1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)
 
 

3月1日 庚寅
  武衛御下文を鎮西九国の住人等の中に遣わさる。平家を追討すべきの趣なり。凡そ諸
  国の軍士を召し聚むと雖も、彼の国々平家に與同せしむに依って、未だ帰伏奉らざる
  が故なり。件の御下文に云く、
   下す 鎮西九国の住人等
    早く鎌倉殿の御家人として、且つは本の如く安堵し、且つは各々[彼の国の官兵
    等]を引率し、平家の賊徒を追討すべき事
   右、彼の国の輩皆悉く引率し、朝敵を追討すべきの由、院宣を奉り仰せ下す所なり。
   抑も平家謀叛の間、去年追討使、東海道は遠江の守義定朝臣、北陸道は左馬の頭義
   仲朝臣、鎌倉殿の御代官として、両人上洛するの処なり。兼ねて又義仲朝臣平家と
   和議を為し、謀反の條、不慮の次第なり。仍って院宣の上、私の勘当を加え、彼の
   義仲を追討せしめをはんぬ。然れども平家四国の辺を経廻せしめ、ややもすれば近
   国の津泊に出で浮かび、人民の物を奪い取る。狼唳絶えざるものなり。今に於いて
   は、陸地と云い海上と云い、官兵を遣わし、不日に追討せしむべしてえり。鎮西九
   国の住人等、且つは本の如く安堵し、且つは皆彼の国の官兵等を引率し、宜しく承
   知すべし。不日に勲功の賞を全うす。以て下す。
     壽永三年三月一日       前の右兵衛の佐源頼朝
  次いで四国の輩は、大略以て平家に與力せしむと雖も、土佐の国は、宗たる者その志
  を関東に通じ奉るの間、北條殿の御奉りとして、同じく御書を遣わす。その詞に云く、
   下す 土佐の国大名国信・国元・助光入道等の所
    早く源家有志の輩同心合力し、平家を追討すべき事
   右、当国の大名並びに御方有志の武士、且つは参上を企て、且つは同心合力し、平
   家を追討すべきの旨、宣下を被るの上、鎌倉殿の仰せに依って、下知せしむ所なり。
   就中、当時上洛の御家人信恒下向せしむべし。旧の如く安堵せしめ、狼藉有るべか
   らず。大名・武士同心合力し、見放すべからざるの條件の如し。宜しく承知すべし。
   敢えて違失すること忽れ。以て下す。
     壽永三年三月一日       平

[玉葉]
  定長語りて云く、重衡遣わす所の使者(左衛門の尉重国)帰参す。また消息の返事有
  り。申状大略和親を庶幾するの趣なり。所詮源平相並び召し仕わるべきの由か。この
  條頼朝承諾すべからず。然れば治め難き事なり。但しこの上別の御使来たるの時に於
  いて、子細を奉り、重ねて所存を申すべしと。
 

3月2日 辛卯
  三位中将重衡卿、土肥の次郎實平の許より源九郎主に渡る。實平西海に赴くべきに依
  ってなり。

[平家物語]
  九郎申されけるは、義経が上の山より落さずば、東西の木戸口破れがたし。生捕も死
  捕も義経が見参に入てこそ、とも角もはからふべきに、物の用にも叶ひ給はぬ蒲殿の
  見参に入るこそ心得ね。三位中将是へ渡し給へ。(後略)
 

3月5日 甲午
  去る月摂津の国一谷に於いて、平家を征罰せらるるの日、武蔵の国住人藤田の三郎行
  康先登して討ち死にせしめをはんぬ。仍ってその勲功の賞に募り、彼の遺跡に於いて
  は、子息能国伝領すべきの旨、今日仰せ下さる。御下文に云く、
   件の行康、平家合戦の時、最前に進出し、その身を討ち取られをはんぬ。仍って彼
   の跡の所知所領等、相違無く男小三郎能国知行を相伝せしむべきの由と。
 

