ難き事、第一の大事なり。次第の沙汰また以て説に乖くか。
 

閏10月6日 丁卯 天晴 [玉葉]
  伝聞、頼朝上洛成り難きの間、その実然るべからずと。また義仲今両三日の間に帰洛
  すべし。洛中また滅亡すべしと。
 

閏10月13日 甲戌 天晴 [玉葉]
  晩に及び大夫史隆職来たり。世間の事を談る。平氏讃岐の国に在りと。或る説に、女
  房船主上並びに劔璽を具し奉り、伊豫の国に在りと。但しこの條未だ実説を聞かずと。
  また語りて云く、院御使の廰官泰貞、去る比重ねて頼朝の許に向かいをはんぬ。仰せ
  の趣殊なる事無し。義仲と和平すべきの由なり。抑も、東海・東山・北陸三道の庄園、
  国領本の如く領知すべきの由、宣下せらるべきの旨、頼朝申請す。仍って宣旨を下さ
  るるの処、北陸道ばかり、義仲を恐れるに依って、その宣旨を成されず。頼朝これを
  聞かば、定めて欝を結ばんか。太だ不便の事なりと。この事未だ聞かず、驚奇少なか
  らず。この事隆職不審に耐えず泰経に問うの処、答えて云く、頼朝ハ恐るべきと雖も
  遠境に在り。義仲当時京に在り。当罸恐れ有り。仍って不当と雖も北陸を除かれをは
  んぬの由答えしむと。天子の政、豈以て此の如きや。小人近臣として天下の乱止むべ
  きの期無きか。
 

閏10月14日 乙亥 天晴 [玉葉]
  申の刻ばかりに人告げて云く、平氏の兵強し。前陣の官軍、多く以て敗られをはんぬ。
  仍って播磨より更に義仲備中に赴くの由風聞す。随って又御使を以て上洛を制せられ、
  承りをはんぬる由を申す。而るに忽ち以て上洛するの由、今夕明旦の間、入洛すべき
  の由、昨日夕に飛脚到来す。その後院中の男女、上下周章極まり無し。恰も戦場に交
  わるが如し。その事漏れ聞くの間、京中の人屋、去る夜今朝の間、雑物を東西に運び、
  妻子を辺土に遣わし、万人色を失う。一天の騒動、敢えて云うべからずと。
 

閏10月15日 丙子 夜より甚雨、終日止まず [玉葉]
  今日、義仲入京しをはんぬ。その勢甚だ少なしと。
 

閏10月17日 戊寅 天陰 [玉葉]
  静賢法印密々に告げ送りて云く、昨日義仲参院し申して云く、平氏一旦勝ちに乗ると
  雖も、始終不審に及ぶべからず。鎮西の輩、與力すべからざるの由仰せ遣わしをはん
  ぬ。また山陰道の武士等、併せて備中の国に在り。更に恐るに及ぶべからずと。また
  頼朝弟九郎(実名を知らず)大将軍として、数万の軍兵を卒い上洛を企つの由、承り
  及ぶ所なり。その事を防がんが為急ぎ上洛すべきなり。もし事一定たらば、行き向か
  うべし。不実たらばこの限りに非ず。今両三日の内、その左右を承るべし云々てえり。
  已上義仲が申状なり。只今外聞に及ぶべからず。竊に告げ申す所なりと。平氏不審有
  るべからざるの由申せしむの條、甚だ以て荒涼の事か。或る人云く、頼朝郎従等、多
  く以て秀平の許に向かう。仍って秀平頼朝が士卒異心有るの由を知り、内々飛脚を以
  て義仲に触れ示す。この時東西より頼朝を攻むべきの由なりと。この告げを得て、義
  仲平氏を知らず、迷って帰洛すと。此の如き事実や否や知り難き事か。
 

