1183年 (壽永二年 癸卯)
 (吾妻鏡に記載無し。平家物語・その他により記す)
 

11月1日 辛卯 天陰 [玉葉]
  この日、義仲・行家等平氏を討たんが為首途すべきと雖も、忽ち以て延引す。院の御
  衰日たるに依ってなりと。来八日進発すべしと。
 

11月2日
  十郎蔵人、三千余騎にて丹波国へかかりて、播磨国へぞ下りける。平家は門脇の中納
  言教盛・本三位中将重衡を大将軍にして、其勢一万余騎、はりまの国室の津につく。
  十郎蔵人三千余騎の勢皆討とめられて、わづかに五十よきになりにけり。播磨の方は
  平家に恐る。都は木曽に恐れて、和泉国へぞ落ちにける。

[玉葉]
  伝聞、頼朝去る月五日鎌倉城を出てすでに京上す。旅館に宿し三ヶ夜に及ぶ。而るに
  頼盛卿行き向かい議定す。粮料蒭等叶うべからざるに依って、忽ち上洛を停止し、本
  城に帰り入りをはんぬ。その替わり九郎御曹司(誰人や、尋ね聞くべし)を出立し、
  すでに上洛せしむと。
 

11月3日 癸巳 天晴 [玉葉]
  伝聞、頼朝の上洛決定延引しをはんぬ。その弟九郎冠者、五千騎の勢を副え上洛せし
  むべしと。然れども猶以て不定と
 

11月4日 甲午 天晴 [玉葉]
  伝聞、頼朝の上洛決定止めをはんぬ。代官入京なり。今朝と。今日布和関に着くと。
  先ず事の由を奏し、御定に随い参洛すべし。義仲・行家等相防ぐに於いては、法に任
  せ合戦すべし。然らずんば過平の事、有るべからざるの由仰せ合わすと。また聞く、
  平氏一定讃岐の国に在りと。

[吉記]
  或る説に云く、平氏讃岐八嶋に在り。九国の輩菊池已下、追討し進せんが為、すでに
  文司関を出をはんぬと。また安藝志芳の脚力到来して云く、平氏十月二十日一定鎮西
  を遂い出されをはんぬ。事すでに必然なり。また出家の人その数有りと。
  東国より上洛の者等その数有り。その説に云く、頼朝鎌倉を立ち、足柄上道に至る。
  その勢騎歩相並び三百万人に及ぶ。その粮料仮令三万石に余るの間、用途相叶うべか
  らざるの由、猶予するの間、院使康貞下り逢う。仍って鎌倉舘に帰りをはんぬ。舎弟
  字九郎冠者、その名義経と。幾ばくの勢も具せず代官として上道す。今明入京すべし。
  院の別進を相具すと。国々庄々に下向するの輩或いはこれを施行し、或いは空しく帰
  洛するなり。叛儀の是非、京上を企つの間、毎事落居せざるの故なり。また秀衡進出
  す。義仲が子冠者逐電の由風聞す。無実と。
 

11月5日 乙未 天晴 [玉葉]
  伝聞、来八日行家鎮西に下向すること一定。義仲下向すべからず。頼朝の軍兵と雌雄
  を決すべしと。
 

11月6日 丙申 天晴 [玉葉]
  或る人云く、頼盛すでに鎌倉に来着す。唐綾の直垂・立烏帽子、侍二人・子息皆悉く
  相具す。各々腰刀劔等を持たずと。頼朝白糸葛の水干・立烏帽子にて対面す。郎従五
  十人ばかり頼朝の後に群居すと。その後頼盛相模の国府に宿す。頼朝城を去る一日の
  行程と。目代を以て後見を為すと。能保悪禅師の家に宿すと。頼朝の居を去る一町ば
  かりと。この事修行者の説たり。雅頼卿注し送る所なり。
 

