1183年 (壽永二年 癸卯)
 (吾妻鏡に記載無し。平家物語・その他により記す)
 

12月1日 辛酉 天晴 [玉葉]
  伝聞、去る二十一日院の北面に候する下臈二人(公友なり)伊勢の国に到り、乱逆の
  次第を頼朝代官(九郎、並びに齋院次官親能等なり)に告示す。即ち飛脚を差し頼朝
  の許に遣わす。彼の帰来を待ち、命に随い入京すべし。当時九郎の勢、僅かに五百騎。
  その外伊勢の国人等多く相従うと。また和泉の守信兼同じく以て合力すと。
 

12月2日 壬戌 天晴 [玉葉]
  伝聞、義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和親を乞うと。また聞
  く、去る二十九日平氏と行家と合戦す。行家軍忽ち以て敗績し、家子多く以て伐ち取
  られをはんぬ。忽ち上洛を企つと。また聞く、多田蔵人大夫行綱城内に引き籠もる。
  義仲の命に従うべからずと。

[吉記]
  一所の御庄々八十五所、義仲これを申し給う。前の摂政御家領(高陽院・京極殿已下
  すでに多し)、元の長者に付けず。所々押し籠め御沙汰有りと。
 

12月3日 癸亥 天晴 [玉葉]
  伝聞、義仲一所を賜い八十六個所を領すと。また新摂政政所始め去る二十八日と。

[吉記]
  平氏一定入洛すべしと。行家去る二十八日合戦の由、世ニ嗷々す。
 

12月4日 甲子 天晴 [玉葉]
  定能卿退出す。院より来たり語りて云く、昨日義仲院に奏して曰く、頼朝代官日来伊
  勢の国に在り。郎従等を遣わし追い落としをはんぬ。その中宗たるの者一人、生きな
  がら搦め取りをはんぬと。また語りて云く、院中の警固、近日日来に陪し、女車に至
  るマテ検知を加うと。
 

12月5日 乙丑 天晴 [玉葉]
  伝聞、平氏猶室に有り。南海・山陽両道大略平氏に同じをはんぬと。また頼朝と平氏
  と同意すべしと。平氏竊に院に奏し可許有りと。また義仲使を差し同意すべきの由を
  平氏に示すと。平氏承引せずと。
 

12月7日 丁卯 天晴 [玉葉]
  範季朝臣来たり、世上の事を語る。平氏一定入洛すべきの由、能圓法眼告げ送ると。
  義仲と和平するや否や。未だ事切れずと。(中略)伝聞、平氏と和平の事、義仲内々
  骨張ると雖も、外相受けざるの由を示すと。晩に及び宰相中将告げ送りて云く、来十
  日義仲法皇を具し奉り、八幡の辺に向かうべし。彼より平氏を討たんが為、西国に赴
  くべしと。凡そ左右に能わざる事か。

[吉記]
  □□(木良先生と号す。参河平氏なり。国平男)入来す。行家に相伴う。平氏を追討
  せんが為下向する者なり。去月二十八日合戦の次第を談る。行家郎従百余人死去す。
  或いは生虜らると。
 

12月8日 戊辰 天晴 [玉葉]
  亥の刻に及び、或る人告げて云く、明日延暦寺を攻むべしと。驚奇極まり無し。凡そ
  日来山門衆徒蜂起す。甚だ以て甘心せられず。世の時として、訴訟も遺恨も有るべき
  事なり。近日の事、ただ知らざるが如く見えざるが如くにて有るべきの処、大衆蜂起
  の條、還って後鑒の恥を為すべき所たるか。当時またこの蜂起に依って、寄せ攻めら
  るべしと。
 

12月9日 己巳 天陰 [玉葉]
  伝聞、昨日左大臣並びに忠親卿参院す。成範卿を以て問わる。左大臣云く、義仲申し
  て云く、西国を討たんが為罷り向かうべきなり。而るに法皇御在京、不審無きに非ず。
  山門騒動の由風聞す。仍って法皇を具し奉り下向を欲すてえり。(中略)忠親卿竊に
  申して云く、平氏と和平の儀義仲に仰せらるべきなりと。然れども件の事、義仲太だ
  請けざるの由外相に表すと。仍って仰せ下さるに及ばずと。(略)今日、山法師白地
  に下京せらる。大衆の蜂起熾盛すと。

[吉記]
  山僧東西の坂に城を構えんと欲す。また近江の通路これを塞ぐ。
 

12月10日
  法皇五條の内裏をいでさせ給て、大膳大夫業忠が六條西洞院へわたされ給にけり、か
  くてその日より歳末の御懺法は始められけり。

[玉葉]
  山門既に城郭を構う。仍って城中に籠もるの條、甚だ穏便ならず。しかのみならず、
  すでに山上を攻むべきの由風聞す。仍って且つハ下京せらるべきの由、余示し送る所
  なり。而るに山門追討の儀、また忽ち然るべからずと。仍って義仲に触れらるるの処、
  案の如く許有り。(中略)この夜臨時の除目を行わる。義仲左馬の頭を辞退す。また
  天台座主(俊尭僧正)を仰せ下さると。

[吉記]
  頼朝を追討すべきの由、宣旨を改め院の廰の御下文を成し下さると。
 

12月12日 壬申 天晴 [玉葉]
  伝聞、山の大衆蜂起す。和平相半ばすと。
 

12月13日
  木曽除目を行ておもふさまに官途も成てけり。

[玉葉]
  伝聞、平氏入洛来二十日と。或いはまた明春と。義仲と和平の事一定すと。
 

12月15日 乙亥 雨降り風寒し [吉記]
  院の廰御下文到来す。鎮守府将軍(秀衡)に仰せらるる状に云く、早く左馬の頭源の
  義仲相共に陸奥・出羽両国の軍兵を率い、前の兵衛の佐頼朝を追討すべしと。加判し
  返し給いをはんぬ。
 

12月20日 庚辰 天霽 [吉記]
  義仲誓状を書き山上に上すの由風聞す。或る者来たり云く、平氏入洛来二十五八日の
  間必然なり。門々戸々営々、或る説義仲と和親す。或いは然らずと。
 

12月22日 [北條九代記]
  上総権の介廣常・同子息能常等誅せらる(遠景・景時等の高名なり)。

**[愚管抄]
  介の八郎廣常と申候し者は、思い廻し候えば、何条朝家の事をのみ見苦しく思うぞ。
  功有る者にて候いしかど、誰かは引き働かさんのと申して、謀叛心の者にて候しかば、
  かかる者を郎従にもちて候はば、頼朝まで冥加候はじと思いて、うしない候にきとこ
  そ申けれ。その介の八郎を梶原景時してうたせたる事、景時がかうみやう云ばかりな
  り。双六うちて、さりげなしにて盤をこへて、やがて頸をかいきりてもちきたりける。
  まことしからぬ程の事也。
 

12月23日 癸未 天陰 [吉記]
  或る人示し送りて云く、平氏を追討せんが為、義仲西海に赴くべし。法皇同じく臨幸
  有るべしと。一昨日この旨を申すと雖も、御承引無し。然れども猶一定の気有り。未
  だ是非を弁ぜず。天下の至極なり。悲しむべし哀れむべし。
 

12月29日 己丑 天晴 [玉葉]
  大夫隆職来たり、世上の事を談る。平氏・義仲和平一定の由、忠清法師を以て説き聞
  かせをはんぬと。