閏10月18日 己卯 雨晴 [玉葉]
  晩に及び範季来たり、世上の事を談る。この次いでに件の男云く、四方皆塞がり、中
  国の上下併せて餓死すべし。この事一切疑うべからず。西海に於いては、謀叛の地に
  非ずと雖も、平氏四国に在って通せしめざるの間、また同じ事なり。しかのみならず
  義仲の所存、君偏に頼朝を庶幾し、殆ど彼を以て義仲を殺さんと欲せられんかの由、
  僻推成るか。将又告示の人有るか。此の如きの間、法皇を怨み奉り、兼ねて又御逐電
  の事を疑う。これに依って忽ち敗績の官軍を棄て、迷い上洛する所なり。然れども忽
  ち平家を討つ事叶うべからず。平氏猶存せば、西国の運上、また叶うべからず。仍っ
  て且つは平氏を討しめんが為、且つは義仲の意趣を協えんが為、法皇自ら叡慮を起こ
  し、早く西国に赴かしめ御うべきなり。ただ先ず播磨の国に臨幸有るべし。然れば南
  西国等の住人等、皆風に向かい子来すべきなり。その時鎮西等の勢を発し、平氏を誅
  伐しをはんぬるべし。以後還御有るべきなり。この外凡そ他計無しと。(略)然れど
  も未だこの旨天廰に達せずと。余これを案ずるに、立てる所の次第、その理然るべき
  か。但しもし西海に臨幸有らば、偏に義仲等を釣具せられ、頼朝に違背するの由、決
  定存ぜしむか。この天下猶一日と雖も、頼朝執権すべきの運有るかの由、素より愚案
  する所なり。(略)ただ先ず猶平氏を討つべきの由、義仲に仰せられ、別の使者を以
  て、また頼朝の許へ、子細を仰せ遣わさるべきなり。左右無く御下向の條猶王者の翔
  に非ざるか。然れども口外せざるものなり。範季等の議、小人の謀と謂うべし。
 

閏10月20日 辛巳 天晴 [玉葉]
  今日、静賢法印院の御使として義仲の家に向かう。仰せに云く、その心説わざるの由
  聞こし食す。子細如何。身の暇を申さず、俄に関東に下向すべしと。この事等驚き思
  し食す所なりと。申して云く、君を怨み奉る事二ヶ條、その一ハ、頼朝を召し上げら
  るる事、然るべからずの由を申すと雖も、御承引無し。猶以て召し遣わされをはんぬ。
  その二ハ、東海・東山・北陸等の国々下さるる所の宣旨に云く、もしこの宣旨に随わ
  ざるの輩有らば、頼朝の命に随い追討すべしと。この状義仲生涯の遺恨たるなりと。
  また東国下向の條に於いては、頼朝上洛せば、相迎え一矢を射るべきの由素より申す
  所なり。而るにすでに以て数万の精兵を差し、上洛(その身は上らず)を企てしむと。
  仍って相防がんが為下向せんと欲す。更に驚き思し食すべからず。抑も君を具し奉り
  戦場に臨むべきの由、議し申すの旨聞こし食す。返す返す恐れ申すこと極まり無し。
  無実なりと(已上義仲申状)。静賢帰参す。この由を申さんと欲するの処、御行法の
  間に依って申し入れ能わず。然る間、義仲重ねて使者を以て静賢の許に示し送りて云
  く、猶々関東御幸の條、殊に恐れ申す。早く執奏の人に承るべしと。件の事昨日行家
  以下一族の源氏等義仲の宅に会合す。議定の間、法皇を具し奉るべきの由、その議出
  来す。而るに行家・光長等一切然るべからず。もしこの儀を為さば、違背すべきの由
  執論するの間、その事を遂げず。件の子細を以て、行家天廰に密達せしむと。義仲無
  実を申す。定めて以て詐偽か。兼ねて又、義仲殊に申請の事有りと。頼朝を討つべき
  の由、一行の證文を賜い、東国の郎従等に見せんと欲すと。この事すでに大事なり。
  左右に能わずと。また伝聞、平氏の党類、九国を出て四国に向かうの間、甚だオウ弱。
  而るに今度官軍敗績するの間、平氏その衆を得て、勢太だ強盛。今に於いては輙く進
  伐を得るべからずと。而るに義仲等甚だ安平の由を称す。これ又偽言と。天下の滅亡、
  ただ今来月に在るか。
 

閏10月21日 壬午 雨降る [玉葉]
  義仲所望の両條、頼朝を討つべきの由御教書を申し賜う事、並びに宣旨の趣、御定に
  非ずんば、奉行人聊かも勘発有るべきの條、共に以て許さずと。或いは云く、平氏す
  でに備前の国に来たり。凡そ美作以西併せて平氏に靡きをはんぬ。殆ど播磨に及ぶと。
 

閏10月22日 癸未 天晴 [玉葉]
  伝聞、今日義仲参院す。また聞く、頼朝の使い伊勢の国に来たりと雖も、謀叛の儀に
  非ず。先日宣旨に云く、東海・東山道等の庄土、不服の輩有らば、頼朝に触れ沙汰を
  致すべしと。仍ってその宣旨を施行せんが為、且つは国中に仰せ知らしめんが為、使
  者を遣わす所なりと。而るに国民等義仲郎従等の暴虐を悪み、事を頼朝の使いに寄せ、
  鈴鹿山を切り塞ぎ、義仲・行家等の郎従を射ちをはんぬと。これに因って義仲郎従等
  を伊勢の国に遣わしをはんぬ。
 