3月6日 乙未
  蒲の冠者御気色を蒙る事免許す。日来頻りにこれを愁い申すに依ってなり。
 

3月9日 戊戌
  去る月十八日、宣旨状鎌倉に到着す。これ近日、武士等事を朝敵追討に寄せ、諸国の
  庄園に於いて、乃具を打ち止め、人物を奪い取る。而るに彼の輩関東の威に募るか。
  左右無く罪科に処し難きの由、公家内々その沙汰有りと。武衛これを伝聞せしめ給う
  に依って、下官全く庶民を煩すの計を案ぜず。その事早く糺し行わるべきの由、これ
  を申請せらる。
    壽永三年二月十八日宣旨
   近年以降、武士の輩皇憲を憚らず、恣に私威を輝かし、自由の下知を成す。諸国七
   道を廻り、或いは神社の神税を押し黷し、或いは仏寺の仏聖を奪い取る。況や院宮
   諸司及び人領をや。天の譴遂に露れ、民の憂い空しきこと無し。自今以後、永く停
   止に従い、敢えて更然すること莫れ。前事を存じ、後輩慎むべし。もし由緒有るに
   於いては、散位源朝臣頼朝子細を相訪ね、官に触れ言上せよ。行旨を道ぜず、猶違
   犯せしめば、専ら罪科に処し、曽って寛宥せず。
                蔵人の頭左中弁兼皇后宮の亮藤原朝臣光雅(奉る)
 

3月10日 己亥 晴
  三位中将重衡卿、今日出京し関東に赴く。梶原平三景時これを相具す。これ武衛申請
  せしめ給うに依ってなり。今日因幡の国住人長田兵衛の尉實経(後日廣経に改む)を
  召さる。賜う二品の御書に云く、右の人平家に同心するの間、罪科すべきと雖も、父
  資経(高庭の介なり)籐七資家を以て、伊豆の国迄送る事、子々孫々に至るまで更に
  忘れ難し。仍って本知行所相違有るべからずてえり。去る永暦御旅行の時、累代芳契
  の輩、或いは夭亡し、或いは以て変々するの上、左遷の身として、敢えて従うの人無
  し。而るに實経親族資家を副え奉る事、思し食し忘れざるが故なり。

[玉葉]
  今日、重衡東国に下向す。頼朝申請する所なりと。
 

3月13日 壬寅
  尾張の国住人原大夫高春召しに依って参上す。これ故上総の介廣常が外甥なり。また
  薩摩の守平忠度の外舅たり。平氏の恩顧を為すと雖も、廣常が好に就いて、平相国に
  背き、去る治承四年関東に馳参する以来、偏に忠を存ずるの処、去年廣常誅戮の後、
  恐怖を成し辺土に半面す。而るに今廣常罪無くして死を賜う。潛かに御後悔有るの間、
  彼の親戚等多く以て免許す。就中高春その功有るに依って、本知行所領元の如くこれ
  を領掌せしめ、奉公を抽ずべきの旨仰せ含めらると。
 

3月14日 癸卯
  遠江の国都田の御厨、元の如く神宮使に従い沙汰致すべきの由、定め下さると。
 

3月17日 丙午
  板垣の三郎兼信が飛脚去る夜鎌倉に到来す。今日、判官代邦通披露す。彼の使者の口
  状、その趣、貴命に応じ平家を追討せんが為西海に赴く(去る八日出京するなり)所
  なり。而るに適々御門葉に列なり、一方の追討使を奉り、本懐を為すべきの処、實平
  この手に相具しながら、格別の仰せを蒙ると称し、事に於いて所談を加えず。剰え西
  海の雑務と云い、軍士の手分けと云い、兼信が口入を交えず、独り相計るべきの由、
  頻りに結構す。始終此の如きたらば、頗る勇心を失うべし。西国に居住するの間、諸
  事兼信上司たるべきの旨、御一行を賜い、眉目に当てんと欲すと。この事曽って許容
  無し。門葉に依るべからず。家人に依るべからず。凡そ實平が貞心は、傍輩に混り難
  きの上、眼代の器を守り、西国の巨細を委付しをはんぬ。兼信が如きは、ただ戦場に
  向かい命を棄つべき一段なり。それ猶以て足るべからず。今の申状、過分と謂うべし。
  てえれば、使者空しく走り帰ると。
 