11月7日 丁酉 天陰 [玉葉]
  伝聞、義仲征伐せらるべきの由に因って、殊に用心欝念の余り、此の如く承り及ぶの
  由、院に申せしむと。仍って院中警固の武士を入れ申されをはんぬと。行家已下、皆
  悉くその宿直に勤仕す。而るに義仲一人、その人数に漏れるの間、殊に奇を成すの上、
  また中言の者有るか。行家明夕必定下向すと。頼朝代官今日江州に着くと。その勢僅
  かに五六百騎と。忽ち合戦の儀を存ぜず、ただ物を院に供さんが為の使と。次官親能
  (廣季子)並びに頼朝弟(九郎)等上洛すと。
 

11月8日 戊戌 天晴 [玉葉]
  今日、備前の守源行家、平氏を追討せんが為進発す。見物の者語りて云く、その勢二
  百七十余騎と。太だ少たり如何。今日義仲すでに打ち立つ。只今乱に逢う事の如し。
  院中已下京都の諸人、毎家鼓騒す。抑も神鏡劔璽、無事迎え取り奉るの條、朝家第一
  の大事なり。仍って余竊にこの趣を以て行家に含めをはんぬ。
 

11月10日 庚子 天陰 [玉葉]
  伝聞、頼朝使供物に於いては江州に着きをはんぬ。九郎猶近江に在ると。澄憲法印を
  以て、御使として義仲の許に遣わす。頼朝使の入京、欝存すべからずの由と。悦ばず
  の色有りと雖も、なまじいに領状するか。勢無きに於いては強ち相防ぐべからざるの
  由、申せしむと。
 

11月12日 壬寅 天晴 [玉葉]
  伝聞、資盛朝臣使を大夫の尉知康の許に送る。君に別れ奉り悲歎限り無し。今一度華
  洛に帰り、再び龍顔を拝さんと欲すと。人々疑う所、若しくは神鏡劔璽を具し奉るか
  と。また聞く、平氏その勢数万に及び、追討忽ち計るべからずと。
 

11月13日 癸卯 雨下る [玉葉]
  季経朝臣来たり語りて云く、院の廰官康貞一昨日上洛すと。閭巷の説に云く、秀平頼
  朝を追討すべきの由院宣有るの旨、義仲秀平の許に示し遣わす。秀平件の證文を以て、
  康貞に付し進覧しをはんぬと。但しこの條定めて浮説かと。今日行家鳥羽を起ちをは
  んぬと。
 

11月15日 乙巳 天晴 [玉葉]
  晩に及び宰相中将来たり、院中の事を語る。武士の守護逐日懈らずと。院中上下、或
  いは受けず、或いは甘心す。両様と。また云く、頼朝代官九郎、入洛すべきや否や、
  頗る予議有り。大略進す所の物並びに使者等帰国すべきの様その沙汰有り。然る間ま
  た儀出来す。澄憲を以て重ねて義仲の許に仰せ遣わさるの処、その勢幾ばくならざれ
  ば、入京を許さるべきの由、なまじいに承伏すと。また云く、只今主典代景能(頼朝
  の許に遣わさる所の御使なり)来入す。この一両日入洛すと。仍って頼朝報奏の趣を
  問うの処、大略御返事を申すに及ばず。専ら悦ばずの色有り。子細に於いては、始め
  の御使(廰官康直)に申しをはんぬ。今の仰せ同前なり。早く帰参すべしと。
 

11月17日 丁未 雨下る [玉葉]
  平旦人告げて云く、院中武士群集す。京中騒動すと。何事を知らず。また人云く、義
  仲院の御所を襲うべきの由院中に風聞す。また院より義仲を討たるべきの由、彼の家
  に伝聞す。両方偽詐を以て告言の者有るか。此の如き浮説に依って彼是鼓動す。
 

11月18日 戊申 天晴 [玉葉]
  世上物騒、逐日倍増す。然る間浮言多く出来す。御所の警固法に過ぐ。義仲また命に
  伏すの意無きに似たり。事すでに大事に及ぶ。仍って昨日主典代景宗を以て御使と為
  す。仰せられて云く、征伐せんが為西国に向かうべきの由、度々仰せ下さる。而るに
  今に下向せず。また頼朝代官を攻むべきの由申せしむと。然らば早く行き向かうべし。
  而るに両方共に首途せず。すでに君に敵せんと欲す。その意趣如何。もし謀叛の儀無
  くば、早く西海に赴くべしてえり。義仲報奏して云く、先ず君に立ち合い奉るべきの
  由、一切存じ知らず。茲に因り度々起請を書き進しをはんぬ。今尋ね下さるるの條、
  生涯の慶びなり。西国に下向するに於いて、頼朝代官数万の勢を引率し、入京すべく
  ば、一矢射るべきの由素より申す所なり。彼入らざれば、早く西国に下向すべしと。
 