閏10月23日 甲申 天晴 [玉葉]
  午の刻、静賢法印来たり語りて云く、去る夜義仲参院す。静賢・泰経等を以て伝奏す
  と。その申状に云く、先ず院を取り奉り、北陸に引き籠もるべきの由風聞す。以ての
  外無実、極まり無きの恐れなり。この事、相伴う所の源氏等(行家已下を指す)執奏
  する所か。返す返す恐れ申す。早く證人に承るべきなりと。次いで平氏当時追討使無
  く、尤も不便、三郎先生義廣を以て討たしめんと欲す。また平氏の入洛を恐れるに依
  って、院中の緇素・洛下の貴賤、資財を運び妻子を匿す。太だ穏便ならず。早く御制
  止有るべし。この三ヶ條なりと。仰せに云く、先ず院を取り奉るべきの條、全く源氏
  等の執奏に非ず。只々世間普く申す事に依って聞こし食す所なり。然れども全く御信
  用無きを以て沙汰に及ばずと。次いで義廣追討使の事、仰せ切らると雖も、頼朝殊に
  意趣を存ずるの者か云々てえり。(中略)また聞く、義仲郎従等、多く伊勢の国・美
  濃の国等に遣わしをはんぬ。京中無勢と。平氏再び繁昌すべきの由、衆人の夢想等有
  りと。範季申して云く、昨日義仲に謁す。申状の如きは、謀叛の義無しと。
 

閏10月24日 乙酉 天晴 [玉葉]
  伝聞、義仲重ねて院に申して曰く、義廣を以て平氏を追討すべきの由、申請許さざる
  の條、未だその意を得ず。猶枉げて義廣を遣わさんと欲す。兼ねて又備後の国を彼の
  義廣に賜い、その勢を以て平氏を討つべしと。仰せに云く、全く許さざるの儀に非ず。
  件の男オウ弱の由を聞こし食す。仍って叶うべからざるの由思し食す。左右を仰せら
  れざるなり。而るに猶宜しかるべきの由、計らい申すに於いては、異儀に及ぶべから
  ずと。
 

閏10月25日 丙戌 天晴 [玉葉]
  伝聞、頼朝相模鎌倉の城を起つ。暫く遠江の国に住すべし。これ以て精兵五万騎(北
  陸一万・東山一万・東海二万・南海一万)、義仲等を討つべく、その事を沙汰せしめ
  んが為と。須くその身参洛すべきの処、奥州の秀平また数万の勢を率い、すでに白川
  関を出ると。仍って彼の襲来を疑い中途に逗留す。形勢を伺うべしと。去る五日城に
  赴くと。
 

閏10月26日 丁亥 天晴 [玉葉]
  義仲猶平氏を討つべきの由、院宣有り。なまじいに領状すと。また聞く、義仲興福寺
  の衆徒に触れて云く、頼朝を討たんが為関東に赴くべし。相伴うべしと。衆徒承引せ
  ずと。
 

閏10月27日 戊子 天晴 [玉葉]
  夜に入り或る者(源氏の武者なり。源義兼、石川判官代と号す。故兵衛の尉義時孫、
  判官代義基子なり)来たり云く、平氏を討たんが為、行家来月一日進発すべし。彼に
  伴わんが為明日河内の所領に向かうべしと。その次いでに語りて云く、義仲と行家と
  すでに以て不和なり。果たして以て不快出来すか。返す返す不便と。その不和の由緒
  は、義仲関東に向かうの間、相伴うべきの由行家に触る。行家辞遁するの間、日来頗
  る不快の上、この両三日殊に以て嗷々す。然る間行家来月朔日必定下向す。義仲また
  その功を行家に奪われざらんが為、相具し下向すべきの由風聞すと。また云く、行家
  に於いては、頼朝に立ち合うべからざるの由、内々議せしむと。
 

閏10月28日 己丑 [玉葉]
  伝聞、行家・義仲等征伐の下向、来月一日、御衰日(院)たるに依って延引す。或る
  説二日、或いは八日と。
 

* 北国の秋打入て後は、八幡・加茂の領地をも憚らず、麥田を刈らせて馬に飼ひ、人の
  倉を打あけて物をとる。武士乱入して少しも残す所なし、家々を追捕し、道をすぐる
  者の衣装をはぎ取る。木曽かかる悪事を振舞ける事は、院の北面に候ける壱岐の判官
  知康をば御使にて、狼藉をとどむべきよし仰せ下されければ、院宣をも事ともせず、
  さんざんにふるまふ。後には山々寺々に乱入し、堂塔仏像を破り焼払ければ、早く義
  仲を追討し洛中の盗人をとどむべきよし、知康申ける。