1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)
 
 

1月1日 辛卯 霽
  鶴岡八幡宮御神楽有り。前の武衛御参宮無し。去る冬の廣常の事に依って、営中穢気
  の故なり。籐判官代邦通奉幣の御使いとして、廻廊に着す。別当法眼参会す。法華八
  講を行わると。
 

1月3日 癸巳
  武衛御祈願有るの間、領所を豊受太神宮に奉寄し給う。年来の御祈祷師たるに依って、
  権の禰宜光親神主に付けらると。状に云く、
   奉寄御厨家
     合一処
   在(武蔵の国崎西・足立両郡の内、大河土の御厨てえり)
   右件の地は元相伝の家領なり。而るに平家天下を虜領するの比、神領となる所なり。
   而るに今新たに公私の御祈祷の為、豊受太神宮の御領に奉寄し、長日の御幣・毎年
   の臨時祭等を勤修せしむ所なり。抑も権の神主光親をして天下泰平を祈請せしむの
   処、感応有るに依って、殊に祈祷所として、知行せしむべきなり。但し地頭等に於
   いては、相違有るべからず。仍って後代の為、寄文件の如し。以て解す。
     壽永三年正月日        前の右兵衛の佐源朝臣

[玉葉]
  伝聞、頼朝今日出門す、決定入洛すべしと。虚言か。或る人云く、平氏来八日入洛す
  べしと。この事信用せられざる事か。
 

1月5日 乙未 陰晴不定 [玉葉]
  納言(前の源中納言)を招き入れ、謁談刻を移す。語りて云く、頼朝の軍兵墨俣に在
  り。今月中入洛すべきの由聞く所なり。(中略)また云く、義仲久かるべからず。頼
  朝また然るべし。平氏若しくは運有るか。極めてその所行に依るべしと。
 

1月6日 丙申 天晴風吹く [玉葉]
  或る人云く、坂東の武士すでに墨俣を越え美乃に入りをはんぬ。義仲大いに怖畏を懐
  くと。
 

1月8日 戊戌
  上総の国一宮の神主等申して云く、故介の廣常存日の時、宿願有り。甲一領を当宮の
  宝殿に納め奉ると。武衛仰せ下されて曰く、定めて子細の事有るか。御使いを下され、
  これを召覧すと。仍って今日籐判官代並びに一品房等を遣わさる。御甲二領を進す。
  彼の奉納の甲はすでに神宝たり。左右無く出し給い難きが故、両物を以て一領に取り
  替えるの條、神慮その祟り有るべからざるかの旨仰せらると。
 

1月9日 己亥 [玉葉]
  伝聞、義仲と平氏と和平の事すでに一定す。この事去る年秋の比より連々謳歌す。様
  々の異説有り。忽ち以て一定しをはんぬ。去年月迫の比、義仲一尺の鏡面を鋳て、八
  幡(或る説熊野)の御正体を顕し奉る。裏に起請文(仮名と)を鋳付けこれを遣わす。
  茲に因って和親すと。
 

1月10日 庚子
  伊豫の守義仲征夷大将軍を兼ると。ほぼ先規を勘ずるに、鎮守府の宣下に於いては、
  坂上中興以後藤原範季(安元二年三月)に至り、七十度に及ぶと雖も、征夷使に至り
  ては、僅かに両度たるか。所謂桓武天皇の御宇延暦十六年丁丑十一月五日、按察使兼
  陸奥の守坂上田村麻呂卿を補せらる。朱雀院の御宇天慶三年庚子正月十八日、参議右
  衛門の督藤原忠文朝臣等を補せらるるなり。爾より以降、皇家二十二代、歳暦二百四
  十五年、絶えてこの職を補せざるの処、今例を三輩に始む。希代の朝恩と謂うべきか。

[玉葉]
  夜に入り人告げて云く、明晩、義仲法皇を具し奉り、決定北陸に向かうべし。公卿多
  く相具すべしと。これ浮説に非ずと。
 

1月11日 辛丑 朝間雨下る、午後天晴 [玉葉]
  今暁、義仲の下向忽ち停止す。物の告げ有るに依ってなりと。来十三日平氏入京すべ
  し。院を彼の平氏に預け、義仲近江の国に下向すべしと。
 

1月12日 壬寅 朝間雨下る、晩に及び大風 [玉葉]
  伝聞、平氏この両三日以前使を義仲の許に送りて云く、再三の起請に依って、和平の
  儀を存ずるの処、猶法皇を具し奉り、北陸に向かうべきの由これを聞く。すでに謀叛
  の儀たり。然れば同意の儀用意すべしと。仍って十一日の下向忽ち停止す。今夕明旦
  の間、第一の郎従(字楯と)を遣わすべし。即ち院中守護の兵士等を召し返しをはん
  ぬと。
 