11月19日
  義仲既に打立由聞えければ、大将軍知康以下近国の官兵北面の輩、公卿殿上人侍中間
  山法師以下二万余騎とぞ罵りける。木曽河原へ打出るほどこそあれ、鬨をどど作て高
  くをめき、荒くはせて西面の門際へ責寄せたり。官兵さんざんに敗れる。

[玉葉]
  義仲すでに法皇宮を襲わんと欲すと。基輔を以て参院せしめ、子細を尋ねしむ。午の
  刻帰り来たりて云く、すでに参上の由その聞こえ有りと雖も、未だその実無し。凡そ
  院中の勢甚だ少たり。見る者興違の色有りと。光長また来たり。院に奏せんが為退出
  しをはんぬ。然れども義仲の軍兵、すでに三手に分ち必定寄すの風聞、猶信用せざる
  処、事すでに実なり。余の亭大路の頭たるに依って、大将の居所に向かいをはんぬ。
  幾程を経ず黒煙天に見ゆ。これ河原の在家を焼き払うと。また時を作ること両度。時
  に未の刻なり。申の刻に及び官軍悉く敗績す。法皇を取り奉りをはんぬ。義仲士卒等、
  歓喜限り無し。即ち法皇を五條東洞院摂政亭に渡し奉りをはんぬ。武士の外、公卿侍
  臣の矢に中たり死傷の者、十余人と。

[愚管抄]
  法住寺殿へ千騎の内五百余騎なんとぞ云いける程の勢にてはたと寄せてけり。義仲が
  方に三郎先生と云う源氏有りけるも、かく成りにければ皆御方へ参りたりけるが、な
  お義仲に心をあわせて最勝光院の方をかためたりける。山の座主が方に在りけるが内
  より、座主の兵士なにばかりかはあらんを、ひしひしと射ける程に、ほろほろと落ち
  にけり。

[吉記]
  午の刻南方火有り。院の御所辺と。再三進入すと雖も、戦場たるに依って、敢えて以
  て通ぜず。馬を馳せんと雖も、参入すること能わず。日入るに及び、院の御方逃げ落
  としめ給うの由風聞有り。鳴咽の外更に他事を覚えず。後聞、御所の四面皆悉く放火
  す。その煙偏に御所中に充満し、万人迷惑す。義仲軍所々に破り入り、敵対に能わず。
  法皇御輿に駕し、東を指して臨幸す。参会の公卿十余人、或いは鞍馬、或いは匍匐、
  四方に逃走の雲客已下その数を知らず。女房等多く以て裸形。武士伯耆の守光長・同
  子廷尉光経已下合戦す。その外併しながら以て逃げ去る。義仲清隆卿堂の辺に於いて
  追参し、甲冑を脱ぎ参会す。申す旨有り。新御所の辺に於いて御車に駕す。時に公卿
  修理大夫親信卿・殿上人四五輩御供に有り。摂政の五條亭に渡御すと。
 

11月20日 庚戌 天晴 [玉葉]
  伝聞、入道関白去る夜より五條亭に参宿す。義仲迎え寄すと。花山大納言日野方に逃
  げ向かうと。或る人云く、雅賢搦め取られをはんぬ。また資時伐り取られをはんぬと。
  但し一定の説を知らず。後聞、両人共搦め取り武士の許に在ると。
 

11月21日
  辰の刻に木曽六條河原に出で、昨日きる所の頸ども竹に結でかけさせたり。左の一の
  頸には、天台座主明雲大僧正の御頸、右の一には寺の長史圓恵法親王の御頸をぞ懸た
  りける。其外七重八重にかけ並べたる首ども、総じて三百余とぞ人かぞへ申ける。