3月18日 丁未
  武衛伊豆の国に進発し給う。これ野出の鹿を覧んが為なり。下河邊庄司行平・同四郎
  政義・新田の四郎忠常・愛甲の三郎季隆・戸崎右馬の允国延等、御前の射手たるべき
  由定めらると。
 

3月20日 己酉
  去る夜北條に着御す。今日、大内の冠者惟義伊賀の国守護たるべきの由、これを仰せ
  付けらると。
 

3月22日 辛亥
  大井兵衛次郎實春伊勢の国に向わんと欲す。これ平家の家人宗たる者、潛かに当国に
  籠もるの旨、その聞こえ有るに依って、行き向かい征すべきの由下知せしめ給うが故
  なり。
 

3月23日 壬子 天晴 [玉葉]
  廣季只今入り来たりて云く、頼朝條々の事を院に奏す。その中下官摂政籐氏長者たる
  べきの由挙せしめをはんぬの由、廣元(廣季男なり)の許より告げ送る所なりと。即
  ちその正文御覧を経るべきの由、廣季申せしむと。当時摂政もしその恩有るべくんば、
  ただ一州を賜うこと無くとも足るべしと。件の状一見を加え返し遣わしをはんぬ。件
  の脚力去る十九日到来す。頼朝奏院の状、即ち廣元執筆し泰経卿に付すと。同二十一
  日御返事を遣わし、急ぎ左右を申すべきの由仰せらると。大略この事仰せられ然るべ
  からざるものなり。或る人云く、去る十一日、左衛門の尉公朝御使として下向す。即
  ちこの事頼朝の本意此の如きの由、予め風聞するに依って、その子細を仰せ遣わさる
  と。凡そこの事の次第、叡念に堪え難きを謂うべきなり。
 

3月25日 甲寅
  土肥の次郎實平御使として、備中の国に於いて釐務を行う。仍って在廰散位藤原資親
  已下数輩、本職に還補す。これ平家の為度を失う者なり。
 

3月27日 丙辰
  三品羽林伊豆の国府に着く。折節、武衛北條に坐せしめ給うの間、景時専使を以て子
  細を伺う。早く相具し当所に参るべきの由仰せらる。仍って伴い参る。但し明旦面謁
  を遂ぐべきの由、羽林に仰せらると。
 

3月28日 丁巳
  本三位中将(藍摺の直垂、立烏帽子を引く)を廊に請せられ謁せしめ給う。仰せに云
  く、且つは君の御憤りを慰め奉らんが為、且つは父の死骸の恥を雪がんが為、試みに
  石橋合戦を企つ以降、平氏の逆乱を対治せしむること、掌を指すが如し。仍って面拝
  に及ぶこと、不屑の眉目なり。この上は、槐門に謁するの事、また疑う所無きかてえ
  り。羽林答え申して曰く、源平天下の警衛たるの処、頃年の間、当家独り朝廷を守る
  なり。昇進を許す者八十余輩、その繁栄を思えば二十余年なり。而るに今運命の縮む
  に依って、囚人として参入する上は、左右に能わず。弓馬に携わるの者、敵の為虜え
  らるは、強ち恥辱に非ず。早く斬罪に処せらるべしと。繊介の憚り無く問答し奉る。
  聞く者感ぜずと云うこと莫し。その後狩野の介に召し預けらると。今日、武家の輩の
  事に就いて、仙洞より仰せ下さる事に於いては、是非を論ぜず成敗すべし。武家道理
  を帯する事に至っては、追って奏聞すべきの旨定めらると。

[玉葉]
  大除目たるべきの由、兼日謳歌す。而るに頼朝が申状に依って、珍事等止められをは
  んぬと。頼朝正四位下に叙す。もしこれ所望か。将又推して行わるるか。然れば同じ
  く直官に任ぜらるべきか。
 

3月29日 戊午 雨下る [玉葉]
  或る人云く、入道関白並びに摂政の許より、各々使者を頼朝の許に送る。或いは貨物
  を送り、或いは陳状有りと。下官ただ仏神に奉仕するのみ。