1月13日 癸卯 天晴 [玉葉]
  今日払暁より未の刻に至り、義仲東国に下向の事、有無の間変々七八度、遂に以て下
  向せず。これ近江に遣わす所の郎従飛脚を以て申して云く、九郎の勢僅かに千余騎と。
  敢えて義仲の勢に敵対すべからず。仍って忽ち御下向有るべからずと。これに因って
  下向延引すと。平氏一定今日入洛すべきの処、然らざるの條三つの由緒有りと。一ハ
  義仲院を具し奉り、北陸に向かうべきの由風聞するの故、二ハ平氏武士を丹波の国に
  遣わし、郎従等を催せしむ。仍って義仲また軍兵を遣わし相防がしむ。然る間、平氏
  和平を一定しをはんぬ。仍って事一定の後、脚力を遣わし引退すべきの由仰せ遣わす
  の処、猶合戦を企て、平氏方郎従十三人の首すでに梟しをはんぬと。茲に因って心を
  置き遅怠す。三ハ行家渡野陪に出逢いテ、一箭射るべきの由を称せしむと。この事に
  因って遅々す。
 

1月14日 甲辰 天晴 [玉葉]
  或る人云く、関東飢饉の間、上洛の勢幾ばくならずと。実否知り難きか。申の刻、人
  伝えて云く、明後日義仲法皇を具し奉り、近江の国に向かうべしと。事すでに一定な
  りと。
 

1月15日 乙巳 天晴 [玉葉]
  隆職来たり語りて云く、義仲征東大将軍たるべきの由、宣旨を下されをはんぬと。
 

1月16日 丙午 雨下る [玉葉]
  去る夜より京中鼓動す。義仲近江の国に遣わす所の郎従等、併せて以て帰洛す。敵勢
  数万に及び、敢えて敵対に及ぶべからざるの故と。今日法皇を具し奉り、義仲勢多に
  向かうべきの由風聞す。その儀忽ち変改す。ただ郎従等を遣わし、元の如く院中を警
  固し祇候すべし。また軍兵を行家の許に分け遣わし追伐すべしと。凡そ去る夜より今
  日未の刻に至るまで、議定変々数十度に及び、掌を反すが如し。京中の周章喩えに取
  るに物無し。然れども晩に及び頗る落居す。関東の武士少々勢多に付くと。
 

1月17日 丁未
  籐判官代邦通・一品房並びに神主兼重等、廣常が甲を相具し、上総の国一宮より鎌倉
  に帰参す。即ち御前に召し彼の甲(小桜皮威)を覧玉う。一封の状を高紐に結い付く。
  武衛自らこれを披かしめ給う。その趣、武衛の御運を祈り奉る所の願書なり。謀曲を
  存ぜざるの條、すでに以て露顕するの間、誅罰を加えらるる事、御後悔に及ぶと雖も、
  今に於いては益無し。須く没後の追福を廻らさる。兼ねて又廣常弟天羽庄司直胤・相
  馬の九郎常清等は、縁坐に依って囚人たるなり。亡者の忠に優じ、厚免せらるべきの
  由、定め仰せらると。願書に云く、
   敬曰
     上総の国一宮宝前
     立て申す所願の事
   一、三箇年の中、神田二十町を寄進すべき事
   一、三箇年の中、式の如く造営を致すべき事
   一、三箇年の中、万度の流鏑馬を射るべき事
   右志は、前の兵衛の佐殿下心中祈願成就・東国泰平の為なり。此の如き願望、一々
   円満せしめば、いよいよ神の威光を崇め奉るべきものなり。仍って立願右の如し。
     治承六年七月日        上総権の介平朝臣廣常
 

1月19日 己酉 [玉葉]
  昨今天下頗るまた物騒す。武士等多く西方に向かう。行家を討たんが為と。或いはま
  た宇治に在り。田原地手を防がんが為と。義廣(三郎先生)大将軍たりと。


1月20日 庚戌
  蒲の冠者範頼・源九郎義経等、武衛の御使として、数万騎を卒い入洛す。これ義仲を
  追討せんが為なり。今日、範頼勢多より参洛す。義経宇治路より入る。木曽、三郎先
  生義廣・今井の四郎兼平已下軍士等を以て、彼の両道に於いて防戦すと雖も、皆以て
  敗北す。蒲の冠者・源九郎、河越の太郎重頼・同小太郎重房・佐々木の四郎高綱・畠
  山の次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原源太景季等を相具す。六條殿に馳参し、仙洞を警
  衛し奉る。この間、一条の次郎忠頼已下の勇士、諸方に競走す。遂に近江の国粟津の
  辺に於いて、相模の国住人石田の次郎をして義仲を誅戮せしむ。その外錦織の判官等
  は逐電すと。
   征夷大将軍従四位下行伊豫の守源朝臣義仲(年三十一)、春宮帯刀長義賢男。
   壽永二年八月十日、左馬の頭兼越後の守に任じ、従五位下に叙す。同十六日、伊豫
   の守に遷任す。十二月十日、左馬の頭を辞す。同十三日、従五位上に叙す。同正五
   位下に叙す。元暦元年正月六日、従四位下に叙す。十日、征夷大将軍に任ず。
   検非違使右衛門権の少尉源朝臣義廣、伊賀の守義経男。壽永二年十二月二十二日、
   右衛門権の少尉(元は無官)に任ず。使の宣旨を蒙る。