[吉記]
  今日伯耆の守光長已下の首百余、五條河原に懸く。人以て目すと。義仲検知すと。
 

11月22日 壬子 天晴 [玉葉]
  早旦大夫史隆職告げ送りて云く、権大納言師家内大臣に任じ、摂政たるべきの由仰せ
  下されをはんぬと。伝聞、座主明雲合戦の日、その場に於いて切り殺されをはんぬ。
  また八條圓恵法親王、華山寺の辺に於いて伐ち取られをはんぬ。(中略)抑も今度の
  乱、その詮ただ明雲・圓恵の誅に在り。未だ貴種の高僧此の如き難に遭うを聞かず。
  仏法の為希代の瑕瑾たり。悲しむべし。
 

11月23日 癸丑 天晴 [玉葉]
  伝聞、内大臣解官に非ず借用と。凡そ闕官ハ三なり。所謂死闕・転任・辞退なり。借
  官これを始む。
 

11月27日 丁巳 [玉葉]
  伝聞、平氏室泊に付きをはんぬと。実否を知らず。
 

11月28日
  三條大納言朝方卿以下、文官諸国受領を木曽解官す。平家四十二人をこそ解官したり
  しに、木曽は四十九人を解官す。平家の悪行にはなほこえたりけり。

[玉葉]
  範季・光長等来たり。世上の事等を語る。前摂政家領等、違乱有るべからずの由、義
  仲本所に示すと。然る間新摂政皆悉く下文を成し、八十余所義仲に賜うと。狂乱の世
  なり。

[吉記]
  前の兵衛の尉国尚、備前の守行家の随兵として西国に下向す。途中より書状を送りて
  云く、去る九日、三位中将重衡大将軍として、三百余騎の勢を以て、備前の国東川に
  寄せしむの間、当国検非違使所別当惟資・国武者相共に合戦す。惟資手を負う。武蔵
  の国住人□四郎介並びに子息打ち取られをはんぬ。仍って惟資国府を引き山に入りを
  はんぬの後、惟資西川より千騎ばかりの勢を以て、申の刻ばかりに寄せしむの間、平
  氏の兵勝ちをはんぬ。少々物具を脱ぎ棄つと。件の日暮れをはんぬ。明暁すでに寄せ
  しむの由、国人申せしむと雖も、検非違使所別当即時に寄せしむの間、酉の時ばかり
  に押し寄せ合戦す。平氏方五十四人討ち取られ、源氏方国人雑人二十人ばかり打たれ
  をはんぬてえり。また安藝志芳庄より、脚力到来して云く、平氏の前陣室泊の辺に着
  く。追討使前宿に着き馳すと。
 

11月29日 己未 天晴 [玉葉]
  晩頭、大夫史隆職解官等を注し送る。
  解官
   中納言籐朝方   参議右京大夫同基家 太宰大貳同實清 大蔵卿高階泰経
   参議右大弁平親宗 右中将播磨守源雅賢 右馬頭源資時  肥前守同康綱
   伊豆守同光遠   兵庫頭藤章綱    越中守平親家  出雲守藤朝経
   壱岐守平知親   能登守高階隆経   若狭守源政家  備中守源資定
   左衛門の尉平知康(大夫の尉) この外衛府二十六人と。
 

* かかりしほどに、北面に候ける宮内判官公朝・籐左衛門尉時成、二人よるひる尾張国
  へ馳くだる。その故は兵衛佐の弟蒲冠者範頼・九郎冠者義経、両人熱田大宮司の許に
  おはすとききければ、木曽が僻事したるよしを申さんとなり。(略)九郎義経申され
  けるは、ことの次第分明にうけたまはりぬ、別の使あるべからず、やがて御辺はせく
  だりて、申さるべしと宣ひければ、公朝夜を日に継で鎌倉にはせくだる。
 

* さる程に、東国より兵衛佐の舎弟、蒲の御曹司範頼・九郎御曹司義経を大将軍として、
  数万騎の軍兵差副、都へ上せ、木曽を討つべきの由申のぼせらる。山門にも牒状あり。