[玉葉]
  人告げて云く、東軍すでに勢多に付く。未だ西地に渡らずと。相次いで人云く、田原
  手すでに宇治に着くと。詞未だ訖わらざるに、六條川原武士等馳走すと。仍って人を
  遣わし見せしむるの処、事すでに実なり。義仲方軍兵、昨日より宇治に在り。大将軍
  美乃の守義廣と。而るに件の手敵軍の為打ち敗られをはんぬ。東西南北に散りをはん
  ぬ。即ち東軍等追い来たり、大和大路より入京す(九條川原辺に於いては、一切狼藉
  無し。最も冥加なり)。踵を廻さず六條末に到りをはんぬ。義仲勢元幾ばくならず。
  而るに勢多・田原の二手に分かつ。その上行家を討たんが為また勢を分かつ。独身在
  京するの間この殃に遭う。先ず院中に参り御幸有るべきの由、すでに御輿を寄せんと
  欲するの間、敵軍すでに襲来す。仍って義仲院を棄て奉り、周章対戦するの間、相従
  う所の軍僅かに三四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちをはんぬ。長坂
  方に懸けんと欲す。更に帰り勢多手に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に
  於いて打ち取られをはんぬと。東軍の一番手、九郎の軍兵加千波羅平三と。その後、
  多く以て院の御所の辺に群参すと。法皇及び祇候の輩、虎口を免がれ、実に三宝の冥
  助なり。凡そ日来、義仲が支度京中を焼き払い北陸道に落つべし。而るにまた一家も
  焼かず、一人も損せず、独身梟首せられをはんぬ。天の逆賊を罰す。宜しきかな。義
  仲天下を執るの後、六十日を経る。信頼の前蹤に比べ、猶その晩を思う。
 

1月21日 辛亥
  源九郎義経主、義仲が首を獲るの由奏聞す。今日晩に及び、九郎主木曽が専一の者樋
  口の次郎兼光を搦め進す。これ木曽が使として、石川判官代を征めんが為、日来河内
  の国に在り。而るに石川逃亡するの間、空しく以て帰京す。八幡大渡の辺に於いて、
  主人滅亡の事を聞くと雖も、押し以て入洛するの処、源九郎家人数輩馳せ向かい、相
  戦うの後これを生虜ると。
 

1月22日 壬子
  下総権の守藤原為久、召しに依って京都より参向す。これ豊前の守為遠三男、無双の
  画図の達者なり。

[玉葉]
  風病聊か減有り。仍ってなまじいに参院す。定長を以て尋問せらるる事五箇條、
  一、左右無く平氏を討たるべきの処、三神彼の手に御坐す。この條如何。計り奏すべ
    してえり。兼ねてまた公家の使者を追討使に相副え下し遣わすは如何と。
     申して云く、もし神鏡・劔璽安全の謀り有るべくんば、忽ちの追討然るべから
     ず。別の御使を遣わし、語り誘わるべきか。また頼朝の許へ、同じく御使を遣
     わし、この子細を仰せ合わさるべきか。御使を追討使に副えらるの條、甚だ拠
     所無きか。
  一、義仲が首を渡さるべきや否や如何。
     申して云く、左右共事の妨げを為すべからず。但し理の出る所、尤も渡さるべ
     きか。
  一、頼朝の賞如何。
     申して云く、請いに依るの由仰せらるべきか。然れば又もし恩賞無きの由を存
     ずるか。暗に行われ、その由を仰せらる。何事か有らんや。その官位等の事に
     於いては、愚案の及ぶ所に非ずてえり。
  一、頼朝上洛すべきや否やの事
     申して云く、早く上洛せしむべし。殊に仰せ下さるべし。参否に於いては知ろ
     し食すべからず。早速遣わし召すべきなりてえり。
  一、御所の事如何。
     申して云く、早々他所に渡御有るべし。その所、八條院御所の外、然るべきの
     家無きか。
 

1月23日 癸丑
  常陸の国鹿島社の禰宜等、使者を鎌倉に進す。申して云く、去る十九日、社僧の夢想
  に曰く、当所の神、義仲並びに平家を追討せんが為、京都に赴き御うと。而るに同二
  十日戌の刻、黒雲宝殿を覆い、四方悉く暗に向かうが如し。御殿大震動し、鹿鶏等多
  く以て群集す。頃之彼の黒雲西方に亘り、鶏一羽その雲中に在りと人の目に見ゆ。こ
  れ希代未聞の奇瑞なりてえり。武衛これを聞かしめ給い、則ち御湯殿より庭上に下り、
  彼の社の方を遙拝し給う。いよいよ御欽仰の誠を催すと。件の時刻、京・鎌倉共以て
  雷鳴地震と。
 

1月26日 丙辰 晴
  今朝検非違使等、七條河原に於いて、伊豫の守義仲並びに忠直・兼平・行親等の首を
  請け取り、獄門の前の樹に懸く。また囚人兼光同じくこれを相具し渡されをはんぬ。
  上卿は籐中納言、職事は頭の弁光雅朝臣と。

[玉葉]
  去る夜より閭巷平氏入洛の由を謳歌す。信受せざるの処、果たして以て虚言と。或い
  は云く、猶平氏追討を止めらるの儀、静賢法印を以て御使として、子細を仰せ含めら
  るべしと。この儀愚心庶幾する所なり。これ全く平氏を引級するに非ず。神鏡・劔璽
  の安全を思うに依ってなり。

[平家物語]
  伊豫守義仲が首渡さる。法皇御車を六條東洞院に立て御覧ぜらる。九郎義経六條河原
  にて検非違使の手へ渡す。検非違使是を請取て、東洞院大路を渡して左の獄門の前の
  椋の木にかく。首四あり。伊豫守義仲、郎等には高梨六郎忠直、根井小彌太幸親、今
  井四郎兼平也。樋口次郎兼光は降人也。
 

1月27日 丁巳
  未の刻、遠江の守義定・蒲の冠者範頼・源九郎義経・一條の次郎忠頼等の飛脚、鎌倉
  に参着す。去る二十日合戦を遂げ、義仲並びに伴党を誅するの由これを申す。三人の
  使者、皆召しに依って北面の石壺に参る。巨細を聞こし食すの処、景時が飛脚また参
  着す。これ討ち亡ぼす囚人等の交名注文を持参する所なり。方々の使者参上すと雖も、
  記録すること能わず。景時が思慮猶神妙の由、御感再三に及ぶと。

[玉葉]
  定能卿来たり、世間の事等を語る。その次いでに云く、平氏の事、猶御使を遣わす事
  を止め、偏に征伐せらるべしと。近習の卿相等の和讒か。所謂、朝方・親信・親宗な
  り。小人君に近づき、国家を擾す。誠かなこの言。
 

1月28日 戊午
  小山の四郎朝政・土肥の次郎實平・渋谷庄司重国已下、然るべき御家人等の使者鎌倉
  に参る。各々合戦無為の由を賀し申す所なり。

[玉葉]
  早旦、大夫史隆職使者を進して云く、忽ち追捕せられ、家中恥辱に及ぶ。これをして
  如何。九郎が従類の所為と。人の滅亡を思し召すに依って、使いを九郎の許に遣わし、
  子細を相触る。縦えその身罪科有りと雖も、当時の狼藉を停止すべきの由なり。また
  書札を以て前の源納言の許に示し遣わす。次官親能彼の納言の家に在り。件の男頼朝
  の代官たり。九郎に付き上洛せしむ所なり。仍って万事奉行を為すの者と。これに因
  って触れんが為、件の男彼の納言に示す所なり。九郎の返事に云く、この事、平氏書
  札を京都に上す。件の使者を搦め取らる。各々報礼を持つと。その中にこれ有り。史
  大夫の者召し進すべきの由、左衛門の尉時成の奉行として、院より仰せ下さる。仍っ
  て相尋ねるの間、大夫史の宅に罷り向かう次第不敵。狼藉に於いては、早く止むべし
  と。また納言の返札到来す。親能一切知らざるの由を申すと。
 

1月29日 己未
  関東の両将、平家を征せんが為、軍兵を卒い西国に赴く。悉く今日出京すと。

[玉葉]
  また聞く。西国の事、追討使を遣わさる事一定なり。今日すでに下向(去る二十六日
  出門)すと。その上猶静賢使節を遂ぐべきの由仰せ有り。静賢辞退すと。その故は、
  御使を遣わせらるは、彼の畏懼の心を休ましめ、三神安穏に入洛せんが為なり。而る
  に勇者を遣わし征討するの上、何ぞ尋常の御使に及ぶや。道理叶わず。また使節を遂
  げ難きの故なりと。申す所尤も理有るか。凡そ近日の儀掌を反すが